第3章 揺れる波間、揺れる心 4


 呻き声が聞こえた気がして、レティシアは身を起こして隣のモイアの様子を窺った。寝ている間に吐いて、万が一気管に詰まっては大変だ。


 だが、取り越し苦労だったらしい。

 モイアはむにゃむにゃと寝言を呟くと、寝返りを打つ。昼の間ずっと吐いていたので、体力を使い果たしたのだろう。ぐっすり眠れているようで安心する。


 ここは甲板に張った小さな天幕の中だ。

 船倉は積み荷でいっぱいなので、水夫や旅人は甲板で雑魚寝が基本だ。裕福な者は金を払ってあらかじめ船倉を押さえたり、簡易な天幕を持ち込む場合もある。

 夕方、オイノス達が甲板に天幕を張り始めた時は、馬車といい天幕といい、さすが身分が高い者の旅は違うと感嘆したが、できあがった天幕が女性陣の為だと言われて、更に驚いた。


「ヒルベウス様を差し置いて、天幕を使えません!」

 と固辞したが、逆に「年頃の娘が甲板で雑魚寝などするものではない!」と厳しい顔で叱られた。

「モイアも天幕でゆっくり休めた方がいいだろう?」

 と諭されたら、レティシアも受け入れざるを得ない。


 ここ数日の旅路の中で、ヒルベウスに対する印象は、会った日のものから、かなり変化していた。


 出会った瞬間、冷酷な侮蔑を浴びせられた時は、なんと無情で冷たい人だろうと、怒りに震えるほどだったが、最初の出会いをのぞけば、ヒルベウスの態度は一貫して丁寧で優しい。最初の罵声が別人ではなかったかと思うほどだ。


 ヒルベウスほどの身分があれば、多少、傲慢な態度をとったとしても誰からも非難されないが、身分をかさに横暴に振る舞うこともない。むしろ、旅慣れないレティシアをあれこれと気遣ってくれる。


 普段のヒルベウスこそが本来の姿で、出会った時のヒルベウスは常態ではなかったということなのだろうか?


 そうであればいいと思う。

 だが、セビリアやサビーナに見せた冷酷な態度を思い返すと、確信が持てない。無慈悲で冷酷な性格こそが本性で、優しい態度は人をあざむく仮面ということも十分にありうる。


 外見と性格が一致するとは限らないと、レティシアは身に染みて経験している。

 レティシアの母がそうだった。外見は儚げで花のように美しい人だったが、中身は炎のような人だった。でなければ、全てを捨てて父と駆け落ちなどしない。


『あなたが、あの人の代わりに死ねばよかったのに!』


 不意に、母の呪詛の言葉が脳裏に甦って、激しくかぶりを振る。

 慣れない旅路に疲れて、毎晩、泥のように眠っていたおかげで、ここしばらくは思い出していなかったのに。


 レティシアは吐息して立ち上がった。

 あれこれ考えている内に、眠気がどこかへ飛んで行ってしまった。波は穏やかで眠気を誘うように揺れているが、眠れそうにない。天幕が息苦しく感じる。

 夜風に当たって気持ちを落ち着けようと、天幕を出る。


 天上は星が降るような美しい夜空だ。満月に近い月が皓々こうこうと輝いているため、明かりがなくてもなんとかなる。

 レティシアは数歩進み、船縁に掴まった。先ほどより波の音がよく聞こえる。寄せては返す波の音が、子守歌のようだ。

 さほど広くない甲板のどこからか、微かないびきが聞こえる。水夫達か、一行の誰かだろう。


 船縁から見下ろした夜の海は、光を吸い込むような深い闇だ。見つめていると、自分の心の奥底にこごる闇まで浮かんでくる気がして、レティシアは慌てて視線を空へ上げた。と。


