皇女 Ⅰ
滴る緑の芳気を孕んで爽やかな一陣が結わずに背に垂らされた黒髪を揺らす。少女が好む紅薔薇は、過ぎ去った春と足並みをそろえるかのごとく盛りを終えていた。秋の開花までしばし生い茂る葉に守られながらの眠りに就いていた花の代わりに、庭園を彩るのは大輪の赤ではなく五枚の花弁の白。今はもう亡い帝国では美の女神に捧げられ、花嫁の頭上を飾っていた、繊細な銀細工さながらの銀梅花だった。
長く多い
薫風が庭木の葉を擦り、騒めかせる。樹木の清涼な香りに負けじと、金銀の匂い
光と角度の加減によって青から緑に変化する絹織物の黒を彩る色彩の艶やかさを、後翅の赤い斑が引き立てている。この世の全てを――人間も、人間が従うべき掟すらも――創造した唯一神の手による芸術品は、この北方の地で人間の血と苦痛を求める神に贄が捧げられていた時分は、人間の魂の化身だと信じられていたらしい。
ルオーゼ王国の前身となる古代王国が残酷なる太陽神を捨て、南方から伝来した神の許に帰依してからは子供の枕元で唄って聞かせるお伽噺に堕ちた伝承ではあるが、少女は心中で問いかけずにはいられなかった。あなたは誰で、どこに行くの。
一心に糧を啜る昆虫からの応えは得られなかったが、もとより応えを欲していたわけでもないので構わない。ダーシアが欲していたのは、兄が訪れるまでの無聊を慰め紛らわせる戯れであったから。
「兄上?」
愛しい人の気配が、がさごそと木立を掻き分ける音が退屈を追い払ったからには羽ばたく芸術など必要ない。
少女はぽってりとした唇を、目尻が垂れ下がった瞳を潤ませ、焦がれた涼しい声が轟く瞬間を待つ。待たせたな、ダーシア、と。
「ああ、ちょうちょさん! まって、にげないで!」
だが現れたのは少女の待ち人ではなく、異変を察知してか天空に舞い戻った蝶など足元にすら寄せつけぬほど麗しい、高貴で豪奢な装いの女だった。
「……いっちゃった」
肩を落とす女は万年雪に閉じ込められた蒼い睡蓮だった。永遠にこの手に届かない、凍てついたがゆえに儚き氷の華。
波打つ髪は夜すら色褪せるほどに黒く、薄い唇は紅薔薇すらも恥じ入らせ萎ませるのではないかと危惧してしまうほどに紅く、処女雪の肌は寒気を覚えるまでに白い。慎ましやかに膨らんだ胸元に飾られた大粒の青玉すら及ばぬ輝かしさに、僅かに覗く手首の繊細さに魅入られる。
彼女のすらりと儚い長身は、無遠慮に触れ、穢してはならないと見る者を躊躇わせる。同じく背丈が高いが、胸や腰や太腿に男を誘う肉が付いた母とは対極に位置する体型は、侵しがたい気品を漂わせていた。そして女は、しなやかに長く細い手足と同様に、その華奢な首の上に乗せた顔もまた完璧だった。
「あら、あなた……」
すっと眇められた涼しい切れ長の双眸には、極上の翠緑玉の煌めきすら曇らせる緑が嵌めこまれている。古い神話の技芸の神の手による彫刻ではないか、と陶然としてしまう狂いのない目鼻立ちには見覚えがあった。
髪の色だけは父上と同じなんだ、と兄が零していた黄金と黒の差異を除けば、彼女は異母兄に瓜二つ――いや、エルゼイアルこそが彼女に似たのだろう。ならば、この
王妃ザーナリアン。異母兄エルゼイアルを十三年前に、子を身籠ったのだとは俄かには信じがたい肢体から生み落とした女性。祖父王が征服したかつての大帝国の、軍神の裔とも化身とも、神そのものとも崇められていた皇統を継ぐ、この世で最も貴き女性に他ならない。
「さまようものたちのかたでしょう? ねえ、そうでしょう?」
高雅にほころんだ口元に、喉が干上がった。脚は震えて、とても立っていられなくなった。異母兄はともかく、その母が――父の正妻が、夫の愛妾の娘であるダーシアの存在を快く思っているはずはない。
ダーシアは立ち去らなくてはならないのだ。
「も、もうしわけございませ、」
緩やかな、理想そのものの弧を描くすっきりとした眉が不快を訴える前に。王妃の心痛を招く前に。焦がれる少年の面差しを写し取った麗貌に拒絶される苦痛に、破れんばかりに脈打つ胸が張り裂ける前に。
「……お、おゆるしください。わたしは、」
もう二度とあなたの前に現れませんから。
しどろもどろに紡いだ謝罪は、その終いまで紡ぐことを赦されなかった。
「あなた、どうしてにげるの? わたくしはまだたいしゅつのゆるしをだしてないのに」
「え、あ、」
後ずさる脚を、冷え冷えとした眼差しが縫い止める。母であり妻である女には相応しからぬあどけない期待がちらつく双眸は、惑い怯え引き攣る少女の面にひたと当てられた。
「あなたたちはきょくげいしなんだから、わたくしのいうことをきかなきゃだめでしょう?」
頑なに過去を語ろうとしないどころか、愚かな娘との会話など煩わしいだけだと嘲る母の出身部族について、ダーシアはあまり明るくない。
かつてはティーラ帝国だった地方にいる彼らが、かの地の言語とは異なる言葉を操り、頑なに他民族との深い関わり合いを避ける民であるということは、兄から教えられた。定職に就かず移動生活を行う彷徨う者たちは、様々な芸をして人々を楽しませ、代わりに代価を受け取り糧とするということも。
