第7章 夜気に香り立つ花 1


「もーっ、どちらに行かれてたんですか! タティウス様を追いかけたっきり、戻られないから、心配で心配で……。ヒルベウス様がお帰りになったら、ご報告しようと思っておりました!」


 官邸の自室に戻るなり、レティシアはモイアに詰め寄られた。ヒルベウスに迷惑をかける事態にならなくてよかったと、素直に謝る。


「ごめんなさい。心配をかけて……」

 タティウスを追いかけた後、イルクレスの診療所へ行き、手伝うことになった事情を説明すると、モイアは大仰に溜息をついた。


「それはまあ、レティシア様らしいというか何というか……。でも、よろしいのですか?」

 モイアが心配そうにレティシアを見る。

「ヒルベウス様がお嫌に思われるのでは?」


「どうして? 町の人々の為だもの。きっとヒルベウス様は賛成してくださると思うけれど……。もちろん、ネウィウス様の看病をおろそかかにはしないわ」

「いえ、レティシア様がなさろうとしていることは素晴らしいことですし、行為自体はヒルベウス様も反対なさらないでしょうが……」


 モイアが言わんとする内容を理解できず、黙って続きを待つ。モイアは、

「ああもうっ、レティシア様ったら……」

 と小さく呟くと、向き直った。


「レティシア様がタティウス様と親しくなさっては、ヒルベウス様がご不快に思われるのでは?」

「どうして?」

「それは……っ」

 少し言い淀んでからモイアが言葉を続ける。


「兄弟と言えど、お二人は腹違いの上に、跡目争いで揉めている間柄ではありませんか! それに、もしヒルベウス様に毒を盛らせたのがタティウス様の指示だとしたら、レティシア様の身にも危険が及ぶかもしれません!」

 真摯に心配してくれるモイアを安心させようと、レティシアは優しく微笑む。


「今日、タティウス様と話してみて感じたのだけれど、毒を盛らせたのはタティウス様ではないと思うの。あの方は卑怯な行いをできる性格ではないわ。少し不器用だけれど、きっと本当は優しい方よ」

 何とも言い難い複雑な表情でこちらを見つめるモイアに、心中を明かす。


「私なんかにできるかわからないけど……。もし、お二人の間に何か不幸な行き違いがあるのなら、仲立ちできないかと思っているの」


「レティシア様ったら、本当に人が良すぎですよ……」

 レティシアの告白に、モイアは諦めたように吐息した。

「わたくしもレティシア様に助けられた身ですから、強くは言えませんけど。……わかりました。診療所の手伝いを止めはいたしません。ですが、一つ条件がございます」

 びっ、と人差し指を立ててモイアが迫る。


「わたくしも一緒に手伝わせてくださいませ。レティシア様に教えていただいて、薬草を煎じたり煮出すくらいならできますし、雑用も何でもいたしますから」


「モイアが手伝ってくれたら、すごく助かるわ! 嬉しいけれど……よいの?」

 万が一、ヒルベウスの不興を買った時には、必ずモイアを庇うつもりだが、念のため尋ねる。自分の無茶にモイアを巻き込みたくはない。


「もちろんですよ!」

 モイアは拳で胸を叩く。

「わたくしはレティシア様の侍女なんですから、当然です! もし、タティウス様が悪巧みをしていても、わたくしが守って差し上げます!」

「モイアったら……。タティウス様はそんな方ではないと言ったでしょう? それに……」

 モイアの言い方がおかしくて笑い声をもらしたレティシアは、そっとモイアの手を取った。


「私はあなたを侍女ではなく、友人のように思っているわ。恥ずかしいけれど、私、今まで女の子とこんなに親しくしたことがないの。だから……あなたと親しくなれたのが、嬉しいの」

 話している内に、頬が熱くなってくるのがわかる。


 故郷の村にも同年代の少女はいた。けれど、父の助手を務めていたレティシアには、村の少女達と一緒に農作業や機織りをする機会はほとんどなく、仲良くなる機会自体が希少だった。

