第3章 揺れる波間、揺れる心 3


「やはり、無理そうか?」

 ヒルベウスの問いに、振り返ったレティシアは悲しげに頷いた。


「はい、残念ながら――」


 言い終わらぬ内に、レティシアの足元に座り込んでいたモイアが突如立ち上がり、船縁ふなべりへ駆け寄る。


 身を乗り出したモイアからくぐもった呻きが洩れ、すえた臭いが潮の香りに混じって届く。レティシアが隣について背中を撫でる。


 イタリア半島の東岸、アドリア海に面するアンコーナに着いたのが昨日。反乱が起きたノリクム属州を目指す船は少なく、港中を探してアクイレイア行きの乗船予約を取りつけた。


 船で旅するには、港で目的地が同じ船を見つけて、船長と直接交渉するしか手段はない。


 ヒルベウスが見つけたのは、葡萄酒を運ぶ船だった。大人数の乗り込みに、船長は渋い顔をしたが、通常よりも高い金を払って了承を得た。水夫達の質もあまりよくないようだが、急ぐ旅だ。贅沢ぜいたくは言えない。


 そして今朝、天気に恵まれ、出航したのだが。


「モイア。ミントの葉があるの。噛むと口の中が少しすっきりするわ。吐いてすぐはつらいでしょうけど、少しずつでいいから水も飲むのよ?」


 レティシアがモイアの隣でかいがいしく世話を焼いている。乗船前には、船は初めてだと浮かれていたモイアだが、出航した途端、ひどい船酔いになってしまった。ずっと吐いてばかりで、ぐったりしている。


 船酔いに悩まされているのは、幸いモイア一人だが、一行の中で女奴隷はモイア一人だ。

 乗客は食事の面倒を自分で見なければならないため、食事の支度はモイアに任せようと考えていたのだが、この調子では、船旅の間、役に立ちそうもない。


 オイノスは奴隷達に指示して甲板で荷物整理に忙しそうだ。まもなく昼近いが、どうしたものかと悩んでいると、供の一人、エウロスがそっと近づいてきた。


「わたくしでよろしければ、昼食の用意を致します。食料の買い出しをしましたので、勝手はわかっております」


「では頼む。簡単な物で構わない。モイアは、あの調子では食べられないだろう」


「かしこまりました。すぐに支度いたします」

 うやうやしく一礼すると、エウロスは積み込んだ食料品へと歩いていく。


 エウロスの働き次第では、旅の後に報奨金をやらなくてはと考えながらモイアを振り返ると、まだ船縁にしがみついて吐いている。隣で世話を焼くレティシアも心配そうだ。


 主人が奴隷の面倒をみるなど常識では考えられないが、レティシアの性格だ、放っておけないのだろう。放っておける性格なら、そもそもケルウス家でモイアを診察していまい。


 しばらくすると、エウロスが昼食を運んできた。パンと葡萄酒に、ハムとチーズを切り分けただけの簡単な食事だが十分だ。


 口の中をすすぎ、ミントの葉を口に入れたモイアが甲板にへたり込み、レティシアの手が空いたところで、声をかけた。


「レティシア。手が空いたなら昼食にしよう。モイアが心配なら、誰か別の者をつかせよう」


「いえ、吐くだけ吐いたので、しばらくは落ち着いていると思います」


 揺れる甲板の上をレティシアがゆっくりと進んでくる。危なっかしい足取りに思わず手を差し伸べると、レティシアは少しためらった後、素直にヒルベウスの手に掴まった。ヒルベウスが導くまま、隣に腰を下ろす。


「大変だな。まさか、モイアの船酔いがあれほどとは……」


「モイアはガリア出身だそうです。船に乗る機会がなければ、酔いやすい体質にも気づけませんから」


「では、今回は得難い機会になったな。さあ、簡単な食事だが、食べてくれ」


「いただきます。モイアには、後で食べれそうな物を持っていきましょう」


「言ってくれれば、エウロスに用意させる」

 ヒルベウスに葡萄酒の杯を渡そうとしていたエウロスに視線を向けると、

「はい、何なりとお申しつけください」

 エウロスが如才なく答える。


「今日は天気がいいから喉が渇いただろう。葡萄酒はどうだ?」

 受け取った杯をそのままレティシアに渡そうとすると、エウロスが慌てた声を上げた。


「申し訳ありません。ヒルベウス様用にと、そちらの葡萄酒はさほど水で薄めておりませんので、レティシア様にはお強いかと……。よろしければ、レティシア様にはムルスム蜂蜜入り葡萄酒を作りましょう」


 「ふむ」と頷いてヒルベウスは葡萄酒を一口含んだ。の葡萄酒は強いので、水で割って飲むのが一般的な作法だが、確かに濃いめだ。


「少し癖があるな。香料入りか」


「はい。あまり質のいい葡萄酒が手に入らなかったので、香料を入れましたが、お気に召しませんでしたか?」


「いや、大丈夫だ。それより、レティシアにムルスムを作ってやってくれ」


「私は水でかまいません」


 レティシアが遠慮の声を上げるのは無視する。「かしこまりました」とエウロスが用意に立った。


「君の体調はどうだ? ずっと馬車に乗り通しだったが、調子の悪い所はないか?」


 食事が一段落した辺りで尋ねる。エウロスや他の奴隷達も、少し離れた甲板で食事をしている。


「私は大丈夫です。馬車に座っているだけなんて、徒歩の旅よりずっと楽ですから」

 口の中の物を飲み下したレティシアが微笑む。


「君は船に強いのか?」


「はい。船に乗るのはまだ二回目ですが、幸い何ともありません。半分、ギリシア人の血が流れているおかげでしょうか?」


 通商の民であるギリシア人は船を巧みに操り、地中海沿岸にいくつもの植民市を築いている。船乗りのほとんどはギリシア人か、同じく通商の民のフェニキア人だ。


「では、お父上に感謝しなくてはな」

 冗談めかして言うと、


「はいっ」

 と花が咲くような満面の笑顔が返ってきた。見ている方が嬉しくなるような笑顔だ。敬愛する父親の話題は、ささいなことでも嬉しいらしい。


「そういえば、ミントは船酔いに効くのか? 先ほど、モイアに噛ませていたが」


「いえ、船酔いを治す効果はないのですが、口の中がすっきりして、少しは吐き気が治まるので。ヒルベウス様も船酔いですか?」


 レティシアの眉が心配そうに寄る。ヒルベウスは笑ってかぶりを振った。


「モイアほど酷くはない。が、船はあまり得意ではないな。一応、ミントの葉をもらっておいた方がいいかもしれない」


 昼食を食べ過ぎたつもりはないが、少し胸がむかむかする。濃いめの葡萄酒に酔ってしまったのかもしれない。


「では、すぐにお持ちしますね」


 ヒルベウスが止めるより早く、レティシアは食事を中断して荷物を取りに行く。


 人の為となれば行動力の塊になるのは、レティシアの性格なのだろう。微笑ましい気持ちでヒルベウスはレティシアの後姿を見送った。




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