第4章 夢の向こうに揺れる面影 4


「ヒルベウス様、よろしいですか?」

 オイノスが扉を叩く。

 許可を得て入ってきたオイノスが、寝台を目にした途端、ぎょっと目を見開いて立ち止まった。


「お前が想像を働かせる余地はない。看病疲れで、椅子に座ったまま眠ってしまったんだ。他の部屋に運ぶ余力もなかったんだ。仕方ない」


 ヒルベウスはそっけなく告げる。入室を許したのも、オイノスならば、余計な噂を広めまいと信用しているからだ。


「まずはお詫び申し上げます。エウロスの裏切りを見抜けず、このような事態を招きまして申し訳ございません。しかも、ヒルベウス様の危機に咄嗟とっさに動けず、この罰はいかようにもお受けいたします」


 固い表情に色濃く後悔の色を浮かべて言い募るオイノスを、片手を上げて制する。

「済んだことはもういい。エウロスが義母上の手の者だと見抜けなかったわたしにも責はある。気にするな」

「ですが……」

「レティシアのおかげで命は助かった。お前に罰を与えようなど、考えてもいない」

 きっぱり宣言すると、ようやくオイノスは引き下がった。


 オイノスがまじまじとレティシアの無防備な寝顔を見つめている。その目に感嘆の色が見える。おそらくは、自分が倒れた時のレティシアの対応に感心したのだろう。


 だが、気に食わない。

 そっと毛布を引き上げ、レティシアの寝顔を隠す。


「年頃の女性の寝顔を、まじまじと見るものではない」

 しかつめらしく告げると、オイノスは横を向いて吹き出すのを我慢しようとし――失敗して盛大に咳き込んだ。


「……失礼しました。ところで、今後の予定はいかがいたしましょう? 昨日の内に、いつでも出立できるよう馬車を借り上げ、荷物も積み込んでおります。エウロスが買った食料品も、念のため全て買い直しました」


「そうだな。用心するに越したことはない。ところで、エウロスについては何かわかったか?」

 オイノスが残念そうにかぶりを振る。


「昨日、港で集めた噂では、若い男の水死体を見た漁師がいるそうです。死体はそのまま沖へ流れていったので、わたしも本人だと確認したわけではありませんが、おそらくエウロスかと。動機に関しては、何もわかっておりません」

「そうか」

 ヒルベウスは僅かに考え込んだ。


義母上ははうえがエウロスを使って俺を亡き者にしようとしたことを考えると、父上の身が心配だ」

「まさか! ご主人様にまで害をなすとは……っ」

 オイノスが衝撃を受ける。


「わたしも、そこまでするとは考えたくない。少なくとも、タティウスに家督を継がせるという遺言書を書かせるまでは、何としても父上に生きていてもらう必要があるからな。だが、父上が今どういう状況なのか、情報がない。もしも、だ。遺言状に使う印章指輪を手に入れたら、タティウスに有利な遺言書を偽造して、邪魔者は消すという可能性もある」


