第6章 前線の町にて 2
タティウスと別れて約半刻後。ネウィウスの部屋に入る許可を得たヒルベウスは、入るなり、レティシアに頭を下げられた。
「申し訳ありませんでした。怒鳴りつけるなんて……」
ヒルベウスは慌てて口を開く。
「いや、先ほどの行動は君が正しい。怪我人の前で騒いだわたし達が悪かった。謝らないでくれ」
「ですが……」
「それより、父上の具合はどうだ?」
寝台に視線を向ける。ネウィウスは眠っているようだ。呼吸が荒いところを見るに、安らかな眠りではないのだろう。寝たきりのせいか、記憶にある姿より
レティシアに椅子を勧められ、寝台のそばに座る。少し離れてレティシアも椅子に座る。モイアは薬を入れた椀などを洗いに部屋を出て行った。
「お体の調子ですが……」
レティシアの診察によると、落馬した際の足の骨折で抵抗力が落ちているところに、風邪をひいてしまったらしい。
「骨折は見事な処置を施されています。ただ、お年のことを考えると、完治には一か月以上はかかるかと……」
ネウィウスは今年で五十四歳になる。若い者のように早期の回復は難しいだろうというのが、レティシアの見立てだ。
「お風邪を召されたのは、ご無理がたたったのではないかと思われます」
ヒルベウスは寝台の横に置かれたテーブルを見た。上にはパピルスの束が小山をなしている。
幾つかを流し読む。反乱についての報告、税収の決算書、住民からの陳情、兵士の賞罰の決裁などなど、軍の指揮を執ることはかなわなくても、仕事は山とあるらしい。これではゆっくり療養することもままならないだろう。
ヒルベウスは堅物な父の性格を思って吐息した。ただでさえ多量の仕事で疲れていたところに、息子達がとどめに心労をかけてしまったわけだ。
「父上には、ゆっくり療養していただく必要があるな。カルヌントゥムは州都ではない。急な反乱で移動してきたから、文官の手が足りないのだろう。わたしも書類の処理を手伝おう。父上には、早くよくなってもらわねば」
薬が効いてきたのか、先ほどより穏やかな寝息に変わった父を見やってから、レティシアに視線を移す。
「君に来てもらって、本当に良かった。世話をかけるが、今後ともよろしく頼む」
頭を下げると、レティシアの慌てた声が返ってくる。
「とんでもないです! もともと、この治療の為に雇われたのですから。どうか顔をお上げください」
「父上は無理をする気質なのだ。君が父を見てくれると助かる」
「私でよろしければ、精一杯務めさせていただきます」
「何か足りないものなどはないか? あれば何でも用意させよう」
問うと、レティシアは考える表情を見せた。
「薬草の一部が少なくなってきております。この辺りに生えているものなら、摘みに行きたいのですが……」
「またゲルマン人の襲撃を受ける可能性がある。町の外へ出るのは危険だ。パピルスに必要な物を書いてわたしかオイノスに渡してくれ。こちらで用意しよう」
「わかりました。お言葉に甘えます」
素直に頷いたレティシアが、まだ物言いたげな表情でヒルベウスを見上げる。ためらいがちに唇を開こうとしては閉じる仕草に、ヒルベウスは苦笑して優しく問いかけた。
「何だ? 他に欲しい物があるのか? 遠慮なく言ってくれ」
「その……」
言い淀んだレティシアが、迷いを振り切るように一度唇を引き結んで、ヒルベウスを真っ直ぐ見上げる。
「ヒルベウス様とタティウス様の仲がお悪いのは、跡目争い以外にも、何か理由がおありなのですか?」
レティシアの問いに、思わず息が詰まる。
「……どうしてそう思う?」
動揺を隠して問い返すが、これでは何かあると言うも同然だと、すぐに悔やむ。しかし、レティシアは気づいていない様子で言葉を続けた。
「すみません。お二人の間には深い因縁があるのではないかと、ふと思っただけなのです。タティウス様の言動を見ていると、跡目争いの相手という以上に、ヒルベウス様を憎んでいらっしゃるように思えて……。対するヒルベウス様も、いつも沈着冷静さを失って、激昂してらっしゃるご様子でしたし……」
「冷静沈着か」
口元に思わず苦い笑みが浮かぶ。
「ヒルベウス様?」
ヒルベウスはレティシアを見返して肩を
「冷静沈着と言ってもらえるのは嬉しいが、君に評価されると居心地が悪いな。何せ、君の前に限っては、冷静でいられたためしがない」
「そんなことはありませんっ。いつもオイノスさん達に的確に指示を出されていますし……」
首を横に振ったレティシアの声が、途中で尻すぼみになる。
昨日の件を思い出したのか、もっと前の記憶が脳裏をよぎったのか、すべらかな頬が薄紅色に染まる。
ヒルベウス自身も心当たりがあり過ぎて、どのやり取りをレティシアが思い出しているのか見当がつかない。
「君には情けない所ばかり見せている気がする」
男としては、想いを寄せる女性に無様な姿は見せたくない。相手がレティシアだからこそ、
己の不甲斐なさに溜息を吐き出すと、
「私は、医者ですから」
と、妙にきっぱりとした宣言が返ってきた。
意図がわからず見返すと、
「私は医者です。医者が呼ばれるのは病気や怪我の時ですから、患者さんが弱っている姿を見る機会が自然と多くなります。ですから、もしヒルベウス様の情けない姿を見たとしても、嫌に思ったりなど、決してしません」
きっぱりと言い切ったレティシアは慌てて言い足した。
「あのっ、ヒルベウス様のことを情けないと思ったことなど、一度もありませんがっ」
「ははははっ」
突然笑い出したヒルベウスをレティシアが呆気にとられた顔で見る。
ひとしきり笑って、レティシアに微笑みかける。
「君は体だけでなく、心も癒す天才だな」
きょとんとした表情に愛しさがこみ上げ、頭に手を伸ばす。
レティシアと一緒にいると、無理をして身の丈以上に自分をよく見せる必要はないのだと心が安らぐ。久々にタティウスに会って、真っ向から憎しみをぶつけられた身には、なおさらだ。
男として、いつまでも甘える気はないが、せめて一時だけでも。
「あの、ヒルベウス様?」
レティシアの戸惑う声を無視し、頭を撫でる。レティシアの髪は絹糸のような手触りだ。
ヒルベウスは困り切ったレティシアが懇願するまで、優しく髪を
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