逢瀬 Ⅲ

 汗ばんだ胸元に張り付いて離れない兄の手は、もはや己の一部だった。癖のない黒髪を背に敷き、生い茂る若草に手足を投げ出す少女はたっぷりとした裳裾の――薔薇の蕾のごとき衣服を纏っている。ほころぶ寸前で地に落ちた大輪の花弁を乱されると、実り豊かな大地を思わせる褐色が露出した。滑らかな地面で咲き誇る、二つの紅色も。

 素肌をくすぐる金糸の髪に、鎖骨を舐る舌に、身体の奥底が疼いた。自分をこの世で最も貴重な宝石さながらに扱う手つきにも。

「くすぐった、」

 異母兄のそれとは対照的な、ぽってりと厚みのある唇を噛みしめても、喘ぎは口の端から零れる。エルゼイアルはダーシアがこの声を出すといつも「可愛い」と褒めてくれる。兄の絶世の美貌と比較すれば取るに足らない容貌の自分のどこが「可愛い」のかダーシアは理解できない。けれども兄が喜んでくれるのは嬉しかった。

 ダーシアが己の外見で気に入る箇所など、一つもなかった。黒い髪も瞳も、兄とはかけ離れた肌の色も、だらしなく垂れ下がった目元も、何もかも。共通の父ではなく互いの母親に酷似したために、容姿は欠片ほども似つかぬ異母兄との外貌に現れた唯一の繋がり――父親譲りであろう、巻貝に似た耳の形を除けば。

「……ねえ、兄上」

 吸われ、転がされ、揉みしだかれるふくらみは、一月ほど前はもっと慎ましい曲線を描いていたはずだ。しかしダーシアがエルゼイアルの躊躇いを取り去って以来、一応は持ち主であるはずのダーシアも戸惑う発達を遂げている。このままではいずれ兄の掌には収まらなくなるかもしれない。

「そ、そこをそんなにしてると、兄上はたのしいんですか?」

 上擦り、震える声で問いかける。

「ああ。男は皆そうだぞ」

「ふうん。ふし、ぎです……ね」

 下腹部から喉元までせり上がる悦びを噛み殺し、抑えながら。

「わたしは、こうされてると頭がぼうっとなって……なにも考えられなくなる」

 ――兄上とずっとこうしていたいということ以外は。

 叶えられぬ望みは甘い吐息と擦れ合う葉の騒めきにかき消されたが、見つめ合う少女と少年の鼓膜を揺るがしはした。

 整った歯列が硬く持ち上がった柘榴の粒を挟む。大きく開かされた脚の合間に佇む花弁は、すらりとしなやかな手で覆われた。開き切らぬ花を包み、捏ねくりまわす異母兄の微笑は麗しかった。直視すれば光を失うとの忠告すらも忘れ、仰ぎ縋らずにはいられない真冬の太陽のように。

 緩やかに落とされた目蓋の隙間からは歓喜の熱い滴が滲む。ついに崩れ落ちた少女は、しかし羞恥を燃え上がらせる異変に目を開く。

 太腿が、湿っていた。まだまばらな下生えに守られた亀裂から滴る透明な粘りによって。

 十一にもなって、それも兄の前で粗相してしまうなんて。蒼ざめ血の気が引いた肢体は、やがて侮蔑と呆れへの恐れと怯えに戦慄いた。濡れた脚を固く閉ざし、恥じらいの源泉を緑の双眸から隠したくとも隠しきれない。

「あ、あにうえ?」

 肌理細やかな太腿を這い回る硬い指は、途切れ途切れに吐き出された驚愕も、あえかな抵抗すらもあしらう。

「な、なにを……」

 べたつきを舐め清める滑りが齎す悦びに悶えたのは肉体だけではなかった。

 幾らダーシアがエルゼイアルの望みのままに扱われることを望んでいるとしても、彼を冒涜する行為は直ちにやめてほしい。

「や、やめてください! ……そんな、きたな、」 

 密やかな吐息が吐きかけられるたびに跳ねる肢体はやはりダーシアの意志には従わないが、この上なく秀麗な面差しが自分の恥部のほど近くに在るのも耐えられない。

「とにかく、もう、」

 零れ落ちた大粒の涙は、黄金色の後頭部にも降り注いだ。はっと上げられた面に刻まれているのは憂慮だった。

「そんなに厭か?」

「……いや、です! ……あにうえがよごれる……」

 泣きじゃくる少女の、むき出しの肩が慕わしい熱に――兄の腕に包まれる。

「怖がらせて悪かったな」

「……わたしはもっと普通のがいいです。もうあんなことしないでください」

 上目づかいに接吻と同意を強請ったが、潤んだ黒水晶と交錯した翠緑玉の眼差しはすぐに降ろされた。    

「……それは約束できないが、」

「あにうえのばか!」   

 実際に馬鹿なのは自分で、兄は賢いのだと理解しているが、叫ばずにはいられなかった。          

「ひ、ひどいです。わたしは兄上のことを考えて言ってるのに!」

「……分かった。分かったから、もう機嫌を、」

「兄上が約束してくださるまで直しません!」

 まだ初潮も迎えぬ少女には相応しからぬ艶やかな血色を昇らせた頬が、年相応に膨らむ。

「こっちを向いてくれ、ダーシア」

「……」

「ダーシア」

 ぷんとむくれた面の紅潮した花脣に押し付けられたのは啄むようなくちづけだった。

「……いいもの見せてやるから」

「……ほんとうですか?」

 含み笑いとともに差し出された手を取り、指を絡める。幼き日からずっと、そうしていたように。

 降り注ぐ紅色の雨を浴びながら、太陽の許に戻る。兄が目指す場所を悟った瞬間、少女の眼裏に過ったのはいつかの驕慢に吊り上がった口元だった。

「あの、ここ、王妃さまの……」

「心配するな。今日は母上のお加減が芳しくなくて、あれは母上に付きっ切りだから」

 紅薔薇の繁みを境にしてダーシアの本来の居場所に付随する庭園と別れる、王妃のための庭園。決して近寄ってはならぬと威嚇されて以来、頑なに避けていた垣根すらも、焦がれる少年の導きがあれば越えられる。

