第5章 揺れ惑う境界線 1


「カルヌントゥムには、かなり近づいてきているんですか?」

 昼食後、馬車に乗り込んだレティシアに問われて、ヒルベウスは頷いた。港を出発して、今日で五日になる。


「旅は順調だ。明日か、明後日には着くだろう」

 ヒルベウスが急がせているため、毎日、夜明けと同時に宿を出発して、昼食やちょっとした休憩の他は、夕方、暗くて走れなくなるまで、ずっと馬車に乗り通しだ。


「不穏な噂を多く聞きます……大きな会戦が起こるのでしょうか?」

 ヒルベウスが集めた情報では、ノリクム属州で起こった反乱は、鎮圧されるどころか、広がりを見せているらしい。情報が錯綜しているらしく、反乱者の正確な数すら掴めていないが、数十万人規模に及ぶらしい。


 ゲルマン人は多くの部族に分かれており、ローマに征服されて属州民として組み入れられた部族もいれば、ダヌビウス河の向こう岸で、富を略奪する機会を虎視眈々こしたんたんと狙っている部族もいる。

 このまま反乱が長引いて、ダヌビウス河北岸に広がる部族も参戦し、ローマ各地に侵攻する事態に陥れば、ローマは麻のように乱れるだろう。


 不安そうに問うレティシアに、ヒルベウスはかぶりを振った。

「いや、その可能性は少ないだろう。ノリクム属州は山がちの地勢だ。大規模な会戦に向く平野は少ない。それに、反乱側もローマ軍の強さは重々承知だろう。おそらく、小規模な戦闘や略奪が各地で散発するに違いない。ゲルマン人の反乱は、大抵そうだ」


 戦いとなれば、何千、何万人と部族を率いて勇猛果敢に戦うゲルマン人だが、独立独歩を好む気風のせいか、部族同士の連携はうまくない。

 よほど強力な統率者が現れない限り、たいてい部族ごとに小規模な戦いを仕掛け、ローマ軍が対応に追われる羽目になる。


「ノリクム属州の北側、ボヘミア地方に住むマルコマンニ族の族長・マルボドゥウスは、「レックス」を名乗るほど、統率力に優れた人物らしいが、今のところマルコマンニ族は参戦していないらしいからな」


 もし、マルコマンニ族が参戦すれば、他の部族もこぞって侵攻するだろう。組織された何万人ものゲルマン人と相対する戦争になるかもしれない。


「マルボドゥウスは若い頃、首都に滞在した経験があり、ゲルマン人の中でも親ローマ派という噂だ。反ローマに立つとは考えたくないが……」


「ヒルベウス様は色々なことをご存知でいらっしゃるんですね」

 レティシアが感心した顔で言う。

「すまん、話し過ぎたな」

 政治や軍事のことなら、いくらでも話せるが、女性が好みそうな話題となると、からきしだ。今まで何度、相手に退屈そうな顔をさせたか。

「いいえ、勉強になります」

 レティシアはつまらなさそうな表情一つ見せず、ぺこりと頭を下げる。


「女性には退屈な話だっただろう?」

「いいえ。地勢の話などは、医学にも関わってきますので、ぜひうかがいたいです。ヒポクラテスの医学書の中には、地勢や気候で、流行りやすい病気がわかると書かれておりますし、先ほどのお話はとても勉強になりました」


 栗色の瞳をきらめかせて言われると、悪い気はしない。

「そう言ってもらえると、こちらも嬉しい。それにしても君は、医学に関してはことのほか熱心だな」


 以前にも、余暇には医学書を読んだり、薬草を摘んだりしているという話を聞いた覚えがある。ヒルベウスは褒める気で言ったのだが、なぜかレティシアは寂しげな顔をした。


「私には、医術くらいしか、役に立てることがありませんから……」

「医術しか、ではない。現に、わたしは君のおかげで命を救われたではないか」


 レティシアは時折、自分をひどく卑下する物言いをする。産婆を除くと、女性の医者は非常に珍しい。ヒルベウスも出会ったのはレティシアが初めてだ。

 レティシアの腕の良さを考えると同業の男達から嫌味を言われた過去があるのかもしれない。


「君の腕の良さはわたしが保証する。カルヌントゥムでも、君の治療に感謝する者は大勢いるだろう。もし、軍団病院の見学や手伝いをしたい時には、遠慮なく言ってくれ。力になろう」


