第10章 飛び込んできた窮鳥 1
「待っ……!」
呼び止めてどうしようというのか。告げる言葉を何一つ持たないというのに。
それでもなお、引き寄せられるようにヒルベウスを追いかける。
足がもつれる。まるで汚泥をかき分けて進んでいるようだ。
ヒルベウスは、決して振り返らない。広い背中から、燃えるような怒りと拒絶が立ち上っている。
廊下を通り過ぎたヒルベウスが玄関扉を乱暴に開けて出て行く。
大きな音を立てて扉が閉まり、ヒルベウスの姿が見えなくなる。
無我夢中で扉を開け、外へ飛び出す。夕闇が迫る大通りは、家路を急ぐ人々がまばらに通り過ぎるばかりだ。
探さずともヒルベウスの後ろ姿を瞬時に見つけ出す。だが、足が動かない。
どんどん遠ざかる後ろ姿が、不意に歪んだ。
追いかけたい。けれど、恐怖に囚われて、どうしても体が動かない。
もし、もう一度ヒルベウスに拒絶されたら、心が粉々に砕け散ってしまうだろう。
父を亡くした時の母はこんな気持ちだったのだろうかと、ぼんやりと思う。こんな絶望を味わい続けるくらいなら、冥府に落ちた方が、いっそ楽かもしれない。
「俺が、釈明してくる」
不意に後ろから肩を掴まれて、ゆっくり振り返った。
服を乱し、殴られた口の端に血を
「……誤解されたのは俺の責だ。あいつが素直に俺の言葉に耳を傾けるとは思えないが、お前が行くよりはましだろう。時間はかかっても必ず誤解を解いてくる。それまで、中に入って待っていろ」
思いがけない言葉に、頭が追いつかない。
ヒルベウスが釈明を聞き入れるとは思えない。何より、なぜタティウスがこれほど親身になってくれるのだろう。
疑問の眼差しに気づいたのか、タティウスが視線を逸らしたまま、ぶっきらぼうに告げる。
「俺がヒルベウスを憎む心は変わらない。だが、だからといって、あいつに関わる者すべてを不幸にしたいわけじゃない。いいか。もうすぐ日も暮れる。ふらふら出歩くんじゃないぞ? そこの侍女、レティシアを任せた」
最後の台詞はいつの間にか後ろへ来ていたモイアに言い、タティウスはヒルベウスを追って駆けていく。
「わたくし、ヒルベウス様をお止めしようとしたのですが……、申し訳ありません……」
決壊した川のように、涙が
「レティシア様……」
モイアが遠慮がちに名前を呼ぶ。と。
「お助けくださいましっ!」
声と同時に、突然、横から勢いよく抱きつかれて、心底驚く。目元を
無我夢中で縋りついた相手が、泣いているとは思わなかったのだろう、視線が合った娘が、驚きに目を見開く。
が、整った顔立ちが、すぐに切羽詰まった
「絹を
「ちょっ、あなた……っ」
驚いたモイアが娘を引き
「待って、モイア」
「助けて」という言葉が、医者としてのレティシアを刺激する。
「怪我をしているわ」
レティシアに縋りつく右腕に、何かで
だが、何より目を引いたのは、細い首にかけられた黄金の
「怪我などに構っている場合では……っ」
「何か事情があるのですね? とにかく、こちらへ。治療しながらでも話はできます。私は医者です。あなたの力になります」
不安そうに大通りを
もしかしたら、今にも壊れそうな心を守る為の逃避かもしれない。患者を診ている時は、一人の女ではなく、医者なのだから。
「私はマルコマンニ族の族長マルボドゥウスの娘、エポナと申します」
レティシアに手を引かれながら、気ぜわしく娘が名乗る。
思いがけない名を聞き、レティシアは思わずまじまじと娘を見返した。
金の髪に青い瞳は、確かにゲルマン人の特徴そのままだ。
大部族マルコマンニ族の、しかも族長の娘が、なぜカルヌントゥムにいるのか。
疑問をぶつけるより早く、エポナは幼さの残る顔立ちに悲壮な表情を浮かべて言い募る。
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