番外編~本編直後のふたり~

番外編:薄紅色の守護女神 1

 

「レティシア様!」


 ローマ軍の後衛の最奥。ヒルベウスに連れられ、立派な天幕に入った途端、喜声が上がった。


「エポナ様⁉」

 まさか、エポナが待っているとは思わなかった。


 初めて会った時より血色がよくなり、大部族の族長の娘らしい刺繍ししゅうの入ったストラを着ているエポナの姿に、ほっとする。

 エポナは飛びついてきそうな勢いで駆け寄ってきた。


嗚呼ああ! 本当に御無事でようございました! 兄からレティシア様がヒルベウス様に助けられたとは聞きましたが、お姿を見るまでは安心できず……」

 エポナの青い目は潤んでいる。レティシアはつられて自分の目も潤むのを感じた。


「ご心配をおかけしてすみません。でも、本当によかった。エポナ様がお兄様と再会できて……」


 エポナと手を取り合って喜んでいると、その後ろに立ったマルティクスが深々と頭を下げる。


「レティシア殿。改めて礼を言わせてください。エポナと再会できたのも、部族を戦禍に巻き込まずにすんだのも、全てあなたのおかげです。兄として、そして、マルコマンニ族の次期族長として、感謝します」


「とんでもありません。ただただ夢中で……」


「追い詰められた時にとる行動にこそ、その人物の真価が表れると、わたしは思います。あなたの行動は素晴らしかった。誰でも真似できることではありません」


「そんな……」

 マルティクスのまぶしそうな眼差しが気恥ずかしい。


 本当に無我夢中で、ろくに考えもせずした行動ばかりなのだ。

 頭にあったのは、ただただ、少しでもヒルベウスの役に立てればという想いだけだ。それを褒められては、恐縮するばかりだ。


 困り果てていると、ヒルベウスが助け舟を出してくれた。

「マルティクス殿。お気持ちはわかるが、まずはレティシアを休ませてやりたい。おそらく、昨日からほとんど休めていないだろうからな」


「これは気が回らず申し訳ありません。おっしゃる通りです」

 マルティクスが生真面目そうな顔を申し訳なさそうにしかめる。


「私なら大丈夫です。ヒルベウス様こそ、ちゃんと怪我の手当てをなさらなくては……」

 かぶりを振り、後ろに立つヒルベウスを振り返ると、とがめるような眼差しにぶつかった。


「今はまだ気が張っているせいで、疲れを感じていないだけだ。無理をするな」

 黒い瞳が、いたわりをこめて優しくなる。


「頼むから、おとなしく休んでくれ」


 請うように頼まれては、いなとは言えない。

「わかりました。では、お言葉に甘えます」


「オイノス」

 ヒルベウスが呼ぶと、天幕の中央で何やら作業していたオイノスが、「どうぞこちらへ」と案内してくれる。オイノスも今は軍装姿だ。


 オイノスが示したのは、天幕の中央に置かれたテーブルだった。上には、幾つか料理が並べられている。


「まずは食事をとってゆっくり休め。そこの寝台を使うといい。ここはわたし専用の天幕だから、遠慮はいらん。ついていてやりたいが……すまんが、まだあれこれと、するべきことが残っていてな」


 ヒルベウスが申し訳なさそうに告げる。

 その言葉に、レティシアは陣営の奥へ来るまでの道を思い出す。


 すれ違うどの兵士達も、ヒルベウスに恭しく頭を下げ、道を譲っていた。軍での地位の高さを象徴している。


「お忙しいヒルベウス様をお引き留めして、申し訳ありません。私なら、一人で大丈夫です」


「エポナ。レティシア殿の無事も確認できたし、我々も失礼しよう。我々がいては、ゆっくり休めまい」

「はい、兄様。レティシア様、どうぞ、ごゆっくり休んでくださいね」

 マルティクスがエポナを促して出て行き、次いで、オイノスを従えたヒルベウスが、天幕を出て行こうとする。


「できるだけ、早く戻ってこられるように努力する。何かあれば、近くの兵士を捕まえて、わたしの名を出すといい。……安心しろ。ここはローマ軍の最奥だ。敵は、ねずみ一匹入り込めん」


「……ありがとうございます」

 レティシアを安心させようと言葉を尽くしてくれるヒルベウスの気遣いに、自然と口元が緩む。


「あ、では、マントをお返ししなくては……」

 ヒルベウスに借りた、将校の地位を表す紅色のマントを、まだ巻いたままだ。

 外そうとすると、手を掴んで止められた。


「駄目だ。マントは外すな。……その、着替えまで気が回らなくてな。すまないが、カルヌントゥムに戻るまでは、その服で我慢してもらなくてはならん。男物のトゥニカならあるんだが……。気が利かず、申し訳ない」


「そんな、とんでもありません。別に私は男物でも……」

 言いかけると、ヒルベウスに、ものすごく不機嫌な顔でにらまれた。


「足を出して無防備な姿を、他の男の目にさらせるか」


 思わず口をついて出たといった様子で告げたヒルベウスが、

「あ、いや……」

 と、言葉を濁す。その顔がわずかに赤いように見えたのは、気のせいだろうか。


「とにかく、マントがなくても支障はない。そのままつけていろ」


 マントの下にはゲルキンにつけられた噛み後がある。レティシアはありがたく厚意を受け取ることにした。


「では、ありがたくお借りいたします」

 マントの前を掻き合わせて礼を言うと、ようやくヒルベウスの表情が緩む。


「ああ、そうしてくれ。……では、また後ほど」

 ヒルベウスの手が優しく髪をすべる。


 大きく温かな手の感触に、心がほどけていくような感覚を感じたのも、ほんの一瞬。

 今度こそ、ヒルベウスがオイノスと共に天幕を出て行く。


 軍装姿の凛々りりしい後ろ姿を見送ったレティシアは、ヒルベウスの手が離れるのを反射的に寂しいと感じた自分の心に狼狽うろたえた。


 レティシアを助ける為に、ヒルベウスはどれほどの無茶をしてくれたのか。おそらく、今も、その後始末に行くのだろう。


 ……それなのに、ヒルベウスにずっとそばにいてほしいと願ってしまうなんて。我ながら、どうかしている。


 きっと、ゲルキンに囚われた時に染みついた恐怖が、まだ抜けていないのだろう。

 寒くもないのにぶるりと身体が震え、マントを掻き合わせた手に力がこもる。


 ヒルベウスの言う通り、少し休んだ方がいいのかもしれない。

 食事は、まだ湯気が立っていて温かそうだ。レティシアはありがたくいただくことにした。

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