 実際は、妙齢の美人が男ばかりの軍団病院を手伝ったら、厄介事の種になるのは目に見えている。本当に見学するのなら、ヒルベウスが隣で目を光らせておく必要があるだろう。


 レティシアを喜ばせたい一心での提案に、案の定レティシアはこぼれるような笑顔を見せた。


「本当ですか? 私でもお役に立てることがあれば嬉しいです! もちろん、ネウィウス様の治療が最優先ですが……」


 花が咲くような笑みを向けられては、前言撤回は不可能だ。レティシアは見学ではなく、手伝う気満々のようだ。

 さて、安請け合いしたものの、どうしようかと悩んだ時。


「ヒルベウス様!」

 御者台にいる奴隷のシロンが緊迫した声を上げる。


「どうした?」

 切羽詰まった声に不穏な気配を感じ、問い返しつつ馬車の窓にかかっている布を跳ね上げ、外を見る。


 街道の両側には林が広がっている。五月の木々はしたたるような緑の葉を生い茂らせていた。


 街道は地形が許す限り直線で敷設されるため、すこぶる見通しがいい。ヒルベウスは、百パッスス約一五〇メートルほど先に止まる反対方向から来た荷馬車を捉えた。

 荷馬車を襲おうと群がる、林から飛び出してきた十数人ほどの男達も。


 男達は大柄で髪の色が淡く、ひげも伸ばし放題だ。鎧をつけている者はおらず、中には上半身裸の者もいる。


「ゲルマン人の襲撃だ! 馬車を止めろ!」


 叫んだ時には、既にシロンが手綱を引いていた。馬がいななきを上げて馬車が止まる。


「レティシア、君は馬車の中に隠れていろ。絶対に窓から顔を出したりするな! シロン、馬を一頭外せ!」


 強張った顔のレティシアに告げ、馬車の後部にある乗降口を開けると、後ろの馬車の御者台にいる供と目が合う。

 無意識に腰にいたグラディウスの柄を一撫でしし、乗降口のそばにつるしてあった四本の投げ槍ピルムを掴む。ブーツ触れ、内に仕込んだ短剣を確認する。


「オイノスとシロンは馬車を守れ! 残りの四人は武器を持て! わたしは先行して敵の数を減らす!」  


 後ろの馬車から出てきたオイノスが緊張した顔で頷く。

 馬車の前に回ると、シロンが一頭の馬を引き綱から外そうとしている。手伝いながら、ヒルベウスには襲撃者達に視線を向けた。


 おそらく、敵は略奪の為に北岸から渡河してきたゲルマン人だ。

 推測だが、指揮官と呼べるほど高位の者もいまい。もしいるのなら、目についた荷馬車を襲うなどという突発的な襲撃は行わないだろう。斥侯せっこうを出して、ヒルベウス達の高価な馬車を奇襲した方が、明らかに得策だ。


