第6章 前線の町にて 1


 ヒルベウス達がカルヌントゥムに着いたのは、襲撃を受けた翌日の昼過ぎだった。


 カルヌントゥムは対岸のゲルマン人を見張る為にドナウダヌビウス河に面して建てられた軍団基地を由来とする、まだ歴史の浅い町だ。

 だが、軍団兵だけでは生活は成り立たない。兵士の為の公衆浴場、居酒屋、娼館、様々な商店などが基地の周りに作られる。自然と住居も増え、軍団基地を中心に町が形成されていくのだ。


 カルヌントゥムは前線の町らしく、城壁で囲まれていた。

 反乱の際に破壊されたのだろう。城壁が崩れている所が幾つもあり、何人もの職人が補修に当たっている。


 町へと入る門は簡素だが強固な造りだ。ヒルベウスは門を守る兵士に身分を明かし、総督の居場所を尋ねた。兵士によると、ネウィウスは大通りに面した屋敷の一つを臨時官邸とし、そこで療養しているらしい。


 ヒルベウスは馬車の窓から町の様子をうかがう。

 道行く人々は、ゲルマン人と見まごうような金髪で大柄な者が多い。辺境のため、混血が進んでいるのだろう。むしろ純粋なローマ人は少数だ。

 辺境の町らしく、華美な建物はほとんどなく、質素なものが多い。かろうじて幾つかの神殿と屋敷が町並みを彩っている程度だ。

 反乱の傷跡だろう。壊されたまま、再建されていない建物もちらほらある。


 総督官邸はすぐに見つかった。門前に警備の兵が立っているので一目瞭然だ。


「まずは父上の容体を確認する。レティシア、ついてきてくれ。他の者は荷卸しを頼む」


 指示を出し、レティシアを伴って馬車を下りる。見慣れない立派な馬車に、いぶかしげな視線を向けている兵士に来訪の旨を告げると、すぐに中へ通された。


 官邸はローマ風の造りだった。玄関広間アトリウムには噴水の代わりに大きな貯水槽があり、天井から降り注ぐ午後の光をきらめかせている。


 アトリウムを囲む一室に案内される。ノックすると、

「誰だ?」

 と扉の向こうから若い声が返ってきた。聞き慣れた声に、ノブに伸ばした手が思わず止まる。


 が、ヒルベウスは息を吸い込むと誰何すいかの声に答えずに扉を開けた。


「ここは総督の部屋だ。お前の部屋ではない。それとも、総督代理にでもなったつもりか?」


 部屋の中央に置かれた寝台にいるのはネウィウスだ。

 寝台のそばに立っていたのは、異母弟のタティウスだった。サビーナによく似た線の細い顔立ちは、冷ややかな印象を与える。半分同じ血を引いているが、父親似のヒルベウスとは、並んで立っても兄弟に見えないだろう。

