番外編:薄紅色の守護女神 5


「ん……」

 どれほど眠っていたのだろう。レティシアは安眠の充足感に満たされて、目を覚ました。


 起きようとして、動かない右手に気づく。

 視線を向けると、ヒルベウスがレティシアの手を握り、椅子に座ったまま眠っていた。首だけが、かくんと前に垂れていて、辛そうな姿勢だ。まだ軍装すら解いていない。


「ヒルベウス様⁉」

 声を上げかけ、起こしては悪いと口をつぐむ。


 寝入る前のやり取りを思い出し、やはりヒルベウスはレティシアに寝台を譲ってくれたのだと、感謝と申し訳なさが湧き上がる。


 父親以外の人に、これほど優しくしてもらった経験などない。この恩を一体どうやって返せばいいのだろう。

 ヒルベウスの恩恵に対し、レティシアからは何も返せていない気がする。


 起こさぬよう、そろそろと上半身を起こす。

 毒を盛られ、ヒルベウスが倒れた時とは反対だ。あの時は、レティシアが椅子で、ヒルベウスが寝台に横たわっていた。


 ヒルベウスの顔は、疲労の色が濃い。

 レティシアの手を握る左手も、クォーデン族の陣営でレティシアが手当した薄紅色のストラの切れ端が巻かれたままだ。この様子では、他の怪我もろくに手当てしていないに違いない。


 起こしてでも寝台に移ってもらって休んでもらうべきか、それとも、このまま休んでもらった方がいいのか……。迷っていると、天幕の入り口から声がかかった。


「タティウスだ。ヒルベウス、報告をいいか?」

 その声にヒルベウスが目を覚ます。


「あ、ああ……。少し待ってくれ。すぐに行く」

 眠気を追い払うように、頭を振ったヒルベウスが立ち上がろうとし、握ったままのレティシアの手に気づいて、慌てて放す。


「すまない。君はまだ休んでいるといい」

 そう言われても、ゆっくりなどできない。天幕の入口へ向かうヒルベウスを追って、レティシアも寝台から下りる。


「すまん。待たせた」

 ヒルベウスが天幕の入口の布を開ける。外は夕暮れに紅く染まっていた。


 入口に立つタティウスの姿を見た途端、眠気が一瞬で吹き飛び、駆け寄る。

「そのお怪我は⁉」


 タティウスは折り曲げた右腕を布で吊っていた。生成りの布の素っ気なさが痛々しい。

 レティシアの悲鳴に、タティウスは不機嫌そうに顔をしかめる。


「クォーデン族を追撃した際に、斬られて怪我を負っただけだ。大した怪我ではない」

「ですが……」

 腕を吊るほどだ。かなりの深手だったのではなかろうか。


「もう手当ては受けた。腕を動かさぬよう吊られただけだ。仰々ぎょうぎょうしくて鬱陶うっとうしいが」

 ふい、とレティシアからヒルベウスに視線を移し、タティウスは皮肉げに薄い唇を歪める。


「まだ軍装を解いていなかったのだな。てっきり、とうに寝ているかと思ったが……。一応、指揮官としての自覚は取り戻したらしい」

 タティウスの言葉に、ヒルベウスがなぜかすこぶる不機嫌そうに顔をしかめる。


「見くびるな。ここがどこかくらい、わきまえている。怪我の身で、わざわざご機嫌伺いに来たわけではあるまい。報告と言ったが、内容は?」


 クォーデン族の陣営で、二人のやり取りを見た時には、少し兄弟仲が改善されたように思えたのだが……。

 レティシアの勘違いだったのだろうか。


 二人の間に流れる空気は、火花をはらんでいるかのように、ぴりぴりしている。

 一つ吐息し、不穏な空気を断ったのはヒルベウスだった。

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