第2章 きみを引きとめるためならば 9


 ロクスティウス家に戻ると、門番がレティシアの血に汚れた服を見て目を見開いた。今日は門番を驚かせてばかりだ。


 玄関広間アトリウムに入ると、ヒルベウスがレティシアを振り返る。


「侍女に手伝わせる。着替えをしてくるといい」

「着替えくらい、一人で大丈夫です」


「旅の支度もあるだろう。明日の夜明けにはローマを発つ。必要な物があれば、何でも言ってくれ」


 ヒルベウスも色々と支度があるのだろう。返事も待たずに、一方的に言って去っていく。




「レティシア。もう着替えは済んだか?」


 しばらく後。着替えを済ませたところで、ヒルベウスが扉をノックした。「はい」と扉を開けた途端、柔らかいものがぶつかってくる。


「先ほどは助けていただき本当にありがとうございました! 誠心誠意お仕えいたします!」


 レティシアの両手をしっかと握り締め、何度も頭を下げる女奴隷は、先ほどケルウス家で傷を診た女奴隷だ。なぜ、彼女がここにいるのか視線で問うと、ヒルベウスはレティシアを見て小さく笑った。


「伯父上に頼んで、我が家に貰い受けてきた。伯母上に睨まれて、あの家で働き続けるのは辛いだろうからな。ちょうど、君につける専属の侍女も必要だった」


「申し遅れました。モイアと申します。ご恩を返せるよう、精一杯お仕えいたします!」


 レティシアの両手を握る手に更に力を込めて、モイアが意気込んで言う。ガリアかゲルマン(現在のフランス、ドイツ辺り)の出身なのだろう。金茶の髪と目のモイアは、レティシアより頭半分は背が高い。圧迫感につい腰が引ける。


「じ、侍女なんて」


 今まで、侍女を使った経験などない。レティシアはとんでもないとかぶりを振った。


「長旅なのに、侍女がいなくては不便だろう?」


 ヒルベウスはさも当然とばかりに言うが、何でも自分でしてきたレティシアには、どんな用で侍女がいるのか想像がつかない。


 沈黙をどう受け取ったのか、ヒルベウスが呆れを含んだ声で言う。


「いくら求婚している身とはいえ、いや、だからこそ婚前の女性を男達の中に一人で放り込むような真似はしないぞ、わたしは」


 ヒルベウスの発言を聞いたモイアが息を飲む。


「ヒ、ヒルベウス様!」

 慌てたレティシアがヒルベウスの発言を取り消すより早く。


「あら、面白そうな話をしているのね」

 冷ややかな声が割って入った。


「あなたの婚約者はフルウィアとばかり思っていたけれど。いつの間に、そんなみすぼらしい娘に取って代わったのかしら?」


「フルウィアとの婚約は破棄しましたよ、義母上。彼女も異議はないでしょう」


 挑むように告げ、ヒルベウスが声の主を振り返る。振り向きざま、ヒルベウスが隠すように前に立ったが、レティシアは声の主の冷ややかな眼差しをはっきりと見た。


 刺繍が施された豪華な絹のストラ。やや険のある美貌と堂々たる立ち居振る舞い。ヒルベウスが話していた義母サビーナに違いない。

 サビーナは半歩、横に踏み出すとレティシアを頭の先から爪先まで値踏みした。


「ずいぶん貧相な娘だこと。結婚しても何の益もなさそうね。気でも狂ったの?」

 サビーナは紅を塗った唇に嘲笑を刻む。


「好きにしたら? わたくしは祝福してあげましてよ」


 侮蔑を隠そうともしないサビーナの声音に、レティシアは唇を噛み締めた。


 我が子を跡取りにしたいサビーナにしてみれば、ヒルベウスの結婚相手は、何の後ろ盾もない娘の方が有利になってよいのだろう。


「祝福ありがとうございます。ところで、何か用があったのでは? もしや、義母上もノリクム属州へ行かれるので?」


 全く感謝していない平坦な声で礼を言い、ヒルベウスが話題を変える。サビーナは口元に手を当て、馬鹿にしたように笑った。


「まさか! わたくしは今日は大切な饗宴がありますもの。夫の留守を守るのが妻の務め。タティウスがちゃあんとわたくしの分まで、だんな様に思いを伝えてくれるわ」


「父上が生死の境を彷徨っているかもしれぬ時に饗宴とは、妻の務めとはずいぶん気楽なようだ」


 ヒルベウスの声は万年雪より冷ややかだ。サビーナは気にした様子もなく紅い唇に笑みを刻んだ。


「有力議員とよしみを結んでおくのは、必ず、将来の為になるもの。立派な務めよ」


「将来、ですか。誰の将来の為やら」


 ヒルベウスの呟きを無視してサビーナは今までレティシアの世話をしていた侍女に視線を向ける。


「ヒルベウスの用より、わたくしの髪を結ってちょうだい。五日前の饗宴で結った流行の髪型、あれがいいわ」


 言いたいことだけ言い、サビーナはさっさと背を向ける。


「こちらは後でいい。先に義母上の用を済ませてくれ」

 ヒルベウスの顔をうかがっていた侍女が、頷いてサビーナの後を追う。


「すまない。不快な思いをさせたな」


 振り返ったヒルベウスが詫びる。レティシアはかぶりを振った。

 侮蔑の言葉を投げられるのは、故郷にいた頃から日常茶飯事だ。


「慣れていますから、大丈夫です」


 強がりではなく本心から言うと、なぜかヒルベウスは目を怒らせた。


「そんなものに慣れる必要はない。それに、慣れているなんて嘘だろう」


 不意に伸ばされたヒルベウスの指先が、唇に触れる。温かく乾いた指先が下唇をなぞり、レティシアは思わず洩れそうになった声を必死でこらえた。


「ほら。唇に噛んだ跡がついている。言い返したいのを我慢していたのだろう?」

「違……」


 唇を噛むのは、故郷にいた時分からのくせだ。言い返せば、母の癇癪かんしゃくがますますひどくなるばかりだったから。だから、まだ幼い頃から、唇を噛んで黙って耐え忍ぶ癖を身に着けた。


 サビーナに言い返す気などなかったと告げたいのに、うまく言葉が出てこない。

 と、ヒルベウスが自分の大胆さに気づいたように、慌てて手を引っ込める。


「失礼した。……支度には、別の者を寄越そう。君は少し休むといい。明日からは長旅だ。今日は、色々なことがあり過ぎて疲れただろう」


 ヒルベウスの言う通り、今日は様々な事件があり過ぎた。本当は今にも座り込みたいほど疲れている。


「ありがとうございます。確かに休む必要がありそうです」


 レティシアは気遣いに感謝して、素直に頷いた。


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