番外編:薄紅色の守護女神 3


 紅色のマントをまとったレティシアの姿は、即座に見つかった。足に怪我を負った兵士の前にひざまずき、手慣れた様子で手当てをしている。


 ヒルベウスは兵士達の注目を集めるのもかまわず、レティシアに駆け寄った。


「レティシア!」

 華奢きゃしゃな身体を抱き上げると、腕の中のレティシアが驚きの声を上げた。手からこぼれ落ちた包帯が、ころころと地面を転がる。


「ヒルベウス様⁉」

「ここで何をしている⁉」

 声に責める響きが混じるのを抑えられない。


 無人の天幕を見た時、どれほど肝が冷えたことか。

 昨日、カルヌントゥムで見た光景――駆け込んだイルクレスの診療所で、椅子が蹴倒され、レティシアの姿が消えていた恐怖を思い出し、身体に震えが走ったほどだ。


 無事な姿を見た途端、抑えつけていた不安が爆発して怒りに変わる。


「天幕で休んでおくように言ったはずだぞ⁉」

「す、すみません……っ」

 恐縮しきった声を聞いた途端、怒りは霧消する。代わりに胸に湧いたのは深い安堵だ。


「その……。広い天幕に一人きりになると、どうにも落ち着かなくて……。眠れそうになくて、天幕を出て歩いていたら、イルクレスさんに会って……」

 レティシアの栗色の瞳が、不安そうに揺れる。


「私から頼み込んで、お手伝いをさせてもらったんです。……勝手なことをして、申し訳ありません」

 しゅん、とうつむいたレティシアの視線の先にいたのは、平伏してヒルベウスを見上げていた若い男の医師だ。昨日は、顔を合わせる機会がなかったが、この男がイルクレスに違いない。


 ヒルベウスと目が合った途端、イルクレスは額を地面にこすりつけんばかりに、頭を下げる。

 イルクレスはヒルベウスと変わらぬ年だ。予想以上に若い男であることに、一瞬、不快感を覚える。が、奥歯をんで抑え込んだ。


「お前が、イルクレスか。……タティウスの縁者だという」

 それでも、声が低くなるのは抑えられない。


 平伏したままのイルクレスが、びくりと肩を震わせ、さらに身を縮める。

「このたびのレティシア様のことは……。診療所に手伝いに来ていただいたばかりに、とんでもない目に遭わせてしまい……。この罰は、いかようにもお受けいたします」


「ヒルベウス様! イルクレスさんは全く悪くないんです! 私が勝手にお手伝いを申し出て……! お願いです、罰でしたら私に……っ」

 震え声でびるイルクレスと、庇おうと腕の中で必死に言い募るレティシアに、溜息をつく。

 まだ何も言っていないのに、これでは悪者のようではないか。


「安心しろ。罰を与えようなどとは、考えておらん。イルクレス、従軍医師としてのお前の評判は、わたしの耳にも届いている。腕がよく、骨惜しみせず働く医師だとな。……今回の従軍も、レティシアのためだろう?」


「は、はい……。兵士ではないわたしには、この程度しかできませんので……」

 イルクレスが顔を上げ、ヒルベウスの腕に横抱きされたレティシアを、まぶしげに見上げる。


「あのっ、下ろしてください」

 レティシアが居心地悪そうに身じろぎする。が、ヒルベウスは無視して腕に力を込めた。


「もう、手伝いはらんだろう? レティシアには休息が必要だ。返してもらうぞ」

「は、はい。それはもちろん……」

 イルクレスが何度も頷く。


「指揮官殿。その方は、一体どなたなんですか?」

 代わって口を開いたのは、ついさっきまでレティシアに手当てを受けていた兵士だ。軍装を見るに、どうやら百人隊長らしい。

 百人隊長は、ぼうっとほうけた顔でレティシアを見上げている。


「さっきまで怪我の痛みで呻いていたのに、すごいべっぴんさんが優しく励まして、手当てをしてくれて……。おれは楽園にでも迷い込んだんですかね?」

 あけすけな百人隊長の言葉に苦笑する。


 確かに、戦場で女性の、しかも若く美しい医師に手当てをしてもらった兵士など、この百人隊長が初めてだろう。


 見回せば、他の兵士達も夢でも見ているような顔でレティシアを見つめている。

 まるで、蟻の群れに放り込んだ一匙ひとさじの蜜だ。

 これだから軍団病院の手伝いなど、させたくなかったのだが。いつどこで不埒者ふらちものが現れるか、わかったものではない。


 ヒルベウスは心の中だけで吐息する。

 ふと悪戯いたずら心が湧いて、下ろしてもらえず、困り切っているレティシアの額に口づけた。

 驚いたレティシアが小さく悲鳴を上げる。


「――彼女は、わたしの守護女神だ」

 おお、と周りの兵士達からどよめきが上がる。


「女神の加護がついた方が指揮官ならば……。我々の勝利は、約束されたも同然でございますな」

 百人隊長のレティシアを見上げる眼差しは、崇拝に近い。

 当のレティシアといえば、あまりのことに驚きで声も出ないらしい。真っ赤な顔で、あえぐように、口をぱくぱくさせている。


「女神は休息を御所望だ。加護はもう、十分に行き渡っただろう? 返してもらうぞ」

 一方的に告げ、きびすを返す。

 背後で兵士達が感極まったように声を洩らし、


「俺、あの方に優しく声をかけてもらったぜ」

「俺なんか、手ずから薬を塗ってくださって……」

「ありがたい、ありがたい」

 とざわめいているのを無視して、天幕を出る。


 出た途端、

「な、なんてことを……っ! 私は女神などではありません! 今すぐ戻って訂正してください!」

 顔を真っ赤にしたレティシアに、思いきり叱られた。


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