第8章 秘密の交換条件 3


「レティシアさん、今日も来てくださったのですか。ありがとうございます。奴隷達から、毎日診療所を開いてくださっていると聞いています。どうか無理はなさらないでくださいね?」


 今日は軍団病院が非番だったらしい。診療所へ行くと、イルクレスが既に診察を始めていた。レティシアは笑って「大丈夫です」とかぶりを振る。


 ここに来れば治療が受けられるという噂が流れているのか、今日も待合室はいっぱいだった。

 すっかり助手が板についたモイアに手伝ってもらい、早速、診察にとりかかる。


 二人で診察するとさすがに早い。午後を少し過ぎた辺りで、待合室が無人になる。


「患者も途切れましたし、今日はこの辺で閉めましょう。レティシアさん、ミントティーと焼き菓子で少し休憩しませんか?」


 レティシア達のために用意してくれたのだろうか。イルクレスの気遣いを素直に喜ぶ。ミントティーを準備しようと腰を浮かせかけたモイアの前で、急に診察室の布が開いた。


「今帰った」

 顔を覗かせたタティウスが、レティシアの姿を見て、あからさまに顔をしかめる。


「また来ていたのか、偽善者が」

「タティウス様! なんと失礼なことを!」

 レティシアへの不快感を隠そうともしないタティウスを、イルクレスがいさめるが、タティウスは無視して、忌々しそうに睨んでくる。


酔狂すいきょうな奴だな。こんな所へ毎日来てどうする気だ? 官邸で親父殿にびを売っておいた方がいいんじゃないか。ああ、それとも」

 タティウスは侮蔑に歪んだ笑みを薄い唇に刻む。


「ヒルベウスが戦死した時に備えて、俺かイルクレスをたらしこむつもりか? 用意周到なことだ。ま、徒労に終わるだろうがな」


 タティウスは偏見に満ちた嘲弄ちょうろうをぶつけると、あまりの暴言に咄嗟とっさに言葉が出ない三人を放って、さっと身を翻す。


「タティウスさ―――あ、レティシアさん!」

「少し失礼します」


 タティウスをいさめようとしたイルクレスを手で制し、部屋を出る。アトリウムを進んでいたタティウスを小走りに追いかける。


 タティウスはイルクレスの家に滞在しているものの、この十日間、会う機会は全くなかった。日中は毎日出かけているし、レティシアも診察で会うどころではない。


 夕方は夕食までには官邸へ戻るようにとネウィウスに言われており、いつも診察が終わるとすぐに帰らなくてはならない。今を逃せば、次はいつ話す機会があるかわからない。


「お待ちください!」

 追いかけてくると思っていなかったのだろう。自室へ入ろうとしていたタティウスは驚いた顔で振り返る。が、すぐに薄い唇に嘲笑を刻む。


「何だ? 先ほどの言葉を取り消させようと来たのか? それとも、しおらしく泣いてでもみせるか?」


「先ほどの……?」

 言われた内容がわからず、困って眉を寄せる。


 タティウスの顔を見た途端、尋ねたい件で頭がいっぱいになって、ろくに聞いていなかった。


 レティシアの反応に、タティウスは明らかに気分を害したらしかった。秀麗な眉目をしかめたタティウスに、慌てて頭を下げる。


「申し訳ありません。ですが、一つだけ、うかがいたいことがありまして……」


「聞きたいこと? はんっ、ロクスティウス家の資産額か?」

「いえ」

 レティシアは真っ直ぐタティウスを見上げた。


「タティウス様がヒルベウス様を憎んでらっしゃる理由を、お教えいただけませんか?」

 告げた途端、乱暴に肩を突き飛ばされた。背中を壁にぶつけ、息が詰まる。


「なぜ、そんなことを聞く?」

 目の前にタティウスの険しい顔がある。反射的に逃げ場を探そうとして、すぐに無駄だと悟る。


 背中に冷たい壁、両側は壁に手をついたタティウスの腕に阻まれて、逃げられそうにない。

 だが、元より退くつもりはない。予想以上の剣幕にたじろぐ心を叱咤しったして、げんを継ぐ。


「知らないからです。腹違いとはいえ、血を分けたご兄弟だというのに、何故なぜそれほどヒルベウス様を憎まれているのですか? 跡目争い以外にも、何か理由がおありでは?」


「お前には関係ない!」

 ヒルベウスに向けるのと同じ、憎悪のこもった目で睨みつけられ、思わず唇を噛む。


「部外者と重々存じております。ですが」

 目に力を込めて、タティウスを見つめる。

 怖気おじけづくわけにはいかない。タティウスとヒルベウスは、レティシアが望んでも決して手に入らぬものを持っているというのに。


「兄弟が憎み合っているなんて、哀しすぎます……っ」

 告げた瞬間、タティウスの目が驚愕に見開かれる。薄い唇が何事か呟いたが、かすれていてレティシアの耳には届かない。


 そ、とタティウスの右手が頬に伸びてきて驚く。息をひそめたレティシアの頬を、指先がすべる。

 壊れ物を扱うかのような、優しい指先。手のひらが頬に触れ、指先が額や前髪を撫で――。


 はっと我に返ったようにタティウスが息を飲む。同時に、めきりと音を立てそうな勢いで拳が握り込まれた。


「……タティウス様?」

 なぜタティウスが豹変ひょうへんしたのかわからず、おずおずと名を呼ぶ。

「あの……」


「……絹のストラは持っているか?」

 目を逸らしたタティウスに突然問われ、反射的に頷く。

「は、はい。ヒルベウス様にいただいたものが一枚……」

「そうか」

 タティウスの唇に笑みが浮かぶ。それを笑みと呼んでいいものか迷う。歪んだ、苦しげなものが。


「交換条件だ。明後日の夕方だ。その日なら、夕方には帰宅している。絹のストラで着飾ってこい。そうしたら……もしかしたら、話してもいい気になるかもな」


 返事も待たず、タティウスは身を翻して自室に入る。拒絶するように乱暴に閉められた扉が、大きくひびわれた音を立てた。

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