皇女 Ⅱ
「驚いただろう?」
仄かに血の色を透かす唇は固く引き結ばれていてもこの上なく美しく、伏せられた横顔も変わらずに端整だった。氷を思わせる輝きもそのままだが、仰ぐ異母兄の面はどこか脆い。
硬い氷も地に叩き付けてしまえば砕け散ってしまう。その簡明な事実にダーシアは初めて思い至った。己にとっては神に等しい完璧な兄は、愚かで弱い自分のたったの二つしか年長にすぎぬ少年であるのだと。
ダーシアが兄のぬくもりと愛情を欲したように、エルゼイアルもまた欲するものがあるのだろう。だが彼がそれを求め、思慕と憧憬を捧げる人物は――
「母上は、ここをティーラの皇城だと思ってらっしゃるんだ。アマルティナを亡き皇后だと思い込んで、亡き皇帝の帰りをずっと待っている」
懐剣で喉を突いて自害した己が母の血塗れの亡骸を発見してから、精神の刻を止めてしまっていた。
自身の幸福が何一つ損なわれていなかった時分を彷徨う母の世界には、自分など影すらも存在していない。
押し殺されながら吐露された兄の苦痛には血が滲んでいた。涙ではなく、滴る鮮血が。
「……分かっているんだ。当時の母上は十にも満たない幼子だった。母親の死に耐えきれず、心を壊されても仕方がない。まして傷を癒すどころか父母を弔う暇すら与えられず、言葉も通じない城に連れてこられたのだ。母上にとっては、幼いままでおられた方が幸福なのだろう。だけど、」
絡めた白と褐色。硬い指に力が入るたびに、細い指の骨は軋み、堪えがたい痛みが奔る。だがダーシアは指を解こうとは思わなかった。兄の悲哀を受け止めたいと欲したのは、他ならぬ自分なのだから。
嘆く少年に悟られてはならぬ、と少女はそっとふっくらと赤い花弁を噛みしめる。か細い苦悶の喘ぎは噛み殺してしまえばほとんど吐息同然だった。
転んで膝を擦りむけば。あるいは母や女官に愚鈍だと嘲笑されれば。ダーシアは兄が抱える重荷と同じ秤に載せることすらできない細事であっても、堪えきれずに涙を流して慰めを求めてしまう。自分とは違って、その感情をめったに秀麗な面に乗せぬ異母兄が滾る胸の裡を垣間見せるのは恐らくは自分だけだろう。また、そうであってほしかった。
「兄上」
ダーシアがエルゼイアル以外の人間を求めぬように、自分もまた彼にとっての唯一でありたかった。兄が愛するのは自分だけではないのだとは先程魂が締め付けられるほどに知らされたばかりだが。
そっと握り返した手にぶつけられる、渾身の力と激情が愛おしい。
「ならば何故、父上は母上を捨て置かれる!? 式典の折には着飾らせて人前に連れ出しもするが、あれでは母上は王冠と同じだ! 父上を飾り、権威を誇示し、反乱を抑えるためだけに拵えられた……」
寵愛は篤いが地位低い愛妾の腹から出た末子でありながら、天賦の知略でもって異母兄や異母姉たちの夫を退け、ついに互いに相争う同族たちをも平定し支配下に置いた建国王。父に勝るとも劣らぬ才でもって、かつての宗主国を征服した二代目の王。征服王とも大王とも呼びならわされる父や祖父と比較すれば、現王グィドバールはその手腕も君主としての器も凡庸である。この若き国の民全てが暗黙の裡に認める事実の苦味を最も舐らされているのは、渦中の人物たる王に他ならない。
幼少期は病がちな身体に悩まされ、長じた後も季節が移り変わるごとに必ず一度は床に臥す現王。兵を率い指揮するどころか、鬨の声に耳を傾け土埃に目を眇めた経験すらも無い彼の治世が盤石に保たれているのは、崩御し十余年の歳月を経た現在でも彼を支配する亡き先の王の功績に拠るものが大きい。
大王は己に歯向かう全てを虐殺した。玉座を奪い取らんと謀反を目論んだ実の弟を。兵を募って父の暴虐に抗おうと反乱を企てた、己が長子を。未だ恐れと共に語られる、残虐極まりない刑罰でもって、王国に奉げる贄とした。
あらゆる贅沢を甘受できる地位に生まれながら神と神への祈りの静謐を愛し出家し、迷える民の救済に奔走していた大王の妹もまた、彼の犠牲者の列に加えられるべきだろう。民衆に聖女と讃えられた彼女は、兄の圧制を恨む暴徒の凶刃に倒れていた。
だが大王は娘を死産してすぐに産褥により死した妃の、父母を除けば唯一その言葉に耳を傾けた人物である妹の喪失にすら揺るがず、永久に語り継がれるであろう偉業を成し遂げたのだ。
大陸中部北方の東――ルースと呼ばれる地の民が、文字すら持たず小さな部族国家に分かれていた頃、文明の優越でもって自分たち「蛮族」を圧倒し統治し、洗練された文化によって魅了した偉大なる侵略者の裔を滅ぼした。爛熟した果実が爆ぜ腐り堕ちる寸前で、世に二つとない果実をもぎとったのだ。それはまさしく偉業であるが、
「父上は母上を利用するばかりで、心を壊された母上を顧みようともしない! 何故母上だけが、あのように苦しまねばならないんだ!?」
輝かしい功績の終止符を飾るべく、己から父母を、故郷を奪った
少女はそっと薄い目蓋を落とす。眼裏に蘇る遠い日の兄は、父に対して怒りを募らせていた。ダーシアに姫君としての教育を何一つ施さぬまま放置する父に。
『――僕だけを疎んじていると思っていたが、父上は自身の子全てに関心がないらしいな。だから……』
世嗣の王子たるエルゼイアルと現王の不和もまた、王宮の堅牢な城壁をも超えて広く民に知れ渡っていた。
父が子に名を授ける慣例に反して、孫息子に「太陽神に愛された」と、自分たちの力強くも残酷なる古き主、陽光を司る青年神エルスに、滅ぼした帝国の主神になぞらえた名を与えた先の王。当時は赤子だった異母兄を抱きかかえ、廷臣たちの前でこれぞ我が後継者だと宣言した父の背の影で燻らせた現王の鬱屈はいかほどのものなのか。
父と息子の根深い確執は、陽の光すら届かぬ深い森の樹々のごとく彼らの間に立ちはだかり、おどろに繁茂するいばらのごとく彼らに絡んでいる。
「“母に似たその顔で、私を煩わせるな”――僕たちの父親はこんなことを言う人間なんだ。……ほんとうに、情けない」
痛罵とも哀哭ともつかない叫びは吹き荒ぶ清風に攫われ、庭園の静寂に溶け消えた。
「そのくせ王子として、次代の王として勉学に励めとだけは、他人の口を介して伝えてくる。――御自分は、母上以外の女と寝室で戯れてばかりなのにな!」
物心がつき、己が母の異常とその理由を拒絶の痛苦と共に突き付けられてから抱え込んでいただろう憤懣が、不意に飛び出てしまったのだろう。
――御自分は、母上以外の女と寝室で戯れてばかりなのにな!
