第14章 深夜の密会 2


「君を信じるのは、今の時点では君を信じてもさほど害がないからだ。マルコマンニ族がローマとクォーデン族のどちらにつくかは、エポナの無事を確かめ、妹自身の口から事情を聞いてから判断する」


「もちろん、そうしていただいて構いません」

 レティシアは深く頷いて言葉を続ける。


「エポナ様とマルティクス様の再会は、私の望みです。カルヌントゥムでは、グウェンが追ってきたので、私の侍女にエポナ様を官邸まで案内するよう言いつけて別れました。おそらく、エポナ様は無事に官邸まで逃げおおせたかと……」


 暗闇の中、マルティクスがほっと安堵の息をついたのが聞こえる。


「そうか。エポナが無事ならばよい。しかし……クォーデン族め。マルコマンニ族をだまそうとするとは、許せん……っ」


 怒りに燃える呟きを発したマルティクスは、しかし今この場でゲルキン達に復讐するのは非現実的だと悟ったのだろう。心を落ち着かせようと吐息する。


「ここへ来ているマルコマンニ族は、わたしと供の数人だけだ。クォーデン族に対抗するには、あまりに非力すぎる。レティシア、君は総督の姪だろう? 君を助ける為にローマ軍は出撃しないのか?」


 問われて、目を伏せてかぶりを振る。が、すぐにこの暗闇では伝わらないと口にする。


「私は政治的に重要な人物ではありません。ローマ軍が私の為に出撃することはありえません」


 声が自然と苦くなる。ヒルベウスもタティウスも、厄介やっかい払いができたと、内心喜んでいるかもしれない。ローマ軍の救出は期待できない。


「わたしは、何としても族長に今の話を報告し、裏取りをしなければならない」

 使命感にあふれた声で、マルティクスがきっぱりと告げる。


「夜が明けたら、わたしはボヘミアに報告に戻り、増援を連れて戻ってくると言って、いったん宿営地を離れよう。君の話からすると、今のクォーデン族はどんな卑怯な手を使うか、想像もつかない。わたしまで人質に取られては、マルコマンニ族は身動きがとれなくなる」


 真摯しんしな眼差しでレティシアを見つめていたマルティクスは、申し訳なさそうに目を伏せた。


「君はエポナに通じる大切な情報源だ。君の身柄を引き受けたいとゲルキンに申し出てはみるが……おそらく手放すまい。断られれば、申し訳ないが残さざるをえない」


 ゲルキン達はマルティクスがレティシアと接触することすら牽制けんせいしていた。マルティクスに引き渡すことは、決してしないだろう。

 苦しげに告げた青年の手を、優しく握り締める。


「お気になさらないでください。残されることに、恐怖がないとは申しません。ですが、エポナ様をお助けした時に、既に覚悟は決めております。マルティクス様に真実をお伝えできただけで、私は果たすべき役割を十分に果たしました。次は、どうぞマルティクス様がご自分のなすべきことをなさってください」


 陽気だが底の知れないゲルキンと、血が通っていないのではないかと思えるグウェンに、一人で立ち向かわなければならないと考えると、不安と恐怖に震えが走る。

 マルティクスに気取けどられまいと手を放そうとしたが、遅かった。不意に手を強く握られる。


「恐怖をおして苦難に立ち向かうあなたは気高い人だ。助けられないわたしの無力を許してください」


「謝らないでください。……ローマ軍も反乱を捨て置きはしないでしょう。耐えていれば、その内、逃げる機会が来るかもしれません」


 レティシアの胸を恐怖とは別の痛みが襲う。ローマの不利益になる事態を防ぐ為には、クォーデン族から逃げなければならない。

 だが、逃げてどこに行くというのだろう。


『二度とわたしの前に姿を見せるな!』


 ヒルベウスに最後に言い捨てられた言葉が甦る。


 いつか逃げられる機会がやってきたとしても、二度とヒルベウスの元へは戻れない。


 ゲルキン達に対する恐怖よりも、二度とヒルベウスに会えないという絶望が心にのしかかる。もし体が心の鏡だったら、今頃、血だるまになっているだろう。


 体の傷は治せても、心の傷を癒すすべを、レティシアは知らない。


「大丈夫か? 手が冷え切っている」


 気遣きづかわしげな声に我に返る。自分でも体中の血の気が引ているのがわかる。つないだままのマルティクスの手が、ひどく温かい。


 不意に、ヒルベウスの手も大きく温かだったと思い出し、涙がこぼれそうになる。

 唇を噛みしめ、目を固く閉じて、哀しみを心の奥底に押し込める。朝には旅立つマルティクスに、いらぬ心労をかけたくない。


「大丈夫です。少し緊張してしまって。マルティクス様が無事ボヘミアへ帰れるよう、お祈り申し上げております」


「レティシア殿……。どうか、これを」

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