第4章 夢の向こうに揺れる面影 2


 胃が熱い。焼きごてを当てられたようだ。痛い。


 胸元を掻きむしろうとした手を、誰かの優しい手に掴まれる。


「飲めますか?」

 固い器の感触が唇に当たる。青臭い匂いが鼻腔を刺激する。


 嫌だ。こんなに痛いのに、胃が何かを受けつけられるとは思えない。飲みたくない。


 わずかに傾けられた器から、唇に拒絶された液体があごへと伝っていく。

 器の感触が唇から離れて、ほっとする。何も口に入れたくない。放っておいてほしい。


「お願いですから飲んでください」

 泣いているような湿った声がする。

 誰の声だろうかと考える間もなく、何か柔らかいものに唇をふさがれた。苦い液体が口腔に侵入し、反射的に飲み下す。


 身悶みもだえしそうに苦い。だが、心の片隅が甘さを感じている。

 不思議に思う間もなく、再び苦い液体が流し込まれた。


 泡沫うたかたのように心に浮かんだ感情が形を成す前に、ヒルベウスは再び意識を手放した。


  ◇ ◇ ◇


 ヒルベウスのたくましい体から力が抜けて、レティシアは焦った。脈をとり、規則的な脈拍を感じて、再び意識を失っただけだと、安堵の息をつく。


 ヒルベウスの呼吸は浅く、乱れている。眉を寄せた表情が苦しげだ。先ほど胸をこうとしていた仕草からすると、胃の中が荒れているのだろう。


 ヒルベウスが盛られた毒は、胃にくる毒だった。異変に気づいてすぐ吐いたからよかったものの、もし気づかずにいたらどうなっていたか。


 ぞっ、と全身から血の気が引く。


 決して思い出したくない、しかし心の奥底に刻み込まれた深紅の光景が脳裏に甦る。血にまみれた呪詛じゅその声も。


 かたかたという音が、自分の歯の根が合わない音だと、ようやく気づく。

 レティシアはぎゅっと目を閉じて、脳裏に焼きついた光景を闇の中へ閉じ込めた。

 今、ヒルベウスを助けられるのは自分だけだ。怯えている暇などない。


 遠慮がちなノックの音に、我に返る。

「モイアです。買ってきた物をお持ちしました」

 扉を開けて、モイアを迎え入れる。


 ヒルベウスが船上で意識を失った後、船が港に接舷するとすぐに、レティシアはヒルベウスを港から一番近い宿の一室に運び込んだ。

 今、この部屋には三人しかいない。他に入った者は、ヒルベウスを運び込む時と、汚れた衣服を取り換える時に手伝いを頼んだ宿の主人だけだ。他の供は皆、別室で待機している。


