番外編:薄紅色の守護女神 8


「あの、教えてくだされば、エポナ様の天幕まで一人で行きます。ヒルベウス様はどうかお戻りに……」


 天幕の外は宵闇よいやみが迫っていた。

 夕焼けは、陣営を囲む木々の向こうに僅かに残るばかりとなっている。要所要所に置かれ、幾つもの天幕を照らす篝火かがりびが、ぱちぱちと火の粉を散らしていた。


 ローマ軍の陣営は、規則に従って整然と天幕が建てられるため、教えてもらえれば、一人でもエポナの天幕へ行けるはずだ。


 レティシアは一歩先を歩くヒルベウスに申し出る。が、

「駄目だ」

 と一言で却下された。


「少なくともカルヌントゥムに戻るまでは、もう君から目を離さないと決めた。君がエポナ殿の天幕に入るのを見届けるまでは、決して戻らん」

 小さく吐息して、ヒルベウスが続ける。


「君は、いつもわたしの予想を越える行動ばかりとるからな」

「すみません……。ですが、マルティクス殿をお待たせしては……」


 かたくななヒルベウスに、恐縮しつつも抗弁すると、つないだ手に力が込められた。

 決して痛くはない。けれど、振りほどけない強さ。


 ヒルベウスが笑んだ声で告げる。

「聞き入れてくれぬのなら、抱き上げて運ぶぞ?」


「いけません! そのようなこと!」

 ちぎれるほど首を横に振る。

 頬が瞬時に熱くなったのが、触れずともわかる。


 脳裏をよぎったのは、タティウスの言葉。


「私のせいで、ヒルベウス様が非難される事態になっては、申し訳ありません」


「……あながち間違いではないがな」

「え?」

 低い呟きを聞き返した瞬間、腕を引かれた。

 よろめいた身体を力強い腕に抱きとめられる。


「君におぼれているのは、確かだ」


 大きな手が頬にふれる。レティシアが巻いた絹の包帯の感触。髪を撫でる手の優しさに、心がほどけていく感覚を味わう。

 上を向かされ、そっと優しく口づけされ。


「……タティウスに感謝しなければならんな」

 唇を離したヒルベウスが低く呟く。


「君と一晩、同じ天幕にいて、理性を保てる自信がない」

 熱をはらんでかすれた呟き。


 問い返すより早く、もう一度唇が下りてきた。

「ん……っ」


 優しい――けれども、激情を秘めた口づけに翻弄され、頭がぼうっとなる。

 なけなしの理性を総動員して、そっとヒルベウスの胸を押し返す。


「いけません。どなたかに見られては、ヒルベウス様の名に傷が……」

「……わたしがそばにいては、迷惑か?」


 不意に、ヒルベウスの声が不安に揺れる。無我夢中でレティシアはかぶりを振った。


「そのようなこと……! ヒルベウス様の隣にいられることがどれほどの果報か、存じております。だからこそ、私のせいでヒルベウス様の名誉に傷など……っ」


 自分の存在がヒルベウスの邪魔になってはいけない。分をわきまえなくては、と理性ではわかっているのに、感情はするりと口からこぼれ出てしまう。


 ヒルベウスがとろけるような笑みを見せた。

「君も隣にいたいと願ってくれるのなら、それだけで十分だ」


 胸元に当てていた手を、大きな手に掴まれる。からんだ指先に、心まで絡めとられる。


「君のためにつく傷なら、甘んじて受けよう」


 指先に口づけたヒルベウスが、甘く囁く。

 駄目だとわかっているのに、その甘さにけそうになる。


「で、ですが、エポナ様がお待ちに……」

「エポナ殿の天幕はすぐそこだ。少しの寄り道くらい構わん」


 抵抗など無駄だと言わんばかりに抱き寄せられる。

 吐息ごと奪うような、熱い口づけ。


「もう宵闇も迫ってきた。わたし達を見咎みとがめる者など誰もおらん」


 耳朶じだを震わす甘い囁きに、このまま身をゆだねてしまいそうになる。

 と、ヒルベウスが悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「いや、ここにはまだ、夕焼けが残っているらしい」

 ヒルベウスが愛おしげに撫でたのは、レティシアの頬だ。


「熱くて、紅い。夕焼けそのままだな」

 苦笑するヒルベウスの手も唇も、レティシアと同じほど、熱い。


「それに、見惚みほれるほど綺麗だ」

「ご冗談を……」


 俯きたいが、頬を包むヒルベウスの手が許してくれない。頬からすべった手が顎を持ち上げる。


「わたしの守護女神は薄紅色だな」

 優しい口づけを降らせたヒルベウスが、笑んだ声で言う。


「ご冗談は……」

「冗談などではない」

 抱き寄せたヒルベウスの腕に力がこもる。


「叶うなら、どれほど君を想っているか今すぐ伝えたいところだが……」


 深い溜息をついたヒルベウスが、苦労した様子で身を離す。

「さすがに、これ以上ゆっくりしていては、タティウス達に叱られるな」

「はい……」


 離れたくない、と反射的に願った感情を押し殺す。ヒルベウスの決断を揺らがせたくない。

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