 ヒルベウスの暗殺にタティウスがどれほど関与しているのかはわからない。だが、暗殺などと手段を選ばなくなってきた点を考えると、最悪の事態も想定しておくべきだろう。


「できれば、レティシアをゆっくり休ませてやりたいが……」

 隣で眠るレティシアの柔らかな髪を優しく撫でる。

 昨日、毒を盛られた身で、もう旅を続けるといったら、断固、反対しそうな気がする。医者の顔をしている時のレティシアは、岩のように頑固だ。


「……仕方ない。レティシアが眠っている間に出発しよう」

「お加減は大丈夫なのですか?」

 オイノスが気遣わしげに尋ねる。ヒルベウスは安心させるべく、強い口調で頷いた。


「胃は痛むが、寝ていたところで治りが劇的に早くなるものでもなかろう。どうせ馬車に乗っているだけだ。問題はない」

「そうおっしゃられるのでしたら……。準備が整い次第、出立いたしましょう」


 ◇ ◇ ◇


 レティシアにとって、父親は、深い愛情で照らしてくれる太陽であり、目指すべき道標みちしるべとなる星だった。


 父に褒められたくて、どれほど頑張っただろう。医術について語る父の言葉を一言も聞きもらすまいと耳を澄ませ、薬草を探して足の豆が潰れるほど野山を歩き――。


「すごいな、レティシアは。さすが自慢の娘だ」

 父だけが、レティシアの存在を認めてくれた。父の笑顔と褒め言葉さえあれば、他に何もいらなかった。それなのに……。


 ガラガラと響く馬車の音が、レティシアの記憶を掘り起こす。

 一ケ月半前の雨の日。父親が乗った馬車が谷底に落ちたという知らせが届いた日を――。


 耳に飛び込む車輪の騒音が現実の音だと気づいて、レティシアは眠りから覚めた。

「すまない。起こしたか」

 髪を撫でていた手が止まる。大きな優しい手が、父の記憶を呼び起こす契機になったのだろうか……。


「ヒ、ヒルベウス様⁉」

 自分がどんな状況なのか理解した途端、頬がかっと熱くなる。レティシアはヒルベウスに膝枕されていた。


「一体……?」

 呆然と呟いた耳に、馬車が石畳を走る音が、途切れなく飛び込んでくる。


 明らかに宿ではない。いつの間に移動したのだろう。いや、それより。


「安静になさらなくてはいけないのに、どういうことですか⁉」

 恥ずかしさも忘れて起き上がり、食ってかかる。


「昨日倒れられたばかりなんですよ! それなのに、もう出発なさるなんて……。もっとご自分を大切になさってください!」


 呆気あっけにとられた顔でレティシアを見ていたヒルベウスが、こらえきれないとばかりに吹き出す。

「笑っている場合ではありません!」

 なぜヒルベウスが吹き出したのか、見当がつかない。からかわれているのかと、頬がますます熱くなる。


「すまない。君の反応があまりに予想通りだったのでな」

 笑いをおさめたヒルベウスが、落ち着いて座るようにと隣を指し示す。


「いえ、私は向かいで結構です」

 断って立ち上がるが、馬車の揺れにふらついてしまう。転びそうになったレティシアをヒルベウスは危なげなく抱きとめた。


「走っている馬車の中で、急に立ち上がると危ないぞ」

「す、すみません」


「いや、わたしも悪かった。反対されるだろうと、君が眠っている間に黙って出発したのだからな。文句を言われて当然だ」

 レティシアを隣に座らせ、ヒルベウスが謝る。レティシアは慌ててかぶりを振った。

「文句だなんて。私は……」


「知っている。わたしの体調を心配してくれたのだろう?」

 言い当てられ、素直に頷きそうになったのを堪える。


「私は医者ですから。患者の心配をするのは当然です」

 これほどヒルベウスが心配なのは、初めて父の手助けなしで処置した重篤な患者だからだ。

 自分が一人前の医者だという自信は、全くない。毒の種類だって特定できなかった。だから、心配なのだ。決してヒルベウス個人を大切に思っているからではない。


 自分の心に言い聞かせる。ヒルベウスはレティシアの強がりを気に留める風もない。


「心配はもっともだが、君の薬のおかげで、ずいぶん楽になっている。プルスだって全部食べられた」

 ヒルベウスの口元に揶揄からかうような笑みが浮かぶ。


「少なくとも、君を馬車へ抱き上げて運ぶ程度にはな」

「お、起こしてくだされば、自分で歩きましたのに」

