第15章 所有の証を刻まれて 2


 張り詰めた空気を破ったのは、拍子抜けするほど陽気な声だった。


「おいおい、グウェン。早起きじゃないか。働き者だな」

 ゲルキンの声に、はじかれたようにグウェンの体が揺れる。


「お前がそんなにレティシアに執心とは知らなかったな。いつの間に、俺が目をつけている女に手が出せるほど偉くなったんだ? ん?」


 口調は陽気だが、ゲルキンの緑の目は笑っていない。底冷えする威圧感に、レティシアの背にまで冷や汗がにじむ。


「申し訳ございません。出過ぎた真似をいたしました」


 あごつかんでいたグウェンの手がゆるみ、レティシアは飛びすさった。グウェンとゲルキンが共に見える場所に位置どる。

 ゲルキンは今すぐにレティシアを殺す気はなさそうだが、頼りにするのは危険すぎる。


「おいおい。そこは、助けてくれてありがとうと俺の胸に飛び込んでくるところだろ?」

 ゲルキンがおどけた仕草で両手を大きく広げる。


「好んで狼の胸に飛び込む兎なんていないでしょう?」

 冷たく告げると、ゲルキンがにやりと笑う。


「兎か。そいつはいいたとえだ。お前を食ったら、さぞかし美味いんだろうな?」


「骨が引っかかって大怪我をするかもしれないわ」

 精一杯の憎まれ口を叩く。


 狭い天幕の中だ。距離を取りたくても、すぐに幕に触れてしまう。

 今すぐ天幕をめくり上げて逃げたいという誘惑を、理性でねじ伏せる。ゲルキンとグウェンを目の前にして逃げ切るのは不可能だ。機会を待たなくては。


「……何を、企んでいる?」


 不意に、ゲルキンが低く呟く。答えるより早く、ゲルキンが大きく踏み出した。

 伸ばされた手から逃れようと、一歩退いた体が天幕にぶつかる。天幕が大きく揺れた。


「⁉」

 グウェンがかがみ込む。


 しまったとほぞを噛んだ時には、ゲルキンの腕に捕まれ、引き寄せられていた。


「放してっ!」


 もがくが、有無を言わさぬ力で両腕を後ろへねじられる。手首に触れる布の感触に死に物狂いで暴れたが、無駄な抵抗だった。帯の背中側に隠した短剣を取り出す暇もない。

 あっと言う間に両手を後ろで縛られる。


「天幕のくさびが一部抜かれています」


 険しい顔で告げたグウェンが、今にも斬りつけそうな形相ぎょうそうでレティシアをにらみつける。


「ほどいて!」

「女の力で道具もなく抜けるとは思えん。そもそも、抜いたのなら、なぜ夜の内に逃げなかった?」


 レティシアの叫びを無視したゲルキンがいぶかしげに眉を寄せる。


「抜いたけれども、森の暗さに怖気おじけづいたのよ!」


 マルティクスが宿営地を脱出するまで、疑いを抱かれるわけにはいかない。こんな早朝では、まだ出発を告げてもいないだろう。


「ははっ! 本当に面白い女だな。他人を助ける為に、自分が不利になる嘘をつくか」


 ぐい、と後ろ髪を掴まれ、無理矢理上を向かされる。

 狼を連想させるゲルキンの目が間近に迫り、悲鳴を噛み殺す。びくりと震えた喉を、ゲルキンの右手が掴む。


「細い喉だ。片手一本で折れそうだな」


 ゲルキンの手に力がこもる。狼に見据えられたように視線が離せない。


 獰猛どうもうな笑みをたたえ、ゲルキンの顔が下りてくる。


「嫌っ!」

 髪が抜けるのも構わず顔を背ける。


「つぅっ!」


 左の首の付け根に痛みが走る。

 噛まれたのだ、と悟った時には、歯形が刻まれた肌をぺろりとめられていた。


「俺の物だという印をつけておいた。これで、俺以外に手を出す馬鹿は現れまい。なあ、グウェン?」


「……はい」

 陽気なゲルキンの声に、グウェンが泥団子でも口に突っ込まれたような渋面じゅうめんで頷く。が、レティシアは聞いてはいなかった。


「私は誰の物でもありません!」


「ははっ! 一体、どうやったらその目の中の炎が消えるんだ? 飽きさせない女だな。次はどうしてやろうかとたかぶってくるぜ」


 ゲルキンが腰の強張りを押しつけてくる。

「突っ込めばさすがに泣き崩れるか? ん?」


 ゲルキンの手がストラの胸元にかかった、その時。

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