第9章 憎しみに囚われて 2
官邸に着くなり、一番に探してしまうのはレティシアの姿だ。手伝いに行っている診療所からまだ帰っていないのか、それとも自室にいるのか、姿は見えない。
手近な奴隷を捕まえて居場所を尋ねたい気持ちを
「まず、総督へ報告を済ませてくる。お前も久々の休みだ。少しゆっくりするといい」
礼を返すオイノスを残し、父の寝室に向かう。
入室すると、ネウィウスは寝台に身を起こし書類仕事をしていた。そばで書記官が二人、書類整理をしている。
入ってきた息子の姿を見とめ、ネウィウスは顔をほころばせた。
「よくやっているようだな。副総督からも報告が来ている。鼻が高いぞ」
こんなに機嫌がいいネウィウスは珍しい。
「今日はどうした?」
「はい、急ぎの報告がありまして」
ヒルベウスの視線を汲んで、ネウィウスが人払いをする。向き直った顔は、息子の功績を喜ぶ父親ではなく、冷徹な総督のものに戻っていた。
「まだ裏付けが取れていない情報だということを、まずはご承知おきください」
断った上でネウィウスを真っ直ぐ見つめ、告げる。
「マルコマンニ族の族長の息子・マルティクスが、クォーデン族と接触したという情報を得ました」
「何っ⁉」
ネウィウスの表情が一瞬で凍りつく。未だ寝台から動けぬ父を気遣い、慎重に言葉を選ぶ。
「現在のところは、マルティクスが接触したという情報だけであり、マルコマンニ族が大規模な移動を開始したという情報は入っておりません。ですが、早晩マルコマンニ族も反乱に参加すると見て間違いないかと」
「そうか……。ローマと同盟関係にあるとはいえ、やはり蛮族。こちらが隙を見せれば、即座に牙を剥いて襲いかかってくるか」
「マルボドゥウスは利に
「蛮族の考えは、結局、我らにはわからぬ。起こった事態を問うても
「かしこまりました。直ちに」
一礼してヒルベウスは席を立つ。外で待機していた書記官に指示を伝えていると、ゼリクを伴ったオイノスが慌てた様子で小走りにやってきた。
「お忙しいところ申し訳ございません。ゼリクが、レティシア様について早急にお伝えしたいことがあると申しまして……」
「レティシアの? 何だ?」
二人の表情から良い話ではあるまいと噛みつくように問うと、ゼリクは青い顔で頭を下げた。
「お許しください! 俺はただ、ご指示通り、イルクレスという医者が怪しい者ではないか、裏取りをしただけで……っ」
「イルクレスがどうした⁉ レティシアの身に何かあったのか⁉」
嫌な予感にひどく胸騒ぎがする。ゼリクが
「イルクレスは、タティウス様の
「何だと⁉」
ヒルベウスの剣幕に、ゼリクがひっ、と首を
「レティシアはそれを知っているのか⁉」
「おそらく……。イルクレスはタティウス様の縁者であることを隠していませんし、タティウス様も軍団勤めとはいえ、あちらは新兵への訓練が主な任務。レティシア様と会う機会は何度もあったはずです」
「……何が、言いたい?」
我知らず殺気がこもった眼差しに、ゼリクは身を震わせて耐えた。きっ、と強い目で主人を見返す。
「レティシア様はタティウス様のことを誰にも話されませんでした。これは、レティシア様に
「レティシアに限って、そんなことがあるはずがない!」
間髪入れずに否定したヒルベウスに、ゼリクは「ですが!」と必死に言い募った。
「
「黙れ‼ レティシアはただ、困っている者を放っておけずに治療に出かけているだけだ!」
反射的に言い返し――まるで自分自身に言い聞かせているように思えて、口をつぐむ。
ゼリクは過敏になっているだけだ。レティシアに限って、裏切るわけがない。彼女はフルウィアとは違うのだから――。
そう言いたいのに、声にならない。
脳裏に甦るのは、フルウィアが友人と寝台でヒルベウスを
「弟の方がまだマシよ! 金しか取り柄のない、あんなつまらない男!」
フルウィアの嘲笑が頭から離れない。
顔を歪めたヒルベウスを痛ましそうに見つめ、ゼリクが低い声で話す。
「レティシア様は今朝、遅くなると言いおかれて官邸を出ました。軍団基地の方も確認しましたが、今日タティウス様は夕方には帰宅なさる予定だそうです」
ぎりっ、と
口を開こうとして、己の歯ぎしりだと気づく。
「イルクレスの家は、どこだ?」
「ご案内いたします」
「いい。場所だけ教えろ。わたしが一人で行く」
怯えた表情で目を伏せ、ゼリクが早口でイルクレスの家の場所を説明する。
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