 出会った日に花嫁のように抱き上げられたことを思い出して、ただでさえ熱い頬がますます熱くなる。顔から湯気が出そうだ。


 視線を避けてそっぽを向くと、不意に耳朶じだにヒルベウスの指先が触れた。

「ひゃっ」

「髪がほつれて落ちているぞ」

「す、すみません」

 寝ている間に乱れたのだろう。耳へかき上げようとした手がヒルベウスの手にぶつかる。咄嗟に引っ込めようとした手を優しく掴まれた。


「細い指だな……。こんなにたおやかな手で、わたしを冥府に落ちる前に引き戻すとは、大したものだ」

「あの、放してください」

 そっぽを向いたままの懇願をヒルベウスは無視する。


 柔らかく温かいものが指先に触れる。唇だと気づいて、たまらず振り返る。


「放してくださいと……っ」

 吸い込まれるようなヒルベウスの黒い瞳にぶつかると、言葉が続かず、うつむいてしまう。


 駄目だ。看病以来、距離感を誤っている気がする。

 自分はただの雇われ医者で、ヒルベウスとは、本来なら一緒に馬車に乗れるような身分ではないというのに。この近さは、いけない。


 ヒルベウスはまだ手を握ったままだ。昨夜に似た状況に、レティシアはヒルベウスが夢の中で呼んだ名を思い出す。

 婚約を破棄した事情は知らないが、ヒルベウスの心の中には、まだ彼女が住んでいるに違いない。


 あれほど切なげに名を呼んで、行かないでくれと懇願していたのだから。


 ヒルベウスの求婚は、単なる気まぐれにすぎないのだ。

 夕べのヒルベウスの声音を思い出した途端、胸の奥がずきりと痛む。


 昨夜は無視してしまった痛みに改めて気づかされ、レティシアは痛みを覚えた自分自身に狼狽うろたえた。


 ヒルベウスが求婚を取り下げるのは、レティシアの望みだったはずだ。婚約者とよりを戻すのは歓迎すべき事態だ。


 なのに、どうして締め付けられるように胸が痛いのだろう?


 自分の立場を今一度自覚せねばと、心の底から思う。フラウディアがどれほどヒルベウスにふさわしい女性かを知れば、分不相応な想いを抱く余地も消えるに違いない。


「あの、ヒルベウス様……」

「なんだ?」

「ヒルベウス様の婚約者は、どんな方なのですか?」

 尋ねた瞬間、ヒルベウスの拳が握り込まれる。


「っ」

 手の痛みに思わず声が洩れるが、ヒルベウスには届かなかったようだ。


「聞いて、どうする?」

 底冷えする声が問い返す。ケルベロスの唸り声かと錯覚する声に喉が凍りつく。


「君には関係のないことだ」

 無慈悲なほどきっぱりと断言され、言葉を封じられる。


 自分は話を聞く価値もないということだろうか。

 レティシアは口をつぐんでうなだれた。


 ◇ ◇ ◇


 婚約者のことを聞かれた瞬間、凶暴な感情に支配される。大切していた婚約者に「つまらない男」と罵られ、不貞を働かれた屈辱が胸を焦がす。


 親同士が決めた婚約者とはいえ、ヒルベウスなりにフルウィアを大切に思っていた。

 贈り物をし、喜ぶ顔を見るのが好きだった。わがままに振り回されるのも嫌いではなかった。かつて、大切にしていた少女を連想させて――。


 金しか取り柄のない、つまらない男。


 確かに、そう言われても仕方あるまい。婦女子が喜ぶような気の利いた台詞を言える性格ではないし、浮名を流すような遊び人でもない。

 だが、だからといって婚約者を裏切り、よりによって友人と過ちを犯していいはずがない。


 胸がむかむかする。このむかつきは決して毒のせいだけではあるまい。思い出したくもない過去を無遠慮に突かれて気持ちがすさむ。


 なぜレティシアは急に、フルウィアのことなど聞くのだろう。フルウィアとの婚約は終わった話だ。レティシアには何一つ関係ない。


 見栄っ張りだとなじられても、婚約者に浮気されたなどという話は、決して知られたくない。


 ヒルベウスはそっとレティシアの様子を窺った。

 つい反射的に厳しい物言いをしてしまった。うつむいたレティシアは黙ったままで、表情もよく見えない。


 謝ることも、かといって器用に別の話題を振ることもできず、ヒルベウスは重苦しい沈黙をひたすら耐えた。

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