世界

逢瀬 Ⅰ

 少年と少女の麗しい影は咲き誇る紅薔薇が落とす濃い影に紛れていた。彼らはまるで恋人のように固く抱き合い、唇を重ねている。正午から一つの刻を過ぎた午後、約束の場で落ち合い、語り合う。二人の逢瀬はいつもくちづけから始まっていた。 

 咲き誇った花の下で重ねられていた唇がゆっくりと、互いの名残を惜しみつつ離れる。小鳥のついばみめいたあどけない接吻の後も、二人の抱擁は続いた。

 しばしの後、少女は少年のしなやかな若木の背から腕を離す。いかにも名残惜しげに黒い瞳を潤ませながら。引き締まった肩に顔を埋め、母猫に乳を強請る仔猫さながらに額を擦りつけて。

 春風に吹かれて散った幾つかの花弁が、二人の罪に降り注ぐ。だが彼らの目に映るのは互いの姿ばかりで、血の色をした花には一瞥すらも投げかけない。

 少女は高い位置にある、大好きな少年の顔を一心に仰いだ。いつ見ても、何度見ても美しい。これ以上に麗しい者などこの世界に存在するはずがない。神ですらも彼の美貌には敵うまい。満開の花々すらも、彼を前にすれば色褪せる。

 少女の視線に気づいた少年は、幼さが残ってはいるが秀麗な面立ちをほころばせた。木漏れ日を反射して純金の髪は煌めき、翠緑玉エメラルドの瞳は透徹な光を放つ。大好きな人の微笑みにつられて、少女は紅くふっくらとした唇で弧を描き、向かい合う少年に絡めた腕に力を込め、呼びかけた。

 兄上、と。


 宮殿があった。嫋やかで繊細な貴婦人ではなくて、さながら鍛え上げられた武人のような。高い城壁に囲まれたそれは軽やかさには欠けるが優雅であり重厚で、侵しがたい威光を放っている。細やかな娘の指によって刺繍が施された衣装と、武骨な鍛冶屋によって鍛え上げられた甲冑には、それぞれの美しさがあるものなのだ。

 いささか厳めしくすらある王宮の威容は歴代の主が、彼らの住居のある側面――要塞としての機能と利便性を追求した結果だった。

 数多もの国が興り、滅んではまた興り、争い合っていた大陸中部北方。かつての支配者たる亡きティーラ帝国や万年雪を戴く山々に遮られた南方では蛮族と蔑まれていたこの地の民草は、決して風雅を解せぬ者ばかりではない。騒乱と災禍渦巻く北方を天賦の知略であって纏め上げ、単一のルオーゼ王国の成立を宣言した建国王やその父祖もまた然り。

 端々に刻まれた古代の英雄譚を再現した彫刻は、額に汗して鑿を振るった石工の名が失われても残り続ける。

 手の込んだ装飾は、宮殿で暮らす者たちの目を十分に愉しませている。とりわけ、王の私的な空間――王や彼の子女、妃たちが生活する内宮。王に縁のある者を除けば、決して許可なく立ち入ることはできない中庭の、計算された美しさは、垣間見た人々の口の端に幾度となく上がっている。

 堅牢な王宮の奥深く。壮麗ではあるが正式な伴侶たる王妃やその子のための宮と比するには及ばない、愛妾のための一画で、ダーシアは双子の弟に先んじて母の胎から引きずり出された。十一年前の春に。大陸中部北方を広く支配するルオーゼ王国の、三代目の王グィドバールの娘として。賤民と蔑まれ、「黒き者たち」や「彷徨さまよう者たち」とも呼ばれ、遊芸によって身を立てる少数民族出身の母を持つ庶子として。

「ダーシア」

 癖のない長い髪を掻き分け露わにした巻貝の耳殻を密やかな吐息でくすぐる少年――世嗣の王子エルゼイアルの、二歳年下の異腹の妹として。 

「兄上。会いたかった、です」

 耳朶を舐られ噛みつかれ、舌先でむき出しの項のか細い曲線をなぞられると、ダーシアの脚は用をなさなくなる。身体の芯が崩れてどこかに流れて、兄の支え無しには立っていられなくなってしまうのだ。

 背格好同様にすらりとした、しかし剣胼胝のために硬い指先に弄られると、ダーシアは蜂蜜になる。どろどろに蕩けた、粘ついた欲求に――兄に触られたい。 

「僕もだ」

 白い左手はまろみを帯びた臀部から肌理細やかな内腿に移っている。右の手は、姫君が纏うに相応しい質の良い上衣の隙間に差し込まれ、絹にも勝る皮膚を暴いていた。父を同じくする兄妹ならば決して立ち入ってはならぬはずの禁域を。 

 ほんのしばしの間とはいえ移り気な王の寵愛をその蠱惑的な肉体に受け胤を宿した母の血ゆえか、年の割に発育の良いふくらみが他者の体温に包まれる。既知の悦びのうねりを予感して閉ざされた薄い目蓋は、しかしすぐに異変によってこじ開けられた。

「あにうえ?」

 弛緩した脚の間に潜む未成熟な蕾を守る淡い繁みが、露出した真皮を擦ったのだろう。薔薇の花弁のように重なり合うたっぷりとした裳裾から引き抜かれた手を見つめる少年の眼差しは口惜しさで揺らいでいた。