 ヒルベウスの毒殺未遂は、ロクスティウス家の跡目争いが関係しているのだろうが、この状況で敵と味方を見抜くのは、レティシアには不可能だ。


 ヒルベウスも信頼に足る者を供に選んだはずだ。しかし、裏切り者が出た以上、ヒルベウスが復調するまでは、他の奴隷も信じるべきではない。

 モイアに買い物を頼んだ理由は、新参者のモイアならば、跡目争いに巻き込まれていないだろうと判断したからだ。


「ヒルベウス様のお加減はいかがですか?」

 モイアは気遣わしげに、寝台に横たわるヒルベウスを見やる。


「ついさっき薬を飲んだ後、再び意識を失われたの。胃が荒れているようだけれど、命に別状はないと思うわ」

 ヒルベウスの口元にこぼれていた薬のしずくを布で拭う。

「よかったです。お薬を飲めたんですね」

 モイアのほっとした声に、口移しで薬を飲ませた記憶が甦り、思わず頬が熱くなる。


 何とかして薬を飲ませなければと、無我夢中だった。

 火急の際とはいえ、あまりに大胆だっただろうか。意識を取り戻したヒルベウスの顔がまともに見られる気がしない。


 レティシアは無意識に唇に触れる。顔が燃えるように熱いのが嫌でもわかる。

 口の中に残る薬の苦みが、かろうじて理性を保たせていた。モイアがいなければ、恥ずかしさで床に伏していたところだ。


「レティシア様。今の内に着替えられてはいかがでしょう?」

 モイアが遠慮がちに促す。吐瀉物としゃぶつがついてしまったので、服の前面は酷い有様だ。


「汚れたストラはどうしましょうか?」

 脱いだ服を手に、モイアが聞いてくる。レティシアはわずかに考え込んだ。


「大丈夫だと思うけれど……。勿体もったいないけれど、捨ててしまいましょう。何かあったら大変だもの」


 旅に際し、ヒルベウスは十数枚ものストラを用意してくれた。中には絹のストラもあったほどだ。レティシアは固辞したが、ヒルベウスもかたくなだった。


「君の他に着る者もいないのだから」

 と説得され、強引に荷物に加えられた。仕方なく、絹のストラは大事にしまい込んだまま、地味な色合いの羊毛のストラばかり着ている。


「わかりました。十分に注意して捨ててきます。こちらはどうしましょうか?」

 モイアが示したのは、先ほど買ってきてもらった小麦粉と山羊の乳だ。公共水道から汲んできた水袋もある。


「ヒルベウス様が意識を取り戻された時の為に、薬草入りの小麦粥プルスを用意しておきましょう。プルスなら胃に負担が少ないし、乳は荒れた胃に効くから」


「色々なことを知ってらして、レティシア様は本当にすごいですね!」

 モイアに尊敬の眼差しで見られ、レティシアは慌ててかぶりを振った。


「私はまだまだ未熟者よ。杯に残った葡萄酒をめてみたけれど、何の毒かわからなかったし……。万能の毒消しがあるわけじゃないの。さっきの薬だって、粘膜の炎症に効くカレンデュラとマシュマロウを煎じただけのもので……。最後は、ヒルベウス様自身の体力にすがる他ないのだもの」


 自分の無力さが情けない。今朝、診察した時にヒルベウスの不調が毒によるものだとわかっていれば、ここまで容体を悪化させる羽目にならなかったはずだ。


「ヒルベウス様は、きっとレティシア様がついておられて良かったと思われるはずですわ。今、容体が落ち着いているのも、レティシア様のおかげですもの。わたくしもお力になれることは何でも致しますから」


 モイアがレティシアの手を取って励ましてくれる。セビリアの家で怪我をした額の包帯は、二日前にとれている。確実な味方はモイアだけだ。


「ありがとう、モイア」

 心遣いが嬉しい。今、ヒルベウスの身を守れるのは自分達だけだ。レティシアは我が身にかかる重責に改めて気を引き締めた。


  ◇ ◇ ◇


 ヒルベウスの呻き声に、レティシアはがばりと顔を上げた。


 いつの間にか、うっかり転寝うたたねしてしまったらしい。時刻はわからないが、まだ夜更けなのは間違いないだろう。

 椅子に座ったレティシアの後ろでは、床に敷いた毛布にくるまって、モイアが寝息を立てている。


 レティシアは万が一、容体が急変した時の為に、椅子に座って寝台の隣に控えていたのだが、つい寝入ってしまった。気を張っていたというのに情けない。


 ヒルベウスの様子をうかがう。眉間にしわを寄せて、苦しげな表情だ。

 口移しで薬を飲ませて以降、何度かさじで薬や山羊の乳を一口、二口飲んだものの、一度も目を覚まさない。よほど体力を奪われたのだろう。


 血色の悪い唇が動き、呻き声が洩れる。まだ苦しいのだろうか。どこか痛むのだろうか。


 ヒルベウスの手が何かを探すように持ち上がる。レティシアは思わずその手を取った。言葉にならない呻き声を聞き取ろうと、身を乗り出して、口元に耳を近づける。


「……駄目だ……行くな、フラウディア……っ!」


 不意に、ヒルベウスが手を強く握る。「痛い」と思わず洩れそうになった声を噛み殺す。


「お願いだ……行かないでくれ、フラウディア……」

 ヒルベウスの声は身を切るような哀惜の響きを帯びている。


 フラウディアとは誰だろう?

 レティシアの知らぬ名だ。ヒルベウスの元婚約者だろうか。旅の前に婚約者の話を聞いた気がするが、ちゃんと名を覚えていない。


 ずきんと胸の奥がなぜか痛む。痛みの意味を考えないまま、レティシアは優しく手を握り返した。


「大丈夫です。ちゃんとここにいますから」

 空いている手で黒い髪を撫でる。フラウディアが誰かはわからないが、少しでもヒルベウスの心が軽くなればいいと願いながら。


 どれだけの間、頭を撫でていただろうか。気がつくとヒルベウスの寝息が穏やかなものに変わっていた。レティシアはほっと安堵の息を吐く。


 ヒルベウスの手から自分の手を引き抜こうとしたが、しっかり握られていて放してもらえそうにない。

 せっかく訪れた穏やかな眠りを破るのが忍びなくて、手を抜くのを諦める。


 明日の朝にはヒルベウスが目覚めるといい。

 大切な人の代わりに、自分が死ねばよかったと嘆くことは、もう二度としたくない。

 レティシアは心の中で何度も何度も医神アスクレピオスに祈願した。

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