番外編:薄紅色の守護女神 7


 ヒルベウスは、内心で首を傾げる。

 タティウス以外にまだ用のある者がいるのだろうか。天幕へ戻る前に、あらかた仕事は済ませてきたはずだが。


 誰何すいかすると、声の主はマルティクスだった。

 ヒルベウスが自ら天幕の入り口を開けると、オイノスを従えたマルティクスが入ってくる。オイノスは両手に荷物を抱えていた。


「どうかされたのか?」

 ヒルベウスが尋ねると、マルティクスがタティウスに視線を向けた。


「タティウス殿に、ヒルベウス殿の天幕に移ってくれないかと頼まれまして……」

「タティウスに?」

 いぶかしさに眉をひそめ、弟を見る。と、タティウスが腕を組み、憤然と鼻を鳴らしてヒルベウスを睨みつけた。


「今夜、レティシアをどこに泊まらせる気だ?」

「レティシアを?」


 虚を突かれて思わず聞き返す。タティウスが呆れたように、再び鼻を鳴らした。


「まさか、何も考えていなかったのか?」


 馬鹿にしたように言われたが、ぐうの音も出ない。

 レティシアをそばに引きとめておくのに精いっぱいで、タティウスに言われるまで、考えもしなかった。


「傷病者用の天幕でのことは、俺の耳にまで届いたぞ」

 タティウスの言葉に、レティシアが顔を真っ赤に染めて恥ずかしそうにうつむく。


「お前が女におぼれている指揮官と兵士に侮られるのは勝手だが、家名に泥は塗るなよ? 俺が迷惑だ」

 あざけるように、薄い唇を歪めて言い放ったタティウスが、一瞬、レティシアに視線を向け、ふいと逸らす。


「……こいつの名誉まで傷つける気はないんだろう?」


 タティウスの言葉に内心、驚く。

 初めてレティシアに会った時は、侮蔑を隠そうともせず、暴言を吐いたタティウスが、体面を気遣うようになるとは。


「タティウス様、お気遣いありがとうございます。ですが、私には気にかけていただくような名誉など……」

 レティシアが困惑したようにかぶりを振る。おそらく、故郷の村で「呪われた娘」とさげすまれていたことを気にしているのだろう。


 だが、もちろんヒルベウスはレティシアの体面を傷つける気などない。その意味では、己の迂闊うかつさに気づかせてくれたタティウスには、感謝しかない。


「兄妹ということで、マルティクス殿とエポナ殿には同じ天幕を使ってもらっているが、マルティクス殿にはお前の天幕に移っていただいて、レティシアをエポナ殿と同じ天幕にすれば、何も問題ないだろう?」


 タティウスの言葉に、マルティクスがここへ来た意図をようやく理解する。

「申し訳ありません。急にお邪魔いたしまして……」

 頭を下げるマルティクスに、慌てて首を横に振る。


「とんでもない。本来なら、わたしからお迎えにあがらねばならなかったところを、申し訳ない。わたしも、マルティクス殿とはゆっくりとお話してみたいと思っておりました」


 告げた言葉に偽りはない。マルティクスからゲルマン人の風習や考え方について聞くことは、今後、反乱に対する上で、必ず役に立つだろう。

 マルティクスも生真面目な顔をほころばせる。


「わたしもです。父からローマの話を聞いて育ちましたが、わたし自身は首都に足を踏み入れた経験もなく……。この機会に、ぜひとも様々なことを教えていただきたい」


 マルティクスが告げたところで、奴隷達が数人がかりで組み立て式の寝台を運んでくる。一気に天幕の中が騒がしくなった。

 ヒルベウスはマルティクスに一礼して、レティシアの手を取った。


「あの……?」

「マルティクス殿。こう騒がしくては、落ち着いて話をすることもできません。寝台を設置している間に、レティシアをエポナ殿の天幕まで送ってきます。申し訳ないが、少し席を外させていただく」


「おい、ヒルベウス」

 呆れ声を上げたタティウスを振り返る。


「タティウス、お前もマルティクス殿とよしみを結んでおくといい。マルコマンニ族の次期族長となるマルティクス殿との交誼は、必ずお前の為になるだろう。オイノス、二人に飲み物を用意してくれ」


「かしこまりました」

 オイノスが諦めと苦笑が入り混じった表情で、深々と一礼する。


「ヒルベウス様……?」

 戸惑うレティシアの声を無視し、華奢きゃしゃな手を引いて天幕を出る。


「……うつつを抜かす腑抜ふぬけめ」

 入口の幕を閉める寸前、タティウスが小声で吐き捨てるのが聞こえたが、ヒルベウスは気にも留めなかった。

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