第6章 前線の町にて 5


 大勢いた患者を診察し終わったのは、数刻も後だった。


「ふう。ようやく終わりです。レティシアさん、本当にありがとうございました。わたし一人で見ていたら、夜までかかっていたかもしれません」

 最後の患者を送り出したイルクレスが、丁寧に礼を述べる。


「いえ、私こそありがとうございました。イルクレス様の診察をすぐそばで見せていただいて、勉強になりました」

 レティシアも礼を言うと、イルクレスは照れたように顔の前で手を振った。


「様だなんてやめてください。わたしはタティウス様の母君の家に仕えていた解放奴隷の子なんです。様なんて分不相応です。わたしなどより、レティシアさんの腕前には感心しましたよ。どの診断も的確で処置も早くて。どちらで医術を学ばれたんですか?」


「父が医者で、他に子どもに恵まれなかったので、私が跡継ぎとして……」

 説明している内に、声が小さく消えてしまう。


「やはり、女の医者なんて不快ですか……?」

 今までレティシアが会った医者は、女の医者だなんてと、あざけるか敵意を向けてくるかのどちらかだった。

 上目遣いに見上げると、イルクレスはなぜか顔を赤らめてぶんぶんとかぶりを振る。


「とんでもない! 患者にとっては、ちゃんと診てくれば男も女も関係ないでしょう。患者への優しい声かけといい適切な治療といい、わたしは素晴らしい医者だと思いましたよ」


「ありがとうございます……っ」

 同業者に医者として認めてもらったのは初めてだ。嬉しさに声が詰まる。感極まって涙が出そうだ。


「レ、レティシアさん⁉」

 イルクレスが狼狽うろたえた声を出す。にじんだ涙を指先でぬぐって、レティシアは深々と頭を下げた。

「イルクレスさんのお言葉はとても嬉しいです!」

 顔を上げ、胸の前で手を握りしめてイルクレスに一歩踏み出す。


「あのっ、イルクレスさんさえよろしければ、明日以降も診療所のお手伝いをさせていただけませんか? お願いします!」

 レティシアの懇願に、イルクレスは困り切った声を上げた。


「わたしは本職が軍団病院付きの医師で、この診療所は非番の日だけ開けているんです。軍団病院は敷居が高いという人もいるので……。平時なら、数日に一度は非番なのですが、最近はなかなか非番がなく……。今日も、一日休みを取れたのは半月ぶりなんです」


「半月ぶりの休日を、患者さんの為に使われるなんて、イルクレスさんは本当に患者思いのいいお医者様なのですね……。でも、ご無理をなさったりしていませんか?」


 ヒルベウスがさんざん注意していた言葉の意味を、ようやく実感した。医者が健康を損なっては元も子もない。もしイルクレスが過労で倒れたりすれば、大勢が困るだろう。


 心配のあまり詰め寄ると、イルクレスは慌ててかぶりを振った。

「だ、大丈夫ですよ。ちゃんと自分の体調にも気を遣っていますから……」


「でも、イルクレスさんがなかなか診療所を開けられないのなら、治療を必要としている民間の患者さんは……」


 今日出会った女性や、街道で襲われた荷馬車のことを思い出し、レティシアはうつむいた。

 襲撃の被害に遭うのは軍団兵だけではない。だが、軍団病院でも一般の診療所でも診てもらえないのなら、民間人の怪我人はどうすればいいのだろう。

 かといって、イルクレスに無理をしてくれとは、口が裂けても言えない。


 黙り込んだレティシアに、短い吐息が聞こえた。顔を上げた拍子に、こちらを真っ直ぐに見つめるイルクレスの眼差しとぶつかる。


 わずかの間、ためらうように視線を揺らしたイルクレスが、覚悟を決めたように唇を引き結んだ。

「あなたのおっしゃる通り、わたしも診療所を開けられない間のことを心配しているんです。ですから……」

 一度、言葉を区切ったイルクレスが、ひたとレティシアを見つめる。


「勝手なお願いなのは百も承知です。ですが、あなたさえよければ、お暇な日だけでかまいませんから、代わりにこの診療所を開いていただけませんか? もちろん、相応の謝礼はお渡しします!」


 思ってもみなかった申し出に息を飲む。考えるより先に、言葉が口を突いて出た。

「そんな……駄目です!」

 イルクレスの表情が沈む。構わずレティシアは言葉を続けた。


「お礼なんていただけません! 無償で手伝わせてください!」

 初めて同じ医者に認めてもらった喜びに、天に昇りそうなほど心が舞い上がっている。自分を信用してくれたイルクレスの願いに、何としても応えたい。


「レティシアさん……! あの、でも、総督の看病でお忙しければ、無理にとは……」

 感極まった表情でレティシアの名を呼んだイルクレスが、我に返って慌てて告げる。レティシアは安心させようとにっこり微笑んだ。


「もちろんネウィウス様の看病を第一にいたします。ですが、幸いネウィウス様の状態は安静にしていただくだけですから……。数刻程度なら、こちらへ来れると思います」


「奇特な奴だな。何を企んでいる?」

 突然、戸口の幕を割って入ってきた声に、驚いて振り返る。腕を組んで立つタティウスが、不審さを隠そうともせずレティシアを睨みつけていた。


「わざわざ自分から苦労を背負い込むなんて、何を考えている? しかも無償でだと? 偽善者ぶりに吐き気が湧く。言っておくが、イルクレスを通じて俺に恩を売ろうとしても無駄だからな。こいつは、ただ部屋を借りているだけだ」


「タティウス様に恩を売ろうなど……そんなことは考えておりません。私はただ、少しでもお役に立てればと……」


「ふうん?」

 タティウスの見下す眼差しは、全く信じていないようだ。


「あの、レティシアさん。お疲れでしょう。今、飲み物を用意させますから、少し休憩を……」

 一気に不穏になった空気を何とかしようと、イルクレスがわたわたと立ち上がる。その声でレティシアは我に返った。


「そういえば、私、何も言わずに出てきてしまったんです。イルクレスさん、お気遣いありがとうございます。心配をかけているでしょうから、今日はこれで失礼いたします」

 モイアが心配しているに違いない。迷子になったのではないかと探されては大事だ。


「ふん。さっさと帰れ」

「手伝っていただいてありがとうございました」

 頭を下げるイルクレスに礼を返しながら立ち上がると、タティウスも立ち上がった。鼻を鳴らしてタティウスがレティシアを睨む。


「善人のように振る舞っても俺はだまされん。正体を見破ってやる。このまま一人で帰すわけにはいかん」


「わかりました。お気のすむようになさってください」

 イルクレスと診療所を開ける際のやり方などを手早く打ち合わせ、レティシアはタティウスと共に診療所を出た。



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