第2章 きみを引きとめるためならば 8
「いい加減、手を放してください!」
レティシアと奴隷を従え、
「また平手打ちを食らってはたまらないからな」
「それは……っ」
その隙にヒルベウスは奴隷を振り返って、小声で指示を出した。一礼した奴隷が応接室に戻っていく。
レティシアはいたたまれなさに深く頭を下げた。
「手を上げたことは深くお詫びいたします。ですが、いくら私が田舎者でも、結婚するなどという冗談は、
睨んだレティシアの目に入ったのは、ヒルベウスの戸惑った表情だった。
「わたしは、冗談で結婚するなどとは言わない」
生真面目な声に、再び怒りが湧き上がる。
「本気だとしたら、
蔑みの言葉を投げつけられた最悪の出会いから、まだ数刻も経っていない。一体、どういうつもりで結婚など宣言したのか。
「たとえ数刻でも、相手を知るのには十分な時間だ」
「ご冗談を! 私は絶対に結婚などしません!」
手を握られたままでなかったら、もう一度、平手打ちしていたところだ。
「理由は?」
淡々とした声で問われて、レティシアは唇を噛んだ。
理由なら腐るほどある。身分の違い。親族の反対。意志の確認一つなく、結婚を宣言したヒルベウスの
一つ一つあげつらおうとしたレティシアの口から飛び出したのは、自分でも予想しない言葉だった。
「私はあなたの所有物ではありません! 将来を勝手に決められるのは心外です。それに、私は誰とも結婚しないと決めています!」
睨みつけて言い切ると、なぜかヒルベウスは口元を緩めた。
「誰とも、か。ということは、わたしが
「き、嫌いでは……」
じっと見つめる黒い瞳から逃げたくて、
「ヒルベウス様には恩がありますから……」
「では、可能性がないわけではないと?」
「私の言葉を聞いてらっしゃいます⁉ 私は誰とも結婚しません!」
「なぜ?」
問われて、レティシアは再び唇を噛んだ。理由を告げることはできない。絶対に。
レティシアの様子に何を思ったのか、ヒルベウスは掴んでいた手を放した。代わりに、そっと背中を押される。
「ここで騒いでは迷惑だ。とにかく一度屋敷に戻ろう。出発の準備もせねばならんしな」
「……お父様が、ご無事でいらっしゃるといいですね」
敬愛する父を突然喪った時の悲しみは、一月経った今でも、気を抜くと涙がこぼれそうだ。ヒルベウスの後を歩きながら、レティシアは心からの祈りを込めて言った。
「どうぞ、ノリクム属州までお気をつけて」
ノリクム属州はローマの北東、
街路へ出たヒルベウスは、驚いた顔で振り返った。ぶつかりそうになって、慌てて立ち止まる。
「何を言っている? もちろん一緒にカルヌントゥムまで来てもらうつもりだ」
「なぜですか!?」
「君が婚約者だからだ」
「はっきりお断りしました!」
「わたしが不在の間、屋敷に義母と二人で留めておくのは忍びない」
「お屋敷に留まるなんて滅相もない! これ以上、ご迷惑をかける気はありません。宿くらい自分で見つけます」
「当てもないのにか?」
レティシアを見るヒルベウスの表情は、駄々っ子を前にした時の顔だ。
確かにレティシアは首都のことを何も知らない。頼れる者もいない。不安を押し隠して、レティシアはヒルベウスを見上げた。
「もともと、ローマで一人で生きていく気で故郷を出てきたんです。自分で何とかできます!」
ヒルベウスが洩らした溜息は、呆れか、それとも諦めか。
「では、言い方を変えよう。わたしは医者としての君に同行願いたい。先ほどの治療の手際は見事だった。父の容態はわからぬが、君が来てくれたら助かる」
「ローマ軍には、必ず軍医がついているはずですが?」
ヒルベウスは軽く肩を
「その通りだ。だが、戦闘後となれば、負傷者はごまんといる。とても軍医だけの手には負えん。司令官といえど軍医を独り占めするわけにはいかぬからな。そこで、君に父を看てもらいたい」
レティシアは唇を噛んだ。父は、どんな患者も見捨てたりはしなかった。亡き父を師と仰ぐレティシアも、父の理想を追いかけたい。だが……。
「これは契約だ。カルヌントゥムから帰ってきても君の心に変わりなければ、相応の報酬を払って、以後、求婚することはやめよう。それに……君は、医者として助けを求める者を見捨てまい?」
最後の一言が決め手だった。
「……わかりました。一緒に参ります」
ほ、と表情を緩ませたヒルベウスに、すかさず続ける。
「ただし、報酬としていただくのは、治療費として適正な額だけです。過度な金額は絶対に受け取りませんから!」
「くっ……はははははっ」
ヒルベウスからこぼれた明るい笑い声にレティシアは驚いた。
初めて見るヒルベウスの大笑いだ。鉄でできているような堅苦しい顔つきが、笑うと途端に親しみやすい印象に変わる。
「君を選んだわたしの目に、狂いはなかったらしい」
ヒルベウスがなぜ楽しそうに笑うのか、さっぱり訳が分からない。ひとしきり笑ったヒルベウスに促されて、歩き出す。
血で汚れた服のせいか、道行く人々がちらちらと視線を送ってくるが、幸いヒルベウスは気にしていないらしい。ヒルベウスに変な噂が立たなければよいがと心配していると、不意に横から声をかけられた。
「伯母上の言ったことがさっぱりわからなかっただろう。少し、説明しておこう」
タティウス達との関係を説明される。
「順当にいけば長男のわたしが跡継ぎだが、
ヒルベウスは疲れたように吐息した。
「親父殿がはっきり決断を下してくれればよいのだが、まだ遺言書も作っていない状態だ。今、親父殿に何かあれば、下手すれば兄弟で血で血を洗う羽目になる。……まあ、いずれそうなるだろうがな」
兄弟がおらず、継ぐべきほどの家格を持たないレティシアでさえ、「家を継ぐ」という重大事は理解できた。
ましてや元老院議員階級で裕福なロクスティウス家なのだ。兄弟の争いは根深く激しいのだろう。
腹違いの弟との争いに
「ヒルベウス様自身は、家を継ぎたいと思ってらっしゃるのですか?」
疑問を口にすると、ヒルベウスは虚を突かれたように目を見開いた。
「当然だ。物心つく前から、当主になるべしと育ってきたんだ。みすみす弟に奪われる気はない」
言い切ったヒルベウスの黒い瞳には、冷たく固い意志の光が見える。が、レティシアを振り返った眼差しには、気遣いが宿っていた。
「そういう訳で、義母やタティウスが君に不愉快な思いをさせることがあるかもしれない。わたしも気をつけておくが、もしそんな事態が起こったら、遠慮なく言ってくれ」
「大丈夫です。私は単なる雇われ医師にすぎませんから」
あえて突き放すように言うと、ヒルベウスはからかうように苦笑した。
「だが、あちらがどう誤解するかはわからないからな」
「誤解を与えるようなことをおっしゃらなければいいんです」
ぴしゃりと言うと、ヒルベウスは笑みを深くした。
「一応、努力はしよう」
「努力では足りません!」
ヒルベウスは本気でレティシアと結婚する気なのだろうか。
いいや、絶対に一時の気の迷いで宣言しただけに決まっている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます