第15章 所有の証を刻まれて 3


 天幕の外が一気に騒がしくなる。錯綜さくそうするゲルマン語の叫びの中に「ローマ」という単語が聞こえた気がして、思わず耳をそばだてる。


「ちっ、予想していたより動きが早い。お前はよほどの重要人物らしいな?」


 答えるより早く、荷物のようにゲルキンの肩にかつがれる。


「嫌! 放して!」


「グウェン! 浮足立った奴等をしずめろ! まだ完全には包囲されていないはずだ。抗戦しろ! ああ、それと」

 ゲルキンの唇が皮肉に歪む。


「はるばる来られたマルティクス殿に怪我をさせるわけにはいかん。くれぐれも厳重に、お守りしろよ?」


「はっ!」

 グウェンが猟犬のように天幕を飛び出していく。


狼狽うろたえるな! ここはゲルマンの森だ! ローマの奇襲部隊など、すぐに追い返せる! 俺にも馬を引いて来い!」


 周囲を叱咤しったしながら天幕を出るゲルキンの肩の上で身をよじって暴れる。見張りが引っ張ってきた馬のくらの前へ、荷物よろしくうつぶせに乗せられる。

 暴れる間もなくゲルキンがすぐに鞍にまたがる。


「暴れるなよ。落馬したら、首の骨を折ってあの世行きだぜ」

「どこに連れていくの⁉ 私を人質に使おうとしても無駄よ!」


「それを決めるのは攻めてきた奴らさ」

 たくみに馬を操り、宿営地を駆け抜けながらゲルキンがわらう。


「ったく、守ってやろうっていうのに、つれないな。どさくさにまぎれて、グウェンに刺されたくはないだろ? こんな美人を抱かない内に殺しちゃあ、神々に叱られるってもんだ」


 文句を言いたいが、激しく揺れる馬上では舌を噛みそうだ。代わりに頭を巡らせて、何とか状況を掴もうと試みる。


 宿営地は蜂の巣を突いたような騒乱だ。ろくによろいまとっていない男達が、手に手に武器をとってゲルキンと同じ方向へ駆けていく。


「どうせ小部隊しか来ていない! クォーデン族の勇猛を示して、愚かなローマ人どもをダヌビウス河に叩き込んでやれ!」


 ゲルキンの声に応じて、あちこちから雄々しい叫びが上がる。進行方向から、鋼が打ち合う音や、ラテン語とゲルマン語が入り乱れた叫び声、断末魔の悲鳴が聞こえてくる。


 視界の端で、朝日を反射したきらめきを捉える。ローマ軍の鎧兜だと、思わずこうべを巡らせた時。


「レティシア‼」


 空を裂く叫びとともに、一騎が乱戦の中を飛び出してくる。追いすがろうとしたゲルマン人を馬上からグラディウスで叩き伏せ、駆け寄ってくる姿は。


「ヒルベウス様!」


「ヒルベウス? では、あいつがネウィウスの息子か」


 ゲルキンの呟きに己の迂闊うかつさを歯噛はがみするが、遅い。


「突出してきた騎兵を狙え! そいつは将校だ! 討ち取った者には褒賞ほうしょうを与えるぞ!」


 ゲルキンが叫んだ途端、蜜に群がる蟻のように周囲のゲルマン人がヒルベウスに殺到する。

 ゲルキンが馬首を巡らせたせいで、ヒルベウスの姿が視界から外れる。


「部下に戦わせて自分は逃げるの⁉ 卑怯者っ!」


「戦いの知恵さ。突出する奴が悪い。いつまでもつやら」

 うそぶいたゲルキンがわらう。


 自分のせいでヒルベウスを苦境に陥らせるわけにはいかない。落馬覚悟で暴れようとした途端、ゲルキンに背中を押さえつけられる。


「無謀にもほどがあるぞ。お前にはおとりとしてしっかり働いてもらわなきゃならないんだ。大人しくしてくれよ」


「利用されるくらいなら、死んだ方がましだわ!」

「ったく、強情だな」

 舌打ちしたゲルキンが、背後を見やって「ひゅうっ」と口笛を吹く。


「なかなか腕が立つじゃないか。必死に追いすがってきやがる」


 レティシアは必死に頭を巡らせてヒルベウスを確認する。


 先頭のヒルベウスを狙うゲルマン人、指揮官を守ろうとする騎兵達が入り乱れ、大混戦だ。将校の位を表す紅色のマントが見え隠れする。


 幻聴だろうか。自分の名を呼ぶヒルベウスの声が聞こえた気がする。


 と、不意に人垣が割れる。まとわりつく敵を剣とひづめで蹴散らし、ヒルベウスが抜きん出る。


 鬼気迫る形相ぎょうそうのヒルベウスと、一瞬視線が合う。


「レティシア!」

 ヒルベウスがえる。


「おっと。のんびりしてられんな」

 ゲルキンが馬の速度を上げる。


 天幕や荷車が並ぶ宿営地の中を、うように巧みに駆けるゲルキンをヒルベウスが追う。こちらは二人乗りだが、ヒルベウスは一人だ。徐々に距離が縮まる。


 他に混戦の中を抜け出せた者はいないらしい。追ってくるのはヒルベウスだけだ。褒賞金目当てにヒルベウスを狙おうとも、クォーデン族もローマ軍も主力は歩兵だ、馬の速度には追いつけない。


 森が間近に見える。

 宿営地の外れまで来たところで、ついにヒルベウスが追いついた。


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