第2章 きみを引きとめるためならば 7


 一息に言いきった瞬間、後悔がレティシアを貫く。いくら激昂したとはいえ、助けてくれた恩人に手を上げるなんて最低だ。


 だが――レティシアと結婚するなど、ヒルベウスは一体何を考えているのか。


 レティシアは結婚なんて、一生、決してしないと誓っている。ましてや、子を産むだけの処女が必要な男など、論外だ。


「助けてくださったご厚意には、心から感謝します。ですが、私とヒルベウス様では住む世界があまりに違います。もう二度とお会いすることもないでしょう」


 言うなり、身を翻す。

 ここに留まっていては、抜け出せない泥沼に沈んでしまいそうだ。


「待っ――」


 ヒルベウスに手を掴まれ、再び引き寄せられる。身をよじって逃げようとしたのと、扉が開いたのは、同時だった。


「失礼します! ヒルベウス様、大変です! だん――」


 息せき切って駆けこんできた奴隷が、ヒルベウスと腕の中にいるレティシアを見て、絶句する。


「……何の騒ぎだ。わざわざ伯父上の屋敷まで訪ねてきて」


 わざとらしく咳払いしたヒルベウスがレティシアから身を離して奴隷に向き直る。だが、左手でしっかとレティシアの手を掴んでいるので、逃げたくても逃げられない。


 主人の声に奴隷が我に返る。


「大変です!」

 と再び声が上擦うわずる。


「つい先ほど、ノリクム属州(現在のオーストリア辺り)のカルヌントゥムから使いがやってきまして……。属州でゲルマン人の大規模な反乱が起こったそうです! 更に、ゲルマン人の一部族、クォーデン族との戦闘で、だんな様がゲルキンという者に大怪我を負わされたとのこと!」


「父上が⁉ 大怪我というのはどの程度だ!? 命に別状はないのか⁉」

 ヒルベウスが顔色を失う。矢継ぎ早の質問に、奴隷は情けない顔でかぶりを振った。


「使いの者は、だんな様が怪我をしてすぐ向こうを発ったそうで、詳しい経過は知らないそうです。ただ、落馬して足を骨折し、出血もあったそうで……」


「お義兄様が亡くなった可能性もあると!? それは駄目よ! お義兄様はまだロクスティウス家の後継者をはっきりさせていないもの! サビーナの入れ知恵で、万が一タティウスが継ぐことになったら……我が家は破産だわ!」


 悲鳴のような声で割って入ったのはセビリアだ。


「タティウス達はまだ知らせを受けていないんでしょうね!?」


「いえ、タティウス様は屋敷におられましたので、一番初めに報告を受け……。タティウス様はすぐにカルヌントゥムにお発ちになるそうです。わたしは、ヒルベウス様にもお知らせしなければと、こちらへ来た次第で……」


「タティウスが出立ですって⁉ ヒルベウス、あなたもすぐに向かわなくては! タティウスが、お義兄様が弱っているのをいいことに、家督を彼に譲るような遺言書を書かせたら一大事だわ!」


 レティシアには、セビリアが焦っている理由がわからない。漠然とヒルベウスには跡目争いをしている身内がいると推測するだけだ。


「金切り声でわめかなくても聞こえています」


 ヒルベウスが心底鬱陶しそうな顔でセビリアを見る。感情の見えない冷徹な表情は、思わず身をすくませてしまうほどだ。


「むざむざタティウスに家督を奪われる気はありません。わたしもすぐに出立します。色々と準備がありますので、これで」


 ヒルベウスはもう用はないと言わんばかりに、返事も待たずにきびすを返す。手を掴まれたままのレティシアも従うほかない。


 レティシア自身、伯父に伝えるべき事柄はすべて伝えた。


 ケルウス家に迎えてもらう気はないので、もう会う機会もないだろう。ヒルベウスが先ほどの戯言ざれごとを実行に移さない限り。


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