吐き出されたのは、愛妾たる母だけでなく不義の子であるダーシアの心臓をも抉り、血を溢れさせる嘲りである。
「……悪かった。お前を貶めるつもりはなかったんだ」
「兄上のお気持ちは分かります」
しかし少女の心や瞳は穏やかに凪いだままだった。
「わたしの母上はその……“ばいた”で、いるだけで王妃さまを傷つける。分かって、ますから」
エルゼイアルにとっては、己の母は紛れもない敵だろう。先程の言葉は、彼の母を想う心が生み出したのだ。ダーシアだって、兄を害しかねない人物には敵意の一つや二つぐらい抱くし、いっそいなくなってほしいとすら願うだろう。
だから、そんなに悲しそうな顔しないでください。
しなやかな背に腕を巻きつけ、引き締まった肢体にもたれかかって囁いても、少年はなおも自身の軽率を責めたままだった。齢に見合わぬ発育を示す乳房を引き締まった胸板に擦りつけ、上目遣いに翠緑玉の双眸を覗き込んでも、なお。
「……すまない。僕は、本当に、」
兄の哀しみを取り除くことすらできない自分が歯がゆかった。拭いきれぬ愁いを帯びた寂しい声をこれ以上耳にするなら、この身を彼が腰に佩いた剣で千々に引き裂かれた方がまだ良い。謝罪など欲しくない。
「わたしは兄上のことが大好きです」
異母兄が纏う芳しい匂いを吸い込むと脳裏には霧が厚く垂れ込め、酒杯を干してもいないのに四肢から力が抜ける。いつものことではあるが、今この瞬間に押し寄せる波は常よりももっと激しく、狂おしかった。
「たとえ世界中の人が兄上を嫌いになっても、ずっと」
疼く奥底からこみ上げる欲求が命じるままに兄の唇と己のそれを重ねる。ただ触れるだけのくちづけだけでは足らなかった。整った薄い唇を小さな歯で挟み、濡れた舌で真珠の列をなぞる。誘った赤い肉に吸い付いていると、睫毛と睫毛が絡むまでに身を引き寄せられた。角度を変えて互いの口腔を弄る舌の蠢きと呼応するかのごとく背筋を撫でる指先に、褐色の肢体の全てが戦慄く。
衣服越しにふくらみの頂を摘ままれるのは、今までにない戯れであった。齎される刺激に息ができなくなったのに、もっとしてほしい。素肌に擦りつけられる布地のこそばゆさは喜悦となり、渇望となる。
大気の欠乏と快楽に脳髄が蕩けた。黒曜の双眸から零れた生理的な涙は、細い顎に伝う唾液の痕を清める。聞こえるのは脈打つ鼓動と淫猥な水音だけだった。木の葉の騒めきも小鳥の囀りも、何もかもが遠い。
隔てられていた世界が戻って来たのは、少女の意識が大いなるうねりに押し流されてから幾ばくの時が経過した後だったのか。
「ダーシア」
緩やかな盛り上がりから滑らかな絹が剥ぎ取られる。震える丘の頂点で息づく薔薇の蕾の一方は摘み取られ、少女の喉からは女の吐息が漏れた。二度目の奔流に全てを委ねていると、再び抱きしめられてしまって。
風雨から幼い我が子を守るべく広げられた親鳥の翼を連想させる優しい抱擁と、火照った肌に沁みる他者の体温は心地よい。
啄むようなくちづけと、
「お前だけだ、ダーシア」
耳朶をくすぐる甘い甘い呟きも。乾いた喉に染み入る塩水のように、次が手に入ればもっと欲しくなる。もはや、あるいは出会った瞬間から、ダーシアは兄がいなければ生きていけないのだ。
「お前だけが、僕を見てくれている」
兄上が望むのなら、わたしは食事も、睡眠すらも摂らずに兄上を見つめ続ける。
途切れ途切れに、歓喜に咽びながら紡いだおぞましい恋情は、透明な滴りに紛れて大地に落ち異形の愛慕を受け取るべき少年には届かなかった。
生い茂る草を褥に横たわる少女の眦から塩辛い滴が零れ落ちる。煌めく珠を舐め取る少年の面には確かな高揚と熱狂があった。
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