渇望 Ⅰ
母の女官アマルティナは、母の長く豊かな髪をそれは見事に結い上げる。ある時は母の動きを損なわぬように簡素に、だが王妃たる気品を漂わせながら。またある時は、高雅に纏めた髪を花や宝石で飾り……。
エルゼイアルは母の着飾った姿を見たことはあっても、着飾る過程は知らないのだ。だのに妹の髪を結って銀梅花を飾ってやろうなど、無謀が過ぎた。
編み目の大きさもまばらな三つ編みを解す。癖のない黒髪は滑らかで、掬うごとに指の間からさらさらと零れていった。艶やかに背を覆う漆黒を撫で、褐色の耳で白い花を挟む。
「……ありがとうございます」
濃い睫毛の影が落ちるまろやかな頬は薔薇の紅を載せていて愛らしい。同様に色づいた紅薔薇の蕾は、恥じらいと喜びを湛えて潤んでいる。漆黒の瞳も。
「これ、花嫁さんの髪に飾るお花だって、ほんとですか?」
「ああ。母上の、ティーラではそうだな」
エルゼイアルの腕の中に飛び込み全てを委ねてきた妹は、肉体こそは成熟の萌しを刻み女として花開きつつあるが、まだ十一の少女に過ぎない。異母妹よりも更に幼い、十にも満たなかった結婚当時の母もまた、婚礼の折にはこの花を髪に挿したのだろうか。
「じゃあわたし、今からあにうえの……」
月も星もない夜の双眸が強請る。少年はふっくらとした唇に己の唇を重ね、続く言葉を遮った。
髪に花を飾るだけでは夫婦にはなれない。神の前で永遠の愛を誓い、それが認められて初めて男女は伴侶になる。城下の下町で跳ねまわる幼子でさえ知悉しているだろう習わしで妹の幻想を打ち砕くのは躊躇われた。
「ダーシア。残念だが、ここはルオーゼだから。な?」
離した唇を耳朶に押し当てると、腕の中の肢体が慄いた。
「……そっかあ。そういえばそうですね」
いかにも無念そうに呟く妹は、父や自分の寵を受けようとその身を絹の衣服や装飾品で飾り立てる宮廷の女官や貴婦人たちよりも、何倍も無垢で可愛らしい。だからエルゼイアルは、胸の奥の蟠りを己が裡のみに留めていた。この庭園で妹と出会ってから、ずっと。
――なんてお美しいのでしょう。殿下の面差しはまことに高貴でいらっしゃいますのね。
少年が記憶している最初の音は、今はもういない女の感嘆の溜息だった。母でも、まして父でもない、エルゼイアルに乳を与えるために召し上げられた中流の貴族の夫人。
「ああ、わたしの殿下。今日も本当に麗しくていらっしゃる」
さして美しくもなく、血筋にも夫の権勢にも恵まれなかった彼女は、宮中で孤立していた。
「なんぞ土と家畜の悪臭がすると思って来てみれば……そなたが原因か。鄙びた田舎から出てきたばかりでは致し方あるまいが、我らが皇女殿下にはくれぐれも近づくでないぞ。ザーナリアン殿下は蒲柳の性だ。そなたの鄙の臭気に中てられ、体調を崩されては大事だからな」
母の女官アマルティナなどは、従順に面を伏せた乳母に、たびたび嘲笑とも忠告ともつかない痛罵を浴びせかけていた。アマルティナは母の名誉を保つためには、母とエルゼイアル以外のどんな人間にも容赦も慈悲も垂れない。
自分が生まれたばかりの赤子だった頃。王の寝室に乗り込み、賤民出の妾と戯れていた父に、
「……王よ。そなたにはその下賤の女がお似合いだが、その売女はわたくしの殿下が住まう宮中を飾るに値しない。留め置けばこの城の主のたるそなたの野卑が際立つばかりだから、疾く摘まみ出して野犬にでもくれてやった方が賢明だ。その女よりかは、路傍の野の花の方が幾分か上等だろう」
詰め寄って讒言を突き付けた女を、一体誰が止められるのだろう。王妃の女官が振るう忠誠と銘打たれた剣の鋭さを憂う人物は、心労のためにか食事すら喉を通らなくなり痩せ衰えるばかりの彼女に帰郷を促した。
