第5章 揺れ惑う境界線 2


 ヒルベウス達が小さな宿場を見つけたのは、半刻ほど後だった。

 もう午後も遅い。少しでも進みたいが、日暮れまでに次の宿場に着かなければ野宿になる。安全の為に野宿は避けたい。今日はこの宿に泊まるのがよさそうだ。


 蛮族の襲撃を恐れてだろう、街道を行く者の姿を見る機会も少なかった。平和な時なら旅人で賑やかだろう宿も、しんと静かだ。

 受付はオイノスに任せ、ヒルベウスは宿の主人に教えられた裏庭の井戸に直行した。


 布でぬぐったものの、御者台にいる間に返り血は完全に乾いてしまい、不快この上ない。

 井戸にも人気はなく、ヒルベウスは遠慮なく服と靴を脱ぎ捨てた。何枚か持ってきた布の一枚を念の為に腰に巻いて結ぶ。

 水をくみ上げ、頭からかぶる。こびりついた血が流れ落ち、地面に薄紅色の水たまりを作る。


 額に流れ落ちた前髪をかき上げ、もう一度水を汲み、頭からかぶる。

 井戸の水は冷たく、心地よい。染みついていた血臭が洗い流され、ようやくほっと息をつく。


 肩に背に、何度も水をかけ、人心地ついたヒルベウスは、「ふう」と吐息した。と、背後に近づく気配を感じて振り向く。


 建物の角を曲がって裏庭に姿を現したのは、レティシアだった。まだ血と土に汚れた服を着たままだ。

 腕に布を抱えたレティシアの顔が、腰布一枚きりのヒルベウスに気づいた途端、真っ赤に染まる。


「あっ、あの、すみま――」

 そのまま布で顔を隠し、駆け去っていくかと思われたレティシアは、逆に息を飲んでヒルベウスに向かって駆けてきた。

 予想外の行動にたじろぎ、思わず身構えてしまう。


「お怪我をなさっているではありませんか!」

「ん? ああ」

 指し示されて、ヒルベウスは左の脇腹を見下ろした。襲撃者と戦った時についた傷だ。濡れたせいで、傷口にこびりついていた血が、肌を伝って流れている。


「かすり傷だ。もう血も止まっている」

「お教えくだされば、すぐ治療しましたのに……っ」


 心配からだろうが、非難を込めた眼差しで見上げられて、ヒルベウスは傷口に伸ばされた手を思わず掴んだ。

 体勢を崩したレティシアを、濡れた体で抱きとめる。


「非難されるのは、君の方だろう?」

 襲撃の場では胸に飲み込んでいた怒りが口をついて出る。


「わたしは馬車の中に隠れて、決して顔を出すなと言ったはずだ。なのに、どうして出てきた?」


 剣を持った男がレティシアの腕を掴むのを見た瞬間、気が狂いそうだった。もしかしたら、闇雲に振り回した剣で斬られていたかもしれないのだ。


「ゲルマン人は侮っていい相手ではない!」

「侮ってなどいません!」

 きっ、とレティシアが強い瞳でヒルベウスを見返す。


「ゼリクさん達の悲鳴が聞こえました。ですから、少しでも助太刀しなくてはと、自分にできることを考えたのです!」


 レティシアが投げたのは、胡椒こしょうか何かの刺激物だろう。確かに、オイノス達の腕では、真正面から襲撃者達と戦って勝てたかどうかはあやしい。二人が無事だったのはレティシアのおかげだ。


 理性ではわかる。だが、感情が納得いかない。


「君の雇い主はわたしだ! 雇い主の命が聞けぬと⁉」

「人の命を見捨てる命令など、決して聞けません!」


 レティシアの瞳には炎が宿っているかのようだ。

 井戸水で体が冷えているにも関わらず、瞳の炎が燃え移ったかのように、レティシアに触れているところが熱い。


 薄い夏物の服越しにレティシアの柔らかさが素肌に伝わる。力を込めれば手折れてしまいそうな華奢きゃしゃな肢体。


 ヒルベウスは知っている。清らかな魂が、どれほどたやすく儚い器から去ってしまうのかを。


「ヒルベウス様?」

 左手で包むように頬に触れたヒルベウスに、レティシアがいぶかしげな声を上げる。


 どれほど言葉を尽くしたら、危険な目に遭わせたくないと願うこの思いが届くのか。

 言葉で通じないならいっそ――。


 すべらかな頬に触れた手に力がこもる。薄紅色の柔らかそうな唇が、誘うように吐息を洩らす。


「あ、あの……」

 今更ながら、自分がどんなに大胆なことをしているか気づいたのだろう。レティシアの顔が熟れた林檎のように真っ赤に染まる。


「どうかお放し――」

「飛び込んできたのは、君の方からだろう?」


 互いの吐息が混じりあう。あえかな吐息を洩らす唇に覆いかぶさろうとして。


「っ、私は……っ」

 不意に、レティシアの体が震えたかと思うと突き飛ばされた。

 思わず緩んだ腕からレティシアが飛びすさる。


「あ、後でモイアに傷薬を持っていかせますから……っ」

 抱き寄せられた拍子に落とした布を拾いもせず、レティシアが顔を伏せて走り去る。


 おびえさせてしまった。非道な男に襲われ、心に傷を負ったレティシアを。


「くそっ!」

 自分がしでかした愚かな行為を心から呪う。己への怒りが治まらず、裸足で井戸を蹴りつける。


 再び水をくみ上げると、乱暴に頭からかぶった。水が体を伝うに任せたまま、もう一杯くみ上げる。

 少し頭を冷やさないことには、宿へ戻れそうにない。


 ◇ ◇ ◇


「レティシア様。お着替えを――」

 モイアに返事もせず、レティシアは階段を一気に上がると、割り当てられた客室に飛び込んだ。後ろ手に扉を閉め、ずるずると床にへたり込む。


 心臓が割れ鐘のように速く打っている。このまま壊れてしまうのではないかと思えるほどだ。

 医者であるレティシアは、心臓がこれくらいで壊れないと知っている。だが、知っているのと感じるのは別物だ。


「~~っ!」

 暴れる心臓を抑えつけようと、ぎゅっとストラの胸元を握りしめる。


 医者をしていれば、男性の肌を見る機会も多い。現にヒルベウスが毒に倒れた時も、途中まで着替えを手伝った。なのに。


 「患者」ではなく「ヒルベウス」に触れているのだと思った途端、心臓が跳ねた。


 ヒルベウスに触れた手のひらが、頬が、燃えるように熱い。

 もし、あのまま逃げなかったら、どうなっていただろうか。

 ふと考え、自分を叱咤した。


 平民のレティシアが、ヒルベウスとどうにかなるなんて、ありえない。身分違いを燃えるような愛で乗り越えた母がどんな最期を迎えたかは、心に刻み込まれている。


 いつの間に、ヒルベウスはこんなにも心の中に入り込んだのだろう。

 最初は、なんて冷酷で傲慢な人だろうと、憎んだほどなのに。旅をする内に、ヒルベウスの優しさはレティシアの頑なな心を溶かしてしまった。


「私はヒルベウス様に雇われた医師だもの。雇われた者として、お役に立ちたいだけ……」


 この感情は、旅という非日常が見せる儚い幻だ。日常に戻れば、きっと消えるはず。

 固く目を閉じ、レティシアは何度も己に言い聞かせた。

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