 ……もっとも、機会があったとして、少女達がレティシアと仲良くしてくれるかは、はなはだ心もとなかったが。


 レティシアにとってモイアは、初めて自分を忌避せずそばにいてくれる同年代の友人だ。大切にしたい。


「レティシア様……」

 モイアが感極まった声を上げる。湿り気を帯びた部屋の空気を破ったのは、ノックの音だった。


「ヒルベウスだ。いいか?」

「は、はい。どうぞ」

 入ってきたヒルベウスの姿を見て、レティシアもモイアも目を丸くする。


 ヒルベウスはいつものトゥニカ姿ではなく、真新しい軍装だった。

 袖なしの上衣に、良く磨かれた金属製の鎧。ベルトから下がる飾り紐についた鋲までぴかぴかに磨き上げられている。腰にいたグラディウスは、旅の間も使っていた愛用品だ。両肩から下がる短い紅のマントは、高位の将校の地位を表している。


「どうかしたのか?」

 呆気にとられている二人に、ヒルベウスが真面目な顔で問う。我に返って、レティシアはおそるおそる尋ねた。


「あの、その軍装はどうなさったのですか?」

「ああ、これか」

 ヒルベウスは自分がまとう軍装にちらりと視線を落とした。


「父上の命で、戦死した大隊長に代わって大隊を一つ指揮することになってな。軍団基地から戻ってきたばかりなんだ。それより」

 ヒルベウスは一度言葉を切ると、わずかに言い淀んで続けた。


「よかったら……今夜、一緒に食事はどうだろうか? といっても、饗宴きょうえんのような豪華なものではないんだが。父上の看病の礼もしたいし、わたしは明日からしばらく、軍団基地に詰め通しになるだろうからな」


「もちろんお受けいたします! 断るわけがございませんわ! ね、レティシア様っ」

 レティシアより早く、返事をしたのはモイアだ。断る気はなかったので、「ええ……」とモイアの勢いにたじろぎながら頷く。


「そうとなれば、おめかししなければなりませんね。いつからお食事のご予定ですか?」

 まるで自分が食事に誘われたようにモイアがうきうきと尋ねる。

「では、半刻後(約一時間後)に食堂トリクリニウムでというのはどうだ?」


「半刻後ですね、かしこまりました! 腕の見せ所です! 必ずやヒルベウス様にご満足いただけるように着飾らせてみせますわ!」


「そうか。それは楽しみだ」

 本人をよそに気合十分なモイアに、ヒルベウスが苦笑する。当事者であるレティシアは、

「あの、どうしたの? 私は別にいつものストラでも……」

 となだめようとするが、

「いけません!」

 と逆に叱られてしまう。


「レティシア様はそのままでもお綺麗ですが、もう少し身を飾るすべを覚えられた方がよろしいと思います。さあ、こちらへいらしてください。あと半刻となると、着替えて髪を結って、お化粧も……」

「では、後ほど。わたしも軍装を解いてこよう」

 ぶつぶつ呟き始めたモイアから逃げるように、ヒルベウスが一歩下がって扉を閉める。


「あ……」

 この状態のモイアと二人きりになるのは勘弁願いたいのだが、望みは砕かれる。


「さあ、こちらへいらしてくださいませ。時間は限られているのですから。……それにしても、先ほどのヒルベウス様は素敵でしたねえ」

 手はてきぱきとレティシアを着替えさせながら、モイアが陶然と息をつく。


「いつもは気詰まりなほど堅苦しいお顔でいらっしゃいますけど、軍装をまとうと、かえって頼もしく見えて……。男ぶりが上がられますわね」

「そうね」

 うきうきと弾むモイアの声に頷く。


 初めて見た軍装のヒルベウスには、レティシアも思わず見惚れてしまった。上背うわぜいがあり、引き締まった体をしているからだろう。軍神マルスもかくやという美丈夫だ。


 だが、大隊を率いるということは、戦いの最前線に出ることでもある。軍を率いての戦いとなれば、激しさは以前、街道で出くわした襲撃の比ではないだろう。


 宿でヒルベウスの傷を見つけた時の恐怖を思い出し、心臓がきゅぅ、と縮む。


「どうなさいました? 強張ったお顔をなさって……。大丈夫ですよ。ヒルベウス様がうまくしてくださいますわ」

「え、ええ……」

 モイアの言葉の意味もわからないまま、レティシアは曖昧あいまいに頷いた。

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