殿下も既に乳離れして久しく、貴女の手を必要とすることも少なくなった。貴女にはこの宮殿ではなく、懐かしい御夫君と愛しい御子息に囲まれながら心身を癒す暇こそが必要なのではないか、と。エルゼイアルも全く同意見であった。
「お前は僕に良く尽くしてくれた。褒美は望むだけくれてやるから」
この鬱屈した怠惰と無垢な狂乱に治められた王城の他には帰る場所を持たない自分とは違い、乳母には彼女の帰還を待ち望む安らかな場所がある。
「わたしは褒美など欲しくない。……どうか、そんな冷たいことはもうおっしゃらないで。どうかわたしをあなたの側に置いてくださいませ」
「そうか」
なぜこれほどまでに乳母が申し出を跳ね除けるのか。成人し息子をも得た女がなぜ少女のように怯え涙するのか、理解しかねた。乳母の強情が苛立たしくすらあった。
「……悪かった」
湿った啜り泣きの煩わしさから逃れたいがために吐き出した虚実は、女にとっては真実として響いたらしい。
母の折れんばかりのそれとは全く違う、なよやかだがどこかぶよついた腕に捕らえられる。居室に二人きりでいるとき、乳母はたびたび思いつめた――熱情を孕んだ目で自分を見つめる。そして異変を悟って身構える幼子の頤を持ち上げるのだ。
「……殿下。わたしの殿下。どうかずっと……」
押し付けられた唇は冷え、塩辛かった。何度強いられてもこれには慣れない。呼吸はままならなくなり、頭は濃い靄で覆われる。かつてははちきれんばかりに膨らんでいただろう胸を押し限界を訴えると、エルゼイアルはようやく解放された。
「ああ、殿下。申し訳ございません。ですが私は殿下を、初めてお会いした時から……」
空気を求めて咳き込む己の背を撫でる女の掌の熱が、普段以上に疎ましかった。この汗ばみじっとりと湿った体温に比すれば、母の女官の冷ややかだが奥底に確かな慈愛を秘めた眼差しは清冽だった。
伏せた双眸の奥で、二人の女が見つめ合っている。己によく似た顔立ちの少女と、厳めしく凝り固まった面を慈愛で緩めた年嵩の女が。十四の終わりに自分を産んだ母は、まだ少女と評してもよい見目をしている。
『おかあさま』
母を喪った少女が、白いものが混じる黒髪を纏め上げた女に微笑む。すると年嵩の女は、この上なく幸福そうに微笑んだ。
『わたくしの皇女殿下』
エルゼイアルが思い描く親子の像とは、少女の穢れない額にくちづける女で表されるものであり、
「なぜですか? これは殿下の物でございますのに」
とうに乳離れは済ませた少年の口に、己の舌や萎んだ乳房を押し込む女の狂態ではありえなかった。だからエルゼイアルは、乳母を己が側から排除すると決めたのだ。
父の許に使いをやり許しを得て、乳母の里帰りの手筈を整える。彼女に知られぬように密やかに。そして全てが整い次第すぐに乳母に別離を突きつければ、あの双のくすんだ白の脂肪と、怒りと不快感のままにその先端を噛みしめると広がる血の味と怖気を震わせる囁きから解放されるはずだった。ふと夜半に目を覚ますと必ずかち合った、ひたと自分の寝姿を見つめいたらしき獣じみた眼光からも。己の肢体を弄るやわやわとした不気味な手からも。
「なぜです!? わたしはあなたの側を離れては生きていけないのに、ああ……」
訪れた宮下がりの日。唐突に己の前に現れた夫と我が子に乳母は恐慌し戦慄き、髪を振り乱し泣き叫んだが、
「殿下の御前だ! 控えろ!」
夫に頬を打擲され、控えていた侍従や衛兵に取り押さえられては、手弱女の力ではいかんともしがたい。
木霊していた啼泣の騒乱もじきに静まる。設えは豪奢だが冷え冷えとした謁見の間で対面する乳母の夫は、平凡だが善良そうな男だった。
「どうか妻のご無礼をお許しください。……夫たる私が、こうなる前に迎えに来てやるべきだったのでしょう。ですから、罰はどうかこの不甲斐ない夫に、」
「そなたには落ち度はないが、」
なぜ乳母は、この穏やかな夫と我が子を顧みず、ただ一心にエルゼイアルのみを見つめ続けたのか。まったくもって理解できなかった。
