第6章 前線の町にて 4


 扉を開けると、微かに香の匂いが漂ってきた。香にはゆるやかな殺菌作用があるため、診療所や医神アスクレピオスの神殿でよくかれている。

 短い廊下を通り過ぎると、待合室が設けられていた。老若男女、何人もの患者が順番を待っている。


 タティウスは患者達には目もくれず前を通り過ぎると、奥の部屋との仕切りになっている幕を肩で押しのけた。


「入るぞ」

 突然の乱入者に、部屋の中で幼い男の子の診察をしていた青年が、驚いた顔で振り返る。


「タティウス様! 急に一体……」

「怪我人だ。心配するな。診るのはこいつだ」

 青年の驚きを無視し、タティウスは我が物顔で部屋を横切ると、奥にあった椅子に女性を下ろす。


「ありがとうございます」

 レティシアは深々と頭を下げると、すぐに女性の足元に屈んだ。


「失礼しますね」

 ストラの裾をめくり、雑に巻かれた包帯を、傷に障らないよう丁寧に外す。包帯の下のふくらはぎに太く長い傷が走っている。まだ完全にふさがっておらず、血がにじんでいた。


「この傷はどうしたんですか?」

 尋ねると、女性は顔をひきつらせた。


「昨日、町の外の畑で、蛮族の一団に襲われて……。すぐに警備隊が駆けつけてくれたんですが、逃げる時、誰かが放っていたくわに引っかかってしまって……」


「それはお気の毒に。汚れたままの傷口に包帯を巻くと、逆に悪化することもあるんです。少し沁みますが、まずはよく洗って、それから薬を塗って包帯を巻きますね」


 水を探して頭を巡らせると、そばの椅子に座って興味深そうにレティシアを眺めていたタティウスからすかさず声が飛んだ。


「水なら部屋の隅に水瓶が置いてある。薬も包帯も好きに使え」

 「使え」と言われても、診療所の主は明らかに青年医師で、タティウスは単なる客のはずだ。


 困って青年を振り向くと、男の子の診察を終え、次の患者の手当てに取りかかっていた青年は、柔らかな苦笑を浮かべた。


「あー、わたしは待っている患者の診察で手一杯なので、あなたが手当てをしてくれれば助かります。薬と包帯はそこの棚です。傷薬は……」


「ありがとうございます。傷薬は手持ちがありますので、包帯をいただきます」

 帯の間から、合わせ貝の軟膏入れを取り出す。


 手桶に水を汲んで戻り、傷を丁寧に洗う。女性が痛みに顔をしかめた。

「痛いでしょうが、少しだけ我慢してくださいね」

 傷口を綺麗にした後、傷薬を塗り、清潔な包帯を巻き直す。ひねった足首には青年からもらった湿布を張り、手当は完了だ。


「これで大丈夫ですよ。包帯が汚れた時は、清潔なものと取り換えてくださいね」

 女性を見上げて微笑むと、女性は深々と頭を下げた。


「本当にありがとうございます。あんまり痛くて軍団病院に行ったんですが、今は怪我をした兵士を診るので手一杯だからと断られてしまって……。途方に暮れていたんです」

「軍団病院がそんなことに……」


 ローマ軍には必ず医師も従軍している。基地には病院も併設され、怪我や病気の兵士の治療をするほか、周辺住民への医療にも貢献している。

 しかし、反乱が続いている非常時では、民間人の治療にまで手が回らないのだろう。


 女性の言葉に、青年が申し訳なさそうに眉根を寄せる。

「申し訳ない。軍団病院である以上、どうしても兵士の治療が優先になってしまうんです。小規模な戦闘が毎日のように起こるので、怪我人が増える一方で……」


 内部事情に詳しい物言いに驚いていると、タティウスが助け舟を出してくれる。


「そいつはイルクレスと言って、軍団病院で働いているんだ」

「まあ、軍団病院で! すごいですね」


 イルクレスはタティウスより少し年上くらいだ。その若さで軍団病院に勤めているということは、腕がいい証拠だ。

 賞賛を受け、イルクレスは照れたように微笑むと、レティシアの処置を確かめるように女性の足に目を走らせた。と、感心した声を上げる。


「すごい。これはいい腕だ。包帯も巻き方も上手だし、処置も正しい。よかったねえ」

「ありがとうございます。痛みもましになった気がします。ところで、お代は……?」

 問われて、レティシアは困ってイルクレスを見た。


 傷薬はレティシアの物なので無償で構わないのだが、包帯と湿布は診療所の物だ。

 イルクレスが心得顔で頷く。

「代金は五セステルティウスです。廊下に奴隷がいますので、彼に渡してください」


 イルクレスが告げた金額にレティシアは感心した。医者の中には法外な治療費をふっかける不埒者ふらちものも多いが、イルクレスが告げた金額は適正だ。


「お大事に」

 と女性を見送ったイルクレスは、すぐに次の患者に向き直る。待合室にはまだ大勢の患者が待っている。一人で診察していたら、どれほど時間がかかるだろう。


 レティシアは思わず口を開いていた。

「あのっ、イルクレス様さえよければ、診察のお手伝いをさせてもらえませんか⁉ お願いします!」


 予想だにしていなかったらしい申し出に、イルクレスが目を丸くする。

「そりゃあ、あなたのように腕の確かな人なら、こちらからお願いしたいくらいですが……」

 今度はイルクレスが困った顔でタティウスを見る。レティシアは自分がまだ名乗ってもいないとようやく気づいた。


「申し遅れました。私はレティシア・テオフラテスと申します。先ほどは、大切な医薬品を分けていただき、ありがとうございました」

 丁寧に頭を下げたところで、タティウスの声が飛んでくる。


「そいつは、ヒルベウスが親父殿の看護の為に連れてきた医者だ。……手際を見る限り、医者というのは本当らしいな」

 タティウスの微妙な言い回しには気づかず、イルクレスは驚いた声を上げる。


「ヒルベウス様の……。やはり、ヒルベウス様も来られたのですね」

 イルクレスはレティシアに気遣う視線を向けた。


「……本当に、手伝っていただいてもいいのですか?」

「もちろんです」

 レティシアは間髪入れずに頷く。


「同じ医者として、怪我や病気で困っている方を放っておけません」

 次いでイルクレスはタティウスを見やった。タティウスは視線を避けるように、ふいっと顔を背けると立ち上がる。


「俺は関係ない。そいつが手伝いたいと言うんなら、好きなだけこき使ったらいいだろう」

 タティウスは振り返りもせず戸口へ向かう。


「そいつは昨日の親父殿の熱も下げたし、少なくとも薮医者ではないらしい。俺は部屋に戻る」

 タティウスは出入り口の幕をからげると出て行った。香の匂いが揺らめく。


「では……レティシアさん、お手伝いをお願いします。わからないことがあれば、何でも聞いてください」

「はいっ!」

 ぺこりと頭を下げたイルクレスに、レティシアは大きく頷いた。


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