「す、すみま」
自分が曲芸師と呼ばれた理由は察せられたが、慄き震える少女の背には冷たく不快な汗が流れるばかり。
「ね、このことはおとうさまにもおかあさまにもばあやにもないしょにしてあげるから、はやくなにかおもしろいことをして!」
ザーナリアンの言動はあまりにも幼く無垢だった。彼女が十四の終わりに産んだエルゼイアルよりも幼い。
喋り方のたどたどしさは、彼女が異国の姫君であり、刷り込まれたルオーゼ語ではない言語を忘れかねているからだろうと納得できもするが、
「わたくし、おとうさまのおたんじょうかいでおじいさんのきょくげいしさんがみせてくれた、くまさんのひのわくぐりがみたいわ!」
言葉を憶えたばかりの幼子そのものの所作はいかんともしがたい。蒲柳の質にしては快活な四肢は健康そのもので、乱れ戦慄が渦巻く脳裏を新たなる苦痛で切り裂いた。王妃が悪いのは、肉体ではなく……。
「お、王妃さま」
ダーシアは逃げたかった。兄が訪れる前に、彼のためにも逃げなければならないのに、足は萎えたままで力が入らない。
「あ、あの、わたしは“くまさんのひのわくぐり”なんてできないんです」
「ええっ? ほんとうに? どうして?」
この女性に足労を強いるのは畏れ多いが、ザーナリアンにこの場から立ち去ってもらわねばならなかった。ダーシアが「くまさんのひのわくぐり」どころか「くまさん」がどのようなものなのかも知悉せぬ身であることは事実であるから。
「くまさんはちゃいろでふさふさしてるのよ。とってもかわいいの。あなた、いっかいぐらいはみたことあるでしょう?」
つんと唇を尖らせた皇女の不満を宥める術はない。だが応じなければならない。彼女の美に、畏怖し従わずにはいられないのだ。
「……ちゃいろでふさふさ。ええと、これが“くまさん”ですか?」
苦し紛れに掴んで差し出したのは、整えられた庭園に稀に落ちる園丁の見落とし――一握りの枯れ草だった。
「……あなた、」
生命を謳歌する樹々すらも及ばぬ瞳を翳らせたのは、侮蔑ではなく憐憫だった。ダーシアが文字の綴り方どころか文字という概念すらも教えられていないのだと知った際の兄とそっくり同じ目つきは、確かに彼と彼女は母子なのだとダーシアを確信させる。
「ほかのさまようものたちのひとからのけものにされてるのね。だからくまさんがどんなのかもしらないんだわ。……かわいそう」
「え、あ、そ、そんなことは」
「わたくしがおかあさまやばあやにおはなしてあげるから、あなた、わたくしのそばづかえになればいいわ。そしたら、おべんきょうだってたくさん……」
とっておきの名案を思い付いたとばかりに頷く皇女の微笑みは眩く、少女は魅了されずにはいられなかった。同じ性に属しているのに、神が設けた性別という垣根すら乗り越え人々の心に滑り込み支配する麗しさに。
だが幸福な少女の笑みに酔いしれていられたのは、ほんの僅かな間だけだった。
「――母上!」
渇望していたはずの兄の、危惧と焦燥と安堵が入り混じる声が恐ろしい。
「そちらにおられたのですね。アマルティナが気を揉んで、」
ただ己が母のみに向けられていた緑が、母のそれとは異なる癖のない黒髪を見出したのか、痛みと悲しみを湛えて瞠られる。今にも張り裂けんばかりの、憔悴した面差しはそれでも秀麗だったが直視に耐えなかった。
「あなたはきんじのかたでしょう?」
玲瓏とした歓声に項垂れた少年の面はなお。
「わたくしはくまさんのひのわくぐりがみたいの。だからきょくげいしさんとくまさんをつれてきてちょうだい」
「……なりません。猛獣を貴女の御前に出すなど。火に怯えた熊が貴女を害しでもしたら、」
「そう。みせてくれないの。……あなたきらいだわ。わたくしのいうこときいてくれないから」
囁かれた幼さゆえの純真と傲慢は、母を慕う少年にとっては鋼の刃そのものだっただろう。だがエルゼイアルは激痛を堪え、母の手をそっと掴んだ。ダーシアはついに目を伏せてしまったのに。
「――戦場の陛下から、皇后陛下と皇女殿下宛の書状が届いたのです。久方ぶりの父君からのお便りですよ」
「ほんとうに?」
ダーシアは知っていた。異母兄の母方の祖父母――ティーラ帝国最後の皇帝は、祖父である先の王指揮下の王国軍に斃され戦死しているのだと。夫の訃報と帝国の崩壊に悲嘆にくれた彼の年若い二番目の后は、自刃して夫の後を追ったのだと。
「ええ」
「おかあさまはどこ? おとうさまからのおてがみをよむときは、ふたりいっしょにってきめてるんだから、おかあさまがいないと」
たっぷりと垂れる裾から形の良い脚を覗かせながら、もはやこの世にはいないはずの母の許に駆ける
「さっきはきらいだなんていってごめんなさいね。わたくし、あなたのことすきよ。おとうさまからのおてがみをもってきてくれたもの」
――あなたのことすきよ。
純粋な感謝が手向けられた瞬間の少年の表情は拒絶された数瞬前のものよりも侘しかった。
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