「あれの心身が回復するまで、そなたらの息子と共に労わってやるがいい。……それが、僕がお前に課す罰だ」
跪く男の足元を濡らした水滴は、彼の眦から垂れたものだった。
「……御寛恕、ありがたく拝受いたします」
肩を震わせながら退室した男の足音は侘しげだった。寂しい反響は、広間のほど近くの客人のための部屋が設けられた一画に吸い込まれていった。
厭わしい女は明日を待たずとも己が前から永遠に去った。だのに少年の喉に痞えた氷は未だ融けきらず、薄く小さな胸は変わらずに鈍重に締め付けられたまま。
――それでも、明日になれば。
莫とした懼れを抱きながら常よりは早く、常よりも安らかな眠りに就いた少年の目蓋をこじ開けたのは、聞きなれた疎ましい呟きだった。
「殿下。わたしの殿下――」
跳び起きた幼子を寝台に押し付け、のしかかる女の口元は淫蕩に吊り上がっている。
「“お前の夫と息子の許に帰るがよい”この御言葉を賜った時は、心臓が張り裂けましたわ。ですが、ようやく分かったのです」
「……」
「夫と子供がいるからいけないのでしょう? あの者たちさえいなければ、殿下はわたしを側に置いてくださるのでしょう?」
採光窓から差し込む満月に照らされた女の衣服は、夜の薄闇に覆われていてもなお赤黒い飛沫が飛び散っていることが明らかだった。
「ですからわたし、始末して参りましたの」
鉄錆の臭気は、衣服同様に鮮血が飛び散った頬と唇が近づくごとに噎せ返らんばかりに強くなる。
「わたしの宝石。わたしの翠緑玉。あなたを得るためなら、あんな石ころ二つなんてちっとも惜しくありません――愛しています、わたしの殿下」
横たわった三日月を思わせる亀裂から這い出た厚い舌が、怯え戸惑う小さな舌を絡め取る。敵わぬと悟ってもなお反撃を試みて振り上げられた幼子の四肢は、成人した女のそれに抑えられ封じられた。歯列をなぞり、口腔を蹂躙する柔肉の滑りが、互いの口元から溢れた唾液が入り混じる粘りがおぞましかった。
乾いた紅蓮がこびり付いた指先が、絹の上衣の前を乱す。細い顎から首筋を舐り、曝け出された白い胸板を這い降りた蛞蝓はやがて――生温かさに身震いせずにはいられなかった。
獣の唸り声すら及ばぬほど浅ましく喘ぎながら腰をくねらせる女は、既に肌着すらも脱ぎ捨てている。
擦りつけられる重みを幼い少年の上から取り除いたのは、凍った一喝だった。
「……貴様!」
アマルティナはエルゼイアルが母への朝の挨拶に訪れぬことを訝しみ、この場に足を運んだのだろう。
「この狼藉、貴様の薄汚い命程度では贖いきれぬと心得よ」
慌てふためく女の髪を掴み寝台から引きずり、皮膚が擦れ血を滲ませても衛兵の元まで引いていった女の目元は、侮蔑と憤怒で引き攣っていた。腸がはみ出た豚の死体とて、あれよりは丁寧に運ばれるだろう。
乳母は国王の命により処刑された。夫と息子を刺し殺した大罪と、決して公にはされぬもう一つの罪を背負って。
彼女は最後までエルゼイアルを呼んでいたらしいが――
「ご安心くださいませ、殿下。あれは明朝首を斬りおとされましたゆえ」
にこやかに語られた末路は、制止を振り切って見分した腐り蛆が群がる首級は少年に何物をも齎さなかった。己を侮辱した女の無様な最期に対する歓喜も、腐臭に覚えて然るべき嘔吐感も。
背後で轟いた嫌悪に釣られ振り返った先には、自分と同じ金髪の男が立っていた。
「……気味が悪い」
血の気が引いた顔を震える指先で覆った父の淡青の瞳は、ほんの十日前までは女の頭部だった球形の腐肉ではなくエルゼイアルを捉えていた。目の当たりにした醜悪な死に泣き喚くどころか眉を顰めもしない幼子を。
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