第4章 夢の向こうに揺れる面影 3


 なまりを詰め込まれたように体が重い。

 ヒルベウスは苦労して重いまぶたをこじ開けた。


「ヒルベウス様! ご気分はいかがですか⁉」

 心配そうな、同時に嬉しさが隠しきれない様子のレティシアの声が降ってくる。

「ああ……」

 答える声はかすれて音にならない。


 なぜレティシアが目覚めと同時にいるのだろう、と夢現ゆめうつつの頭で考える。都合のよい夢を見ているのだろうか?


 上半身を起こそうとすると、止められた。

「無理をなさらないでください。ゆっくり休まれなくては」

 レティシアの言葉に、意識を失う前の記憶が雷のように甦る。


「エウロスはどうした⁉」

 意気込んで問うと、レティシアは力なくかぶりを振った。


「海に落ちましたが、その後はわかりません」

「そうか……」

 記憶を掘り返したヒルベウスは、エウロスの所在よりも重大事を思い出した。


「そんなことより! 君は怪我をしていないか⁉」

 短剣で襲われた時、レティシアが前に飛び出したはずだ。咄嗟とっさに突き飛ばした気はするが、もし怪我をしていたら……!


 体中の血の気が引く。我知らず拳を握りしめようとして、初めて手の中にある柔らかなものに気がついた。

 視線を落として、握りしめているのがレティシアの手だと気づく。


「あの、私はどこも怪我しておりませんので……」

 ぎこちないレティシアの態度に、慌ててぱっと手を放す。

 どうしてレティシアと手を繋いでいたのだろう。いや、それよりも。


「刃の前に飛び出すなんて無茶な真似は、二度としないでくれ! もし君が怪我でもしたら、我が身の不甲斐なさを悔んでも悔やみきれない!」


 厳しい口調で叱ると、しゅん、と細い肩が落ちる。慌ててヒルベウスは言い足した。

「前にも言っただろう。医者は君だ。君が怪我をしたら、誰が看る? わたしは軍務の経験もある。たとえ素手でも、経験のない人間にそうそうおくれはとらない」

「すみませんでした。無我夢中で……」


「ヒルベウス様! お目覚めになられたんですね! よかったあ!」

 レティシアの背後で突然上がった素っ頓狂とんきょうな声は、モイアだ。視線を向けると、床に敷いた毛布からモイアが起き出していた。


「本当によかったです! 昨日は全然、目を覚まされなくて……」

 言い募るモイアを手で制し、レティシアを見る。


「昨日、気を失ってから何があったか説明してくれ。わたしは随分ずいぶん長い間、気を失っていたのか?」


「説明いたします。ですが、診察が先です」

 レティシアが珍しく有無を言わさぬ口調できっぱりと告げる。


 診察が終わると、レティシアに尋ねられた。

「食欲はおありですか? おありなら、薬草入りの小麦粥プルスをお持ちしますが……」


 正直、食欲は全くない。が、ヒルベウスは強いて笑みを浮かべた。

「少しなら、食べられるかもしれん。それに薬草入りなら食べた方がいいのだろう?」


「では、少しだけお持ちします。食べてみて無理なら、やめてください。弱っている胃に負担をかけるのも、よくありませんから」

「用意してまいります!」

 元気よく声を上げたモイアが、戸口へ進みかけ、ふと思い出したように振り返る。


「あの……。もし、他の方にヒルベウス様の容体を尋ねられたら、何とお答えすればいいでしょうか?」

 モイアの問いに、レティシアも気遣きづかわしげにヒルベウスを見る。二人の表情の意味を察して、ヒルベウスはゆっくりとモイアを見た。


「意識が戻って、粥を食べられるくらい回復したと、正直に伝えてくれて構わない」

 物言いたげな二人に向かい、安心させるように笑う。


「もし、わたしを害したい者がいるのなら、既に何らかの行動を起こしていたはずだ。わたしが意識を失っている昨日ほど、絶好の機会はなかったのだからな。それに、そう何人もが買収されているとは思えない。今いる供達は信じていい」

