第9章 憎しみに囚われて 1


「今日は早めに診察が終わってよかったですねえ。って、レティシア様⁉」


 夕刻、最後の患者を送り出したモイアは、衝立ついたての陰で服を脱ぎ始めたレティシアを見て目を丸くした。


「モイア。着替えを手伝ってもらえる?」

「は、はい。もちろんです、が……?」

 混乱しているモイアに、簡潔に説明する。


「これから、私はタティウス様と大切な話があるから、モイアは診察室の片づけをして待っていてもらえる? ネウィウス様には、今日は遅くなるとお伝えしているから大丈夫」


「はあ」

 曖昧あいまいに頷いたモイアは、レティシアが取り出したストラを見て目をいた。


「レ、レティシア様! それは……」

 レティシアが着替えようとしているのは、ヒルベウスに贈られた薄紅色の絹のストラだ。


 次に二人で食事をする際に着て見せてくれないかと言われたストラを、先にタティウスに見せるのは、申し訳なく思う。だが、これがタティウスの口を開かせる条件だというのなら、受けざるを得ない。


「あの、レティシア様。本当によろしいんですか?」

 おずおずとモイアが尋ねる。手早く身支度を整えながらレティシアは頷いた。


「もちろんよ。ヒルベウス様はしばらく軍団基地からお帰りにならないでしょう? だから、どうしてもタティウス様に……」


「ひぇっ、それって……」

「お願い。今日のことは、誰にも言わないでくれる?」

 モイアはきっと、レティシアが兄弟の不仲の原因を探るのを嫌がるだろう。これは自分が勝手にしていることなのだ。モイアに迷惑はかけたくない。


 口止めに、モイアは強張った顔で何度も激しく頷いた。

「も、もちろんでございます! 決して口外いたしませんとも!」

「ありがとうモイア。もしかしたら、少し時間がかかるかもしれないのだけれど……」


「大丈夫です! 目を閉じて耳もふさいで、貝になってお待ちしてますから!」

「気を遣わせてごめんなさい」

 モイアの気遣いに微笑み、ストラの裾の乱れを直し、いつもの癖で帯の間に軟膏入なんこういれを忍ばせ、部屋を出る。扉を閉める瞬間、


「そんな……まさかレティシア様が……」

 と、モイアが呟くのが聞こえたが、聞いている暇はない。

 タティウスの話にどれくらい時間がかかるかわからないが、あまり遅くなるとネウィウスに余計な心配をかけてしまう。


 ◇ ◇ ◇


「ヒルベウス様、どうなさいましたか?」

 隣を歩くオイノスに問われて、ヒルベウスは小さくかぶりを振った。


「久々に帰れるとわかったのなら、使いをやっておけばよかったと思ってな」

「そうでございますね。ネウィウス様もレティシア様もお喜びになられたでしょう。気が利かず、申し訳ございません」


「いや、気づかなかったのはわたしも同じだ。気にするな」

 鷹揚おうように頷いたヒルベウスはオイノスの揶揄やゆを含んだ視線に気づいて苦笑した。


「注意しておかねばな。我ながら、気が緩むと女々しくなる」

「トゥニカの下に何が隠れているか知る者など、おりません。変な噂も立ちますまい」

 オイノスが苦笑する。


 無意識にトゥニカの胸元をいじるのが、ここ二週間ほどの癖になっている。服の中に隠れているのは、レティシアから渡された香袋だ。なくさないよう、紐を通して首から下げている。

 オイノスには、レティシアのことを考えている時に無意識に触れていると、お見通しらしい。


 大隊長を務めてまもなく二週間が経つ。出撃やら、戦術の立て直しやら、幕僚との会議やらで多忙な日々だが、ようやく一晩、官邸に戻れる暇を得た。

 名目は総督への報告なのだが、報告さえ済ませてしまえば、明日の朝までは久々の自由時間だ。


 官邸へ戻れるともう少し早くわかっていれば、一緒に夕食をとレティシアを誘うこともできたのだが。


 予想以上に残念に感じている自分に気づいて、狼狽うろたえる。

 どうかしている。これほど、一人の女性が心から離れぬなど、今まで経験がない。

 ローマに戻る日が今から待ち遠しい。


「なあ、オイノス。わたしにあきれているか?」

 この二週間の自分の状態に冷静な判断を下す自信がなく、乳兄弟に問いかける。

「呆れる、ですか?」

 問い返したオイノスに、気まずさに髪をき乱す。


「その、ここ最近のわたしは、おかしくないか? 寝ても覚めても、たった一人の姿が目にちらつくんだ。こんなことは初めてで……はたから見たら、気が触れているように見えないか?」


「大丈夫でございます。事情を知らぬ者には、ヒルベウス様は一刻も早く反乱を治めようと、非常に精力的に働いてらっしゃるとしか見えません。反乱制圧にかけるヒルベウス様の意気込みは、わたくしも感心するばかりです」


「……オイノス。お前、楽しんでいるだろう?」

「はい。もちろ……あ、いえ。間違えました」

 わざとらしくオイノスが言い間違える。


「お前、性格が悪いぞ」

「ご安心ください。ヒルベウス様の前だけです」

「知っている。……どうした?」

 驚いたように目を見張ったオイノスに問うと、オイノスはゆっくりとかぶりを振った。


「……ヒルベウス様は、良くも悪くも、情が深くていらっしゃる」

 隣を歩くオイノスをまじまじと見つめる。


 レティシアに惚れきっているのを揶揄やゆしているのかと思ったが、オイノスの表情は生真面目で、主人をからかって楽しんでいるようには見えない。


 長い付き合いだけに、オイノスなりに思うところがあるのだろうと黙っていると、オイノスは不意に真摯しんしな眼差しでヒルベウスを見た。


「わたくしはヒルベウス様がお幸せを、心より祈っております」

 オイノスの真心を感じ、ヒルベウスは微笑んで頷いた。

「ありがとう。きっとなれるだろう。レティシアとなら」


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