 襲撃者達は野菜を積んだ荷馬車よりも、こちらの馬車の方が、格段に良い獲物だと見定めたらしい。武器を掲げ、ゲルマン語で何やら叫びながら向かってくる。


 ようやく引き綱から放された馬にまたがる。鞍のない裸馬だが、火急の際だ。仕方がない。

 ヒルベウスは手綱を操ると、弦から放たれた矢のように男達めがけて駆ける。

 こちらの馬車へ迫るまでに、少しでも敵を減らしておきたい。


 いつもなら、一人で突出するなどという危険は冒さない。

 だが、今はレティシアがいる。レティシアを危険から遠ざける為なら、一人で突撃することなど何でもない。


 幸い、襲撃者達は弓矢などの飛び道具を持っておらず、全員が徒歩かちだ。人数だけは多いが、何としても食い止めなければ。


 射程距離に入った男の一人へピルムを投げつける。一本目は先頭を走る男の腕をかすめて地面に落ちた。

 舌打ちして、二本目を放つ。無防備な胸元にピルムが突き刺さり、男が仰向けにどうっ、と倒れる。


 戦果を確かめる間もなく、三本目を投げつけた。もう一人男が倒れる。

 しかし、ゲルマン人達は怯む様子もなく向かってくる。戦意が衰えた様子は微塵もない。

 四本目を投げ、三人目が倒れた時には、剣が届く距離になっている。


 ヒルベウスは腰のグラディウスを引き抜いた。馬の勢いを殺さず、男達に突っ込む。

 突き出された刃を剣で弾き、返す刀で斬りつける。腕を深く斬られた男が剣を取り落とした時には、次の男と斬り結んでいた。


 ヒルベウスに有利な点は、騎馬による速さと馬上の高い位置から攻撃できる二つだけだ。鎧ではなくトゥニカでは、裸の男達と大差ない。


 右に左に剣を振るい、男達の間を駆け抜ける。

 身をよじった空間を敵の刃がぎ、よけきれなかったトゥニカの脇腹がびっと裂ける。脇に感じるわずかな灼熱感。


 男達の間を駆け抜けたヒルベウスは、手綱を引いて馬の前足を跳ね上げると、すぐに反転した。

 機動力を活かして敵を翻弄できる間に、一人でも多く倒さねばならない。立ち止まれば、あっという間に串刺しにされるだろう。


 裂帛れっぱくの声を上げて、馬の腹を蹴り、再び男達に突っ込む。

 剣を取り落とした男を背中から切り伏せ、もう一人の男の喉を突く。


 全員を倒し、詰めていた息を吐いた時、ぞくりと背中に悪寒が走り、ヒルベウスは馬車に視線を走らせた。


 目に飛び込んだのは、街道にうずくまる奴隷達と、馬車へと走る四人のゲルマン人の姿だ。


「くそっ」

 伏兵がいたのだ。

 馬車を守るのはオイノスとシロンしかいない。


 拍車をかけ、馬を急かして馬車へと迫る男達に向かう。馬車までは五十パッスス約八十メートルほどだ。

 

 前を走る襲撃者達はあと数パッススの距離に迫っている。オイノスとシロンが緊張した面持ちで剣を構える。

 ヒルベウスは馬を駆りながら、ブーツから短剣を抜き、思い切り投じた。


 狙い違わず背中に短剣が突き立った男が倒れる。

 しかし、その時には残りの三人がオイノス達に斬りかかろうとしていた。


 間に合わない、と己の遅さを呪った時。


「息を止めて!」


 レティシアの鋭い声が響いた。


 同時に馬車の窓の布がばさりとめくられ、身を乗り出したレティシアが手に持つ何かを、襲撃者めがけて投げつける。

 途端、男達が耐えられぬとばかりに咳き込んだ。好機を逃さず、オイノスとシロンが一人ずつ男を斬りつける。


 仲間が倒れた隙に走った無傷の一人が、怒りの唸りを上げてレティシアに手を伸ばす。

 腕を掴まれ、力任せに引っ張られたレティシアの体が窓の外へ引っ張り出される。


「触れるなっ!」


 駆け寄ったヒルベウスは馬の体を蹴って大きく跳び上がると、グラディウスを男の肩口に突き立てた。ごぶりと血を吐いて、男がレティシアの腕を放す。


 柄から手を放し、ヒルベウスは窓から落ちてきたレティシアの体をすんでのところで受け止めた。体勢を崩し、レティシアを抱えたまま地面に倒れる。


「っきゃ! すみま――お怪我をっ⁉」

 謝りかけたレティシアが悲鳴を上げる。ヒルベウスはゆるくかぶりを振った。


「これは返り血だ。わたしは大事ない。だが……」

「他に怪我をされた方がいるのですね」

 レティシアの動きは素早かった。立ち上がり、馬車の中へ駆け込む。


 ヒルベウスは立ち上がると襲撃者に刺さったままの剣を引き抜いた。全員、既に事切れている。


「ヒルベウス様! ご無事ですか⁉」

 剣を納めたオイノスが、血塗ちまみれの主人を見て目を見開く。


「わたしは無事だ」

 剣を振ると、びっと朱の線が飛んだ。

 オイノスから渡された布で短剣とグラディウスの血をぬぐって鞘に納めたところで、レティシアが薬を入れた鞄を抱えて馬車の後部から飛び出してくる。


「怪我をした方はどちらに⁉」

「オイノス、レティシアと怪我人を頼む。わたしは先に襲われていた荷馬車の様子を見てくる」

 頷いたオイノスに後を任せ、離れた所に止まる荷馬車へと近づく。


「助けていただき、まことにありがとうございました!」

 何度も頭を下げる荷馬車の主に、ヒルベウスはかぶりを振った。


「我が身に降りかかる火の粉を払っただけだ。そう恐縮しないでくれ。怪我人はいないか?」

 幸い怪我人はいないらしい。何か礼をという男に、カルヌントゥムの情報を教えてほしいと頼む。


 男によると、反乱を鎮圧すべく、総督ネウィウスが軍団を率いて出陣したのが約一か月前。ゲルマン人との戦闘は激しく、ローマ軍は手痛い打撃を与えたものの、大隊長の一人が戦死し、総督自身も足に怪我を負った。