「お怪我、なさってたんですか?」

「……これぐらい、どうってことない。剣を握ってればこんなのはいつものことだ」

「でも、」

 王位継承権の与えられぬ女子であるダーシアや、病弱ゆえに一年の大半を寝台の上に枯れ木同然の四肢を投げ出して過ごす双子の弟ヴィードとは対照的に、次代の王たるエルゼイアルに課された責務は重みを増していくばかり。賤民の血と容姿を――白い肌に映える青や緑の虹彩と、先王が征服したかつての大帝国の旧領たる西部を除いては金や栗色の髪を持つルオーゼ人にはありえぬ、黒い髪と瞳と褐色の肌。その特徴を持つために、式典からも除外されるダーシアの、権利から見放されたがゆえの自由はエルゼイアルにはほんの僅かにしか与えられていないのだ。

「そんな顔はするな。僕は泣いてるダーシアではなくて、楽しそうに笑ってるダーシアに会いに来たんだ」

 曽祖父が建て祖父が版図を広げた王国を統治するに相応しい支配者になるために、エルゼイアルはダーシアには難解さを想像することすらできぬ種々の学問を修めている。兄曰く「聞いていると眠くなる。特に剣技の後だと」神学に始まり、母たる王妃の滅んだ故国の二つの言葉――現在も王国西部では日常会話に用いられる現代語と、詩作や学問のための遺物と化した古語に終わる重圧。かつて兄に熱心に教えられた文字すらも、習得の半ばで放棄したために、己が名すら綴れも判読もできぬダーシアにとっては――判読できるのは兄の名だけだ――励む意味も価値も到底見出せぬ労苦は大変な重荷だろう。

 だがエルゼイアルは、蒲柳の質であるらしい生母に向けるものと同量の愛情をダーシアに向けてくれている。

「それほどこの傷が気になるのなら、」

 深く鮮やかな緑に揶揄いの光が宿る。大理石の肌の上で踊る木漏れ日が、春風にたなびく純金の毛髪が眩かった。日陰に属する暗い色彩を宿す自分とは正反対の、光に、あらゆる才に愛された兄が。

「お前が舐めればいい」 

 淡く開いた唇に差し込まれた指が柔らかな口腔に侵入する。ざらつく砂塵と汗の酸味に躊躇うことは許されなかった。互いの苦痛を舌でもって労わるのもまた、いつしか習慣になっていた暗黙の了解だったから。艶やかな大輪の陰に潜む棘でダーシアが傷を負えば、エルゼイアルがそうしたように。

「舌を出せ。絡めろ」

 凍てついた湖面が弾く真冬の陽光の、時に人間の目を貫き盲に至らしめる冷厳な光輝を思わせる容姿に相応しい声が紡ぐのは、少女を従わせるには十分な威厳だった。

「犬みたいに――なんて言ってもお前は分からないだろうけど、僕がいいと言うまでやれ」

 喉奥を刺激する指先に、衣服の上から未発達な実りを弄ぶもう片方の指先に喚起された悦びの雫には苦痛が混じっていて苦いだろう。しかしすっきりと切れ上がった目を細め、妹の垂れ下がった目元を舐る少年は、薄く整った口元に確かな満足を湛えていた。  

「お前は可愛いな。黒い髪も、瞳も。僕たちとは違う肌も何もかも」

 僕の妹。たった一人の、大切な……。

 与えられる刺激が、降り注ぐ愛情が、少女の息を止めた。あまりに甘美な囁きに、呼吸すら忘れて兄に魅入られてしまったのだ。

「う、そ。……あにうえの、ほうが、」

 ダーシアは教えられずとも分かっていた。自分や双子の弟や自分たちをその腹から生み出した母は、異母兄やその母である絶世の美貌を謳われる皇女に敵うものなど持っていないのだと。血筋も頭脳も容貌も、何もかもで劣るのだと。

『あんなにお美しい王妃さまがいらっしゃるのに、あのような下賤の女に、なぜ?』

 吐き出した心情を運悪く母に握られたために、女の証であり宝たる長い髪を切り落とされ、顔を潰され衣服を剥かれた上で宮殿から追放された女官は真実を指摘していた。だから彼女は母の怒りを被ったのだ。

 ダーシアがそっくりそのまま受け継いだ母の妖艶な面差しは、王の寵を射止めはしたが己が元に縫い止めるには至らなかった程度のもので、エルゼイアルとその母妃の尊いまでの麗姿と同じ秤に乗せることすらおこがましい。

「きれい、です。わ、わたしなんかより、ずっと」

 心からの讃嘆と陶酔を己が卑小な世界を照らす光に捧げた少女が受け取ったのは叱責だった。

「僕はまだ止めろなんて言ってないだろう。もう一度やり直しだ。今度は一度目より丹念にしろ」

「……あにうえの、いじわ、」

 細やかな反抗は、押し付けられた唇に、差し込まれた舌に押し戻された。内側を蹂躙する他者に、己を絡める。口蓋と歯列をくすぐる赤い蛇に吸い付く。酸欠のためにか傾いだ肉体は、頼もしく慕わしい腕に抱き留められ、柔らかな芝生が繁茂する大地に押し付けられた。

 言葉なく口内に忍び込んだ兄の一部にしゃぶりつく。舌の付け根が、開かされた顎が気怠い疲労を訴えても、奉仕を中断するなど考えもできなかった。

「……やっぱりお前は可愛いな」

 己の体液に塗れた指に齎される幸福に満たされたかったから。言葉と肉体を交えて触れ合う自分たちが共有できる、瞬きに等しい速さで過ぎ去る時間の後に迫りくる別離の侘しさに耐えるために。

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