 旅先だというのに、房飾り付きの高価な麻製のトゥニカを着ているのが、いかにもタティウスらしい。


「ヒルベウス!? 貴様、よくも今頃、顔を出せたな!」

 思いがけない兄の登場に、タティウスが絶句する。腹違いの弟の罵声を無視して、ヒルベウスは父に恭しく礼をした。


「父上。ゲルマン人との戦闘で傷を負われたとの報告を受け、参りました、お加減はいかがですか?」


 ネウィウスは寝台にいるものの、枕を背に当てて上半身を起こし、書き物をしていた。聞いていた通り、命に関わるような重体ではないと己の目で確認して、ようやく安堵する。

 そこへ体勢を立て直したタティウスの嘲笑が飛んでくる。


「同じ日に報告を受けたというのに、俺より三日遅れの到着とは! しかも、女連れとは。一体、途中でどんな油を売ってきたのやら」


「口をつつしめ、タティウス。彼女は医者だ」

 「はんっ!」とタティウスの唇が侮蔑も露わに歪む。


「女の医者なんて見たこともない。どこの具合を診てくれるのやら」

 手ひどく矜持きょうじを傷つける言葉に、レティシアが、唇を噛み締める横顔が目に入る。ヒルベウスは我を忘れてタティウスに掴みかかった。


「貴様っ! 侮辱するなら俺だけにしろ! レティシアは関係ない! 彼女に謝れ!」


「断る!」

 胸ぐらを掴もうとしたヒルベウスの手を、タティウスがはねのける。


「至極当たり前のことを言っただけだ! どこの馬の骨ともわからない女に父上を診せるだと!? 貴様こそ、色香に惑わされて気でも狂ったか!」


「二人とも。顔を合せるなり何事だ」

 寝台の父がたしなめる声を上げたが、耳に入らない。タティウスの指摘は、正確に心の柔らかな部分をえぐっていた。


「その口を縫いつけてやる!」

「やってみろよ! それだけ激昂するってことは、俺の言葉が真実だってことだろう!?」


 再度伸ばしたヒルベウスの両手に胸ぐらを掴まれながら、タティウスは冷笑を浮かべネウィウスを振り返る。


「父上! ご覧になっていますか? こいつは下賤げせんの血でロクスティウス家を汚すつもりですよ。こんな奴に次期当主を任せるおつもりですか!?」


「黙れっ!」

 思わず握りしめた拳を振り上げる。


「やめいっ、二人とも! 見苦しいっ」


 雷のごとき怒声がネウィウスから発される。

 気圧けおされ、ヒルベウスもタティウスも瞬時に黙る。


 不肖の息子達を叱りつけたネウィウスは苦しげに呻いた。ぐらりと上半身がかしぐ。

「大丈夫ですか!?」

 駆け寄ってネウィウスの体を支えたレティシアが息を飲む。


「すごい熱……きっと無理をなさってたんだわ」

「女! 許可なく父上に触れるな!」

 胸ぐらを掴まれたままタティウスがわめく。


「黙れ! レティシアは立派な医者だ!」

「どうだか! この機会に父上に毒を盛ったって――」


「お静かに!」


 ぴしゃりとレティシアの叱責が兄弟の口を封じる。


「ネウィウス様を案じるお気持ちはわかりますが、ご兄弟が病人の目の前で争ってどうします! 心労をかけて、みすみすプルートゥの手に引き渡したいのですか!?」

 レティシアの栗色の瞳の中では、炎が燃え立っている。


「治療の邪魔です! 兄弟喧嘩でしたら部屋の外でなさってください!」


 ネウィウスにも引けを取らぬ威圧感に、ヒルベウスもタティウスも思わず腰が引けてしまう。


「……すまない。我々は外に出ている」


 抵抗を忘れたように呆けた顔でレティシアを見つめているタティウスの腕を取り、扉を開けてアトリウムに出る。タティウスは腕を引かれるままに大人しくついてきた。


 出たところで、荷物を運び入れていたオイノス達と出会う。騒ぎが洩れ聞こえていたのだろう。どの顔も不安そうだ。

 己の醜態を思い知らされ、ヒルベウスは吐息するとモイアに視線を向けた。


「モイア。レティシアの手伝いをしてやってくれ。もし何か必要なものがあれば、遠慮せず何でも言うよう伝えてくれ」

「か、かしこまりました」

 緊張した顔で入れ違いにモイアが入っていく。


「いつまで掴んでいるんだ。さっさと放せ」

 扉が閉まった音で我に返ったのか、タティウスが乱暴に腕を振り払う。

 部屋に押し入ってレティシアの邪魔をするようなら、今度こそ殴ってやろうと睨みつけると、タティウスは苛立った様子で鼻を鳴らした。


「なんだ、あの女。俺達を怒鳴りつけるとは……」


「どこへ行く気だ?」

 くるりと背を向けたタティウスに厳しい声で問うと、タティウスは顔だけで振り返って手をひらひらさせた。


「父上は心配だが、貴様と一緒に待つなんて苦行には耐えられないからな。友人の家へ行く。一つ言っておくが」

 薄い唇が歪んだ笑みを刻む。


「もし父上の身に何かあった時は、今度こそ貴様を殺人罪で告発してやる! もちろんあの女もだ」

 一方的に言い捨てると、タティウスは返事も待たずに去っていく。


 タティウスと二人で治療を待つなど、御免なのはヒルベウスも同じだ。黙って弟の背中を見送る。

 アトリウムからタティウスの姿が消えたところで、深い溜息をつく。


 タティウスと顔を合せると、いつもいさかいになる。

 彼の言葉に惑わされず、堂々としていればいいのだろうが、余人はともかく、タティウスだけは、冷静な気持ちで対応できない。

 タティウスも、憎しみを隠そうともしない。あの様子では、たとえヒルベウスが態度を変えたとしても、諍いが絶える日は来ないに違いない。


 ヒルベウスは無意識に、もう二度と会えない少女の名を唇だけで呟いた。


 どれほど願っても取り返せない後悔に胸をさいなまれながら。


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