「総督にお怪我を負わせたのは、ゲルマン人の一部族、クォーデン族のゲルキンという戦士だという話だそうです」

 男の言葉に頷く。ローマにやってきた使いも、同じ名を告げていた。


 ネウィウスの怪我は命に関わるものではないが、騎馬で指揮を執るのは不可能なため、カルヌントゥムに臨時に置いた官邸で療養中だという。


 ヒルベウスの予想の通り、ゲルマン側も、緒戦を除けば大規模な戦闘は仕掛けておらず、大多数は河の北側に宿営地を構えて、ときおり、舟で渡河しては小規模な戦闘を繰り返しているらしい。軍団が駐留していない小さな村や農場、警備が手薄な街道を襲っては、人や物を略奪しているそうだ。


 男から話を聞いていると、手当てを済ませたレティシアがやってきた。幸い、怪我をした供の骨や腱は傷ついていなかったらしい。


「こちらは大丈夫らしい。我々も急ぐ旅だ。先に進もう」

 深々と頭を下げて見送る男を背に、レティシアと連れ立って歩く。街道に放置してあった死体は、オイノスとシロンが通行の邪魔にならぬよう端に寄せている。


 レティシアが痛ましげに死体を見ているのに気づいて、声をかける。

「蛮族といえど、死体を見るのは辛いか?」


「はい。医術を扱う者としては、目の前で命が失われるのを見るのは、誰であれ、心が痛みます」

 沈痛な表情で頷いたレティシアは、慌てて言い足した。


「も、申し訳ありませんっ。ヒルベウス様を非難する気は全くないのです。守ってくださらなかったら、どうなっていたことか……」

 狼狽うろたえるレティシアに、ヒルベウスは安心させるように口元を緩めた。


「君は医者なのだ。それでいい。誰にでも分け隔てないその優しさは、尊いものだ」

「ありがとうございます」

 レティシアは目を伏せると、死者達に冥府の神プルートゥへの祈りを小声で呟く。


「ゲルマン人がプルートゥの名を知っているとは思えないが」

 ヒルベウスがもっともな疑問を口に出すと、意外にもきっぱりした返事が戻ってきた。


「いいのです。慈悲深きプルートゥ様は、きっと彼らの神に魂をお引き合わせくださるでしょうから」

「では、そうであることを祈ろう」


 罪もない人々を襲う所業を許す気はさらさらないが、襲撃者達の死後の安寧まで奪う気はない。頷いたヒルベウスを、レティシアが「ところで」と請う眼差しで見上げる。


「ゼリクさんが足を怪我したのですが、ヒルベウス様の馬車に一緒に乗ってもよろしいですか? 足を伸ばして座った方が楽だと思うのですが……」

「もちろん構わん。世話が必要なら、モイアも一緒に乗るとよい。わたしは御者台にいるから、気兼ねしないでくれ」


「ヒルベウス様が御者台に?」

 驚くレティシアに、苦笑して両手を広げる。

「この有様では、馬車を汚してしまうからな。血の臭いもこもってしまうし、御者台で風に当たりたいのだ」

「そうおっしゃられるのでしたら……」


 馬車に戻ると、ゼリクとモイアの間でも、ヒルベウスの馬車に乗るのは恐れ多いと一悶着が起こる。


「ゼリク。お前の怪我は名誉の負傷だ。主人として、お前の体を気遣うのは当然だろう。モイアも、レティシアを助けてやってくれ。襲撃のせいで、余計な時間を食っているのだ。異議は認めん。出発するぞ」


 正直、一刻も早く返り血を洗い流したい。主人の強権を発動し、反対意見を押し込めると、ヒルベウスはひらりと御者台に乗った。

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