 またあの恐ろしい女官に遭遇してしまったら、と足音を殺しながら歩んだ先に待っていたのは青々とたゆたう水の上で繰り広げられる幽玄――蒼い睡蓮の群れだった。

 月光の清純な白や、淡い黄色。あるいは艶やかな赤や可憐な桃色ならば、ダーシアは既に知っていた。かろうじて愛妾のための庭に属する池の畔で、兄と並んで神秘が膨らみ散るまでの経過を愛でるのも楽しみの一つであったから。

 だが、淡い青紫の、冬空のような蒼に感嘆の溜息を漏らすのは初めてだった。

「綺麗だろう?」

「――はい! とっても、きれい」

 花弁の元は淡黄色であるのに、花弁の先は優しい青に染まった幻想的な一輪に伸ばした手を掴む少年の指先は強張っている。

「近づきすぎるなよ。母上は一昨日、これを摘もうとして池に落ちて御風邪を召された」

「……そうなんですか」

 一端は弾けた歓声は瞬く間に沈んでいった。

「王妃さまの枕元にあれを飾ればきっと喜んでくださったでしょうに、残念ですね」

「……そうだな」

 俯いた少女の頭を撫でる少年の面に過った愁いは色濃い。しかし翳りは輝く漆黒にも、水面にも映ることなく泡沫となった。

 春の風にしては冷ややかな一陣が吹き荒れ、凪いだ湖面に漣を立てる。

「この花は、大陸西部の南方の――ダーシアと同じような、褐色の肌と黒髪に黒い目の人間が多くいる国から来た。母上の国が栄華を誇っていた頃、物好きな皇帝が蒐集癖にかまけて取り寄せた株の子孫だそうだ」 

 少女の小さな世界を取り囲む城壁をも超えた遙か彼方に据えられた目は、多くのものを与えられ、吸収し、己がものとしてきたのだろう。

「遠い国からお花を? 途中で枯れたりしないんですか?」

「当時ティーラ帝国の版図は最大を誇っていて――大陸中部と西部の北方のほとんどは彼の国の領土だった。だから昔はさほど遠い国ではなかったし、交易路も整備されていたからな。現在は放棄され、荒れ果てるばかりだと聞くが……それでも世界は広がっている」

 ――わたしは兄に相応しい存在ではない。だけどいつまでも一緒にいたい。もう彼がいない世界には戻りたくない。できれば怖い人がだれもいない世界で、兄と二人きりで暮らしたい。

 甘く切ない、異端の願望が芽吹く。禁断の実を共に齧り、その味わいを愉しんだ異母兄以外の人間に露見すればおぞましいと唾棄される希求が。

「……あにうえ」

「――駄目だ。流石にここでは、な」

 引き締まった背に回そうとした腕はやんわりと制された。愛おしい体温が押し当てられたのは、不満に尖らせた唇ではなく額だった。だがそれでも少女は幸福だった。


 ◆


 ある種の巻貝の分泌液から得られる深紫は「皇帝の紫」と称される。その色は、類のない大帝国を築き爛熟と栄華を極めたものの、時の流れと共に弱体化してついに亡国と成り果てたティーラ帝国では、皇族のみが許されていた。皇帝の権威の象徴の一つだったのだ。

 皇帝のもう一つの象徴が、有翼の獅子が描かれたタペストリーが、女の寝姿を見守っている。深紫の布地は、光の加減によって金の千花模様が浮かび上がる見事なもの。だが織物の贅で織りなされた煌めきすらも、微睡む女の麗姿に隷属していた。処女雪と見紛わんばかりの柔肌を引き立てるためだけに、その類まれな美貌を包む名誉を赦された装束を、乾いた手が暴く。

 淡く開いた鮮血の唇が湛える気品に忠誠を、

「お召し代えをなさいましょう」

「……ゆめをみていたの」

 黒々とした見事な睫毛に囲まれた深く鮮やかな緑が宿す無垢に、堪えきれぬ愛を捧げながら。

「まあ、それはどのような?」

「ちょうちょになったおひめさまのゆめよ。おかあさまがとくいな……ひさしぶりにききたいわ」 

「それもようございますが、もうすぐ殿下がいらっしゃいますから、」

 珠の汗を啜った肌着を剥ぎ取り、華奢で儚い長身を清める。

「どうしてだめなの? いまききたいのに」

 むずがる少女を慈愛に満ちた母の囁きで悟し、新たな衣装を着付ける。優雅に波打つ艶やかな黒を結い上げ茉莉花ジャスミンの香油を塗り、折れんばかりに細い首に青玉サファイアと真珠の首飾りを巻きつける。選び抜かれた宝玉も主の双眸には及ばない。月の雫とも海に住まう女精の涙とも湛えられる白珠すらも、穢れない胸元に置けばくすんでしまう。

 太陽神であり軍神の裔と崇められた血と地位に相応しく正装した主は、天上から降臨した女神であった。だが女は、主の美が世に二つとないものではないと知悉している。

「……いいわ。じぶんでうたうから」

 扉の向こうで支度の終わりの合図を待っているであろう少年の、至上の美が苦痛と悲嘆に歪む様を思うと、薄い胸の奥が軋んだ。幾度となく目の当たりにしてきた光景であるのに。

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