第4章 夢の向こうに揺れる面影 1
「失礼します」
声と同時に、突然レティシアの手のひらが額に押し当てられ、ヒルベウスは反射的に身を引こうとした。が、後頭部がもたれていた船縁に当たって阻まれる。
無防備に近づいてきた胸元の奥が見えそうになって慌てて目を逸らす。
「熱はないようですね」
呟いたレティシアが、座っているヒルベウスの前に自らも座る。
「脈を見せてください」
伸ばされる手を、右腕を上げて逃れる。
「どうした、急に」
予想外だ。おとといの夜の件があったせいか、昨日は一日、ヒルベウスとは微妙に距離を取っていたレティシアが、自分から近づいてくるとは。
わざと力強い声でそっけなく告げたヒルベウスに、レティシアは、きっ、と強い眼差しを向けた。栗色の瞳がヒルベウスを射抜く。
「隠しても無駄です。体調を崩されていますね」
断定口調で告げられた言葉に、反射的に「違う」と言いかけるのを、レティシアの次の言葉が封じる。
「嘘をついても見抜けます。ヒルベウス様を、ずっと見ていたんですから」
不意打ちに思わず舞い上がりそうになった心を、
「医者の目を見くびらないでください」
続く言葉が叩き落す。
誤魔化すのは不可能だと悟ったヒルベウスは、一つ吐息して、素直に右腕を差し出した。
「大したことはない。単なる船酔いだ」
「それならいいのですが、疲れが出て、何かの病気にかかった可能性もあります。一応、診察させてください」
ヒルベウスの自己申告をレティシアは素直に受け取ってはくれない。細い指先が手首に触れる。
「脈は……少し速いようですが、異常というほどではありませんね」
「少し、緊張しているんだ。医者に診てもらうのは久しぶりだから」
ごまかして苦笑を浮かべると、思いがけず、柔らかな笑みが返ってきた。
「大丈夫ですよ。安心して、気を楽にしてください。私がついていますから」
見る者を安心させる慈愛に満ちた笑顔。
病人や怪我人に治そうという気力を湧かせるのが医者の仕事の一つなら、レティシアは十分に資質がある。この笑顔を前にしたら、
「口の中を見せていただけますか? すみませんが、少し顔を上げてください」
両頬に手を添えられ、上を向かされる。
「少し、吐きましたか?」
見事に言い当てられて驚く。誰も見ていない隙に吐いたのに。
「どうしてわかった?」
顔を下ろして窺うと、心配そうな表情にぶつかった。
「喉の奥が少し荒れています。吐き気以外に不調はありますか?」
ヒルベウスは長く息を吐いた。隠し事は不可能らしい。
「胃が少しむかむかする」
ヒルベウスの前にあるのは、エウロスが用意した昼食だ。早ければ今日の午後一番にでも港に着きそうだと船長に言われたため、すぐに馬車に乗り換えて出発できるよう、早めに準備させたのだが。
レティシアに不調を見抜かれて心配されるくらいなら、最初から自分の分は用意させなければよかったと後悔する。
レティシアに無様なところは
「前に言った通り、船に強くないんだ。今朝から波が高いだろう。少し酔ってしまったらしい」
今朝から追い風に恵まれ、船はぐんぐん北上している。しかし、その分、揺れが激しい。モイアも今朝はまた吐いている。
レティシアは気遣わしげに柳眉を寄せた。
「お辛いのでしたら、横になられた方がよろしいのでは?」
「大丈夫、少し気分が悪いだけだ」
きっぱりと
「主人のわたしが寝込めば、供に不要な世話をかける」
ヒルベウスはレティシアを安心させようと微笑んだ。
「まもなく港だ。船から下りれば、すぐによくなる」
頭を巡らすと、どんどん近づいてくる港が見える。もう少しの辛抱だ。
「それに、全く食欲がないわけでもないんだ」
固形物を食べる気にはなれなかったが、レティシアに大丈夫だと思わせたい一心で、杯の中の葡萄酒を一息に
舌が違和感を覚える。と同時に、
「うっ、ぐぅっ」
胃から不快感がせり上がる。
立ち上がり、船縁に身を乗り出して吐く。
胃に灼熱の塊を押し込まれたようだ。体がふらつく。
「ヒルベウス様!」
ふらついた体を支えてくれたのはレティシアだった。と、背後で悲鳴が上がる。
振り返ったヒルベウスの目に飛び込んできたものは、抜き身の短剣を構えたエウロスだ。
青い顔をし、震える手で短剣の柄を握りしめたエウロスの目には、追い詰められた者の恐怖と、明らかな殺意が宿っている。
「なんで、なんで死なないんだよ……! 毒を飲ませれば船の乗ってる間に死ぬって話だったじゃないかぁ……!」
周りの者が取り押さえるより早く、奇声を上げながら短剣を構えたエウロスが突進してくる。
「いけません!」
ふらつく体に渾身の力を込め、迫る凶刃に相対する。遮二無二突っ込んでくるエウロスは理性を失っているようだ。
刺し貫こうと体ごと突っ込んでくる刃を、かろうじて避ける。びっ、とトゥニカの脇腹が裂ける音がする。
外したと相手が悟るより早く、肩からエウロスに体当たりする。突進の勢いに体当たりが加わり、体勢を崩したエウロスの体が船縁を越える。
エウロスが目を見開いたまま、海へと落ちて行く。
どぼんっ、と大きな水音が立つ。
が、ヒルベウスの耳には入っていなかった。
体が自分のものではないように熱く、重い。立っていられない。
「吐くのを我慢しないでください!」
レティシアの声と共に、
込み上がる吐き気を押さえられず、再び戻し、ヒルベウスは意識を失った。
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