 強い声で断言する。


「わかりました! 聞かれたら、ヒルベウス様はもう安心だと伝えておきます!」

 ほっとした表情でモイアが部屋を出ていく。


「すまなかった。酷く心労をかけてしまったな」

 手を取って詫びると、レティシアは「とんでもありません!」と激しく首を横に振った。


「申し訳ありません! 私が最初に毒に気づいていたら、辛い思いをさせずにすみましたのに……っ」

 レティシアの端正な顔が後悔に歪む。思わずその腕を引き、抱き締める。


「違う! 決して君のせいではない」

 華奢な背に腕を回す。


「エウロスを信じて油断したわたしの責任だ。もっと気をつけるべきだったのに、まさか毒などという卑劣な手段を使うとは予想していなかった。わたしの認識の甘さのせいだ」


 義母が自分をうとましく思っているのは知っていた。だが、毒殺されるほど憎まれているとは、予想していなかった。

 今回の件は、決してレティシアの責任ではない。むしろ、レティシアの迅速な処置がなければ、サビーナの思惑通り、冥府に旅立っていたかもしれないのだ。


「わたしが無事でいられたのは君のおかげだ。礼を言うことはあれ、非難するなどとんでもない。だから、自分を責めたりしないでくれ」

 胃はまだ痛み、体は重い。だが、レティシアが胸の中にいるのだと思うと、体の奥から不思議なほど力が湧いてくる。


 嫌がられるかと思ったが、レティシアは大人しく抱きしめられている。いや、うついた肩が微かに震えている。


「どうした⁉」

 抱きしめられたのが泣くほど嫌だったのかと、血の気が引く。細い肩を掴んで引き剥がすと、


「す、すみません」

 レティシアが俯いたまま、顔を背けた。頬を伝う涙を見て、ヒルベウスは思わず逆上しそうになる。


「その、ヒルベウス様が御無事だと実感した途端、安堵のあまり気が緩んでしまって……。驚かせてしまって申し訳ありません」

 涙をぬぐい、振り返ったレティシアが微笑を浮かべる。


「医者なのに、まだまだ修行が足りませんね。自分の身近な人だと思うと、途端に動揺してしまって」


 身近な人。

 その一言で心が弾んだ。我ながら単純だと思う。

 しかし同時に、自分がどれほどの心労をレティシアにかけたか痛感して、いたたまれない。

 手を伸ばして、レティシアの頬に残る涙をそっとぬぐう。


「心労をかけて、すまなかった」

 手を添えた頬は、絹のようにすべらかだ。濡れた栗色の瞳と視線が合う。


「お待たせいたしました」

 扉がノックされ、ヒルベウスは慌てて手を離した。頬を染めたレティシアもそっぽを向いて扉に向かう。

 入ってきたモイアがプルスの椀と匙をヒルベウスに差し出す。


「用意が早いな」

 動揺を隠して言うと、モイアが自慢げに胸をそらした。


「ヒルベウス様の為に、昨日からレティシア様が準備なさっていたのです。それに、温めすぎないように言いつかってましたから」

 器を受け取って食べ始めると、モイアが遠慮がちに口を開く。


「あのう、オイノスさんがご迷惑でなければ、お顔を拝見したいとおっしゃっていました。今後の予定も確認したいと」

「わかった。これを食べ終えたら会おう。レティシア達も朝食がまだだろう。食べてくるといい」


「いえ、ヒルベウス様が食べ終わられるまでは、念の為、おそばにいます。モイア、あなたは先に食べてくるといいわ。終わったら交代してもらうから」

「ですが……」

 言いかけたモイアのお腹がぐぅ、と鳴る。レティシアは優しく笑った。


「ほら。おなかは正直よ?」

「では、お言葉に甘えさせていただきます」

 ぺこりと一礼してモイアが部屋を出ていく。


「わたしは一人で大丈夫だ」

 告げたが、案の定レティシアは取り合わない。仕方なく、大人しく粥をすする。


 顔を合わせづらく、器に視線を落として黙々とプルスを口に運ぶ。

 器の半分を過ぎたところで、妙にレティシアが静かだと気がついた。視線を向けると、椅子に座ったまま微かな寝息を立てている。


 ヒルベウスはようやく己の迂闊うかつさに気がついた。

 床に敷かれた毛布は一組しかない。レティシアの性格だ。意識のないヒルベウスを放ってのうのうと寝るとは思えない。


 何より、ヒルベウスが手を握っていたのだ。横になりたくても不可能だっただろう。おそらく、昨夜はほとんど眠っていないに違いない。


 レティシアは椅子の上で危なっかしく船をこいでいる。ヒルベウスは器を手早く窓際に置くと、腕を伸ばして体を支えようとした。

 手が触れた途端、レティシアの体がかしぐ。


「おっと」

 すんでのところで上半身を抱きとめる。一瞬、悩むが、部屋にある寝台は一つきりだ。

 ヒルベウスは上半身を屈めてレティシアの膝の後ろに腕を入れ、華奢な体を寝台の上に持ち上げた。体に力を入れると胃が痛むが、かまっていられない。


 レティシアを自分の隣に横たえ、毛布を掛ける。すやすやと眠るレティシアは起きる気配もない。労りをこめて栗色の柔らかな髪を何度か撫で、ヒルベウスは残りの粥に取りかかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る