番外編:薄紅色の守護女神 9


「エポナ殿の天幕はほら、そこだ」

 青みを増してきた宵闇の中を、ヒルベウスに手を引かれて歩く。


 言葉通り、エポナの天幕まではほんの少しの距離だった。

 天幕の前で、お互い離れがたさに無言になる。


「あの……。送っていただいて、ありがとうございました」

 頭を下げて礼を言い、手を放そうとすると、ヒルベウスがぎこちなく手を緩めた。


「ああ……。エポナ殿にも、よろしくお伝えしてくれ」

「は、はい」


 見上げた視線が、ヒルベウスの黒い瞳とぶつかる。

 熱をはらんだ眼差しに、身体の奥があぶられるようだ。


「では……。失礼いたします」


 背を向けようとした瞬間、息が止まるほど、強く抱きしめられた。

 むさぼるように口づけられる。


「んん……っ」

 全てを奪いつくそうとするかのような激しさに、思わず声が洩れる。その声すら吸い尽くされ、燃えるように熱い手が身体をかき抱く。


「……すまん。自分が抑えられなかった」


 どれだけの時間、口づけていたのだろう。

 唇を離したヒルベウスが、うって変わって優しい手つきでレティシアの髪を撫でる。壊れものを扱うかのような、繊細な指先。


「……君の寝顔を見るかもしれないと、エポナ殿にまで嫉妬するとは、我ながら、どうかしているな……」


「?」

「何でもない」

 かぶりを振ったヒルベウスが、そっとレティシアの頬にふれる。


「急にすまなかった。……ゆっくり休んでくれ」

「は、はい……。ヒルベウス様も……」


 深くなる宵闇の中、ヒルベウスが慈しむような笑みを浮かべたのが見える。

「ありがとう。大丈夫だ。わたしには、君がくれたこれがあるから」


 ヒルベウスが胸元を軽く叩く。隠れていて見えないが、服の下にあるのはレティシアが贈った香袋だ。


「では……。また明日」

 ヒルベウスが背を向ける。

「はい……。はいっ、また明日……」

 レティシアは胸元で両手を握りしめ、何度も頷く。


 昨夜は、明日への絶望しかなかった。明日を待ち遠しく思えるとは、なんと幸せなことだろう。

 宵闇の向こうへ背中が見えなくなるまで、レティシアはじっと見送っていた。


 ヒルベウスの姿が見えなくなってから、ようやく天幕の中へ声をかける。


「エポナ様、いらっしゃいますか? レティシアですが……」

「レティシア様、お待ちしておりました! さあ、お入りになってください!」


 勢いよく、天幕の入り口を開けたエポナが、驚くレティシアの腕を取り、天幕の中へと引き入れる。


「私、レティシア様と一緒に泊まれると聞いて嬉しくて……っ」

「エ、エポナ様……」

 エポナはレティシアの声も聞こえないほど浮かれているようだ。


「遠慮なさらず、どうぞ奥へ……。あらっ、レティシア様、まだそのストラのままなのですか⁉ 私の着替えがありますから、すぐお着替えになって……」


 手を引いて奥へと招き入れながら、怒涛どとうの勢いで話していたエポナが、レティシアを振り返り、目を見開く。


「まあっ、レティシア様! お顔が真っ赤だわ! どうなさったんです⁉ もしかして熱でも⁉」


「い、いえ、これは……」

 どうして顔が赤くなっているかなど、エポナに説明できるわけがない。


 思い出すだけで、さらに頬に熱が集まる。頬だけではない。全身が熱い。

 無意識にふれた唇は、まるで燃えているかのようだ。


「あの、これは、その……」

 すぐに巧い言い訳が見つかるはずもなく、結局、しどろもどろのまま、エポナに手伝われながら着替える。


「まあっ、レティシア様。この傷は……」

 紅のマントを外したエポナが、痛ましそうに眉をひそめる。


「あ……」

 存在を忘れていた首筋の傷に、改めて気づく。

 ゲルキンに噛まれた歯形の跡。


「これは、ゲルキンに……」

「なんて酷いことを……っ」

「大丈夫です。数日もすれば、跡も残らず消えてしまいます」

 エポナを安心させるよう、微笑んで告げて――。


 不意に、傷を消そうと言わんばかりに何度も口づけていたヒルベウスを思い出し、頬が火照ほてる。


「これも……。せっかく綺麗なストラですのに……。裾も裂けてしまって、もったいないですね」

 エポナが着替えを手伝ってくれる。


 手渡された清潔なストラに着替えると、ようやくさっぱりした心地になった。

 ……それなのに、どこか少し、物寂しい。


 ゲルキンにもてあそばれたストラなど、一刻も早く脱ぎ捨てたかったはずだ。

 だが、それは、同時にヒルベウスがふれてくれた服でもある。


 まるで、生々しい傷跡をかさぶたが覆い隠すように、ゲルキンにふれられた場所を全て、ヒルベウスが上書きしてくれた。

 着替えてもなお、ヒルベウスの力強い腕が、優しい指先の感覚が、レティシアの肌に残っている気がする。

 熱を孕んだ甘い囁きを思い出すだけで、全身の血が沸騰しそうだ。


「レティシア様、大丈夫ですか? 紅い顔で黙ってしまわれて……。やはり、お身体の調子がお悪いのでは?」

「ち、違うんです。今日はその……胸がいっぱいになることが多すぎて……」

 ふる、とかぶりを振る。


「そうですよね。昨日からずっと、大変な目に遭われたんですもの……。どうぞ、ゆっくり休んでくださいませ」

 エポナが優しく寝床に案内してくれる。


 柔らかい毛布にくるまると、無意識にほう、と安堵あんどの吐息が洩れた。

 まだ体は疲れているはずなのに、なかなか寝つけない。


 目を閉じても、たった一人の面影だけが、眼裏に浮かぶ。


 ……自分は今、ここがヒルベウスの天幕でないことを、残念に思っているのか、それとも安堵しているのか。

 自分のことなのに、心の中が読めない。こんな感情は初めてで……どうしたらいいのか、わからない。


 そっと、唇にふれる。

 まだ甘い余韻よいんが残る、熱い唇。


「……ヒルベウス様……」


 そばにいずとも自分を翻弄する人の名を、レティシアは戸惑いと幸せが入り混じった気持ちで、そっと呼ばった。



                                終

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