「どうしたんだい、こんな夜更けに起き出して」

 不意にがさがさと荒れた手に手首を掴まれて、心底驚く。振り返った先に立っていたのは、水夫の一人だ。


「夜番をしていたらあんたが出てくるもんだから、海の精霊ネーレイスが現れたのかとびっくりしたぜ」


 暗くて表情はわからないが、声の調子を聞くに、とがめているわけではないらしい。レティシアは小さく息を吐いた。


「すみません、寝つけなくて」

「寝つけないのか? そりゃあ大変だ」

 急に手首を強く引かれてたたらを踏む。


「だったら――」

 手首を掴んでいた水夫の手が、不意に消える。よろめいた体を受け止めたのは、別の力強い腕だった。


「去れ。天幕には近づくなと、船長に命じられているはずだ」

 夜気を切り裂く苛烈な声に、腕の主がヒルベウスだと気づく。


「わ、わかってますよ。俺はただ、夜番として異常がないか見て回ってただけでさぁ」

 ヒルベウスの怒気に当てられ、水夫の声に怯えがにじむ。

「なら、用は済んだだろう。早く去れ」

「へ、へえ」

 水夫が逃げるように船首の方へ去っていく。


「すみません、起こしてしまっ――」

 謝りながら、ヒルベウスから身を離そうとすると、

「馬鹿者!」

 と矛先を変えたヒルベウスの雷が落ちる。激怒しているらしい声に、思わずすくんだ身を抱き寄せられ、混乱する。


「あ、あの……」

「夜中にふらふらと天幕を出て、何を考えている!」


 なぜこれほどヒルベウスが怒っているのかわからない。疲れて眠っていたところを、起こしてしまったせいかと詫びる。


「起こしてしまいまして、申し訳ありません」

「無防備に一人でいるから、あんな水夫に……」

 怒り冷めやらぬ様子でぶつぶつ呟いていたヒルベウスは、レティシアの謝罪に口をつぐむ。

 じっと顔を見つめられるが、レティシアはただただ恐縮するしかできない。


 ヒルベウスは心の底から疲れたように深い溜息をついた。

「もういい。……で、どうして起き出していたんだ?」


「その、ふと目が覚めたら、眠れなくなってしまって……」

「気分は悪くないのか? 熱は?」


 不意にヒルベウスの顔が近づき、額に額がくっつけられる。

 かぁっと瞬時に顔に血が上るのを感じる。心臓が飛び出しそうだ。逃れようとするが、抱きすくめられていてかなわない。


「あのっ、近すぎます。人に見られたら……」

 ヒルベウスに悪い噂が立ってしまうと心配するが、

「その為だから、いいんだ」

 と、ヒルベウスは謎の言葉を呟いて取り合わない。


 息が鼻や唇にかかる。恥ずかしさのあまり、固く目を閉じた。

「熱はないようだな」

 明らかに、単に熱を測るには長すぎる間、額をくっつけていたヒルベウスが、ようやく顔を離す。だが、腕はまだほどかれない。


「放してください」

「駄目だ」

 一言で頼みを断ったヒルベウスは、ひょいとレティシアを横抱きにする。


「ヒルベウス様⁉」

 抗議の声を無視して、ヒルベウスは歩き出す。揺れる甲板の上だというのに、ヒルベウスの足取りは確かだ。

 水夫達からも、眠っている供からも視線が通らない天幕の陰まで来ると、ヒルベウスはレティシアを抱いたまま、腰を下ろした。必然的にヒルベウスの組んだ足の上に座る羽目になって、じたばたともがく。


「下ろしてください!」

 供を起こすわけにはいかないので、抗議の声も小声になる。

「眠れないのなら、眠れるまでそばについていよう」


 ヒルベウスの膝の上でなど、緊張で逆に眠れない。

「私なら大丈夫です。ヒルベウス様こそ、私など放って眠ってください」

 逃れたい一心で懇願するが、返ってきたのは呆れ交じりの溜息だった。

「君を放って、のうのうと眠れるわけがないだろう」

 ヒルベウスの腕が優しく、しかし強引にレティシアを胸元に抱き寄せる。


「そもそも、無防備にしている君が悪い。目が離せないだろう」

 ヒルベウスの口調は叱責しているようでもあり、呆れているようでもある。

「あの?」


 何を言いたいのか、訳がわからない。

 冷酷かと思えば優しく、優しいかと思えば、有無を言わさず強引だ。

 一体、どれが本当のヒルベウスなのだろうか。


「心配せずとも、寝入ったら天幕に運んでおく。供の者は誰も気づかない」

 ヒルベウスの手が優しく髪を撫でる。大きな手はレティシアの敬愛する人物を連想させた。


「ヒルベウス様の優しい手は、父を思い出させます」

「……そうか」

 ヒルベウスの声が苦笑を帯びる。レティシアは自分の心がゆっくりとほどけてゆくのを感じていた。


  ◇ ◇ ◇


 すっかり寝入ったレティシアの体を、ヒルベウスは天幕の中に横たえた。隣ではモイアがぐっすり寝ている。身を屈めて毛布をかける。


 乱れて顔にかかる髪をそっと払うと、薄く開いた桃色の唇からかすかな声が洩れた。思わず唇に口づけたい衝動に駆られ、自制する。

 無防備に眠る娘に手を出すなど、ヒルベウスの倫理観が許さない。

 同時に、レティシアへ苛立いらだちが胸中に湧き上がる。


 この娘は、どうしてこう無防備なのか。水夫達がどんな目で見ているか、気づいてないのだろうか。……普段の行動を見る限り、気づいてないに違いない。


 小さく吐息して天幕を出る。このまま側にいると、自制心が緩みそうになる。先ほど誰の目もないのをいいことに、抱きしめていたように。


 水夫がレティシアに触れているのを見て、反射的に怒りに駆られて行動してしまったが、ずいぶん大胆な行動をとってしまった。強く拒絶されなかったのが幸いだが。


「……父親か……」

 嬉しいような切ないような腹立たしいような、何とも複雑な気持ちが湧き上がる。


 天幕を出て、自分の毛布にもぐり込もうとして、そばに置かれた水袋に気がついた。エウロスが用意した香料入りの葡萄酒だ。

 酒の力でも借りなければ、寝付けそうにない。ヒルベウスは革製の水袋に直接口をつけ、葡萄酒を喉に流し込むと毛布に入った。


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