逢瀬 Ⅱ
引き締まった背に回した腕に、腰に回した脚に力を込める。嫡出ではないが王の娘であるダーシアですら袖を通せぬ、貝染めの紫を握り締めて。噎せ返る芳しい、大好きな兄の匂いに酔いしれ、奥底を疼かせながら。
既に硬い掌は柔らかな臀部と、心身同様にふやけた口内が柔軟な舌に嬲られるたびにびくびくと跳ねる背筋に添えられていた。形良い頤を濡らし、緩やかながら盛り上がった胸元まで垂れる透明な粘りを掬った指が、平野と小さな丘の境をなぞった。
「あ、」
早熟な胸が成長の萌しを実らせ始めてから、ダーシアが怯えないか、嫌がりはしないかと躊躇いがちに始められた愛撫。あまりのもどかしさに、
『もっと、さわってください。……おねがい』
自分のそれよりも大きな手を掴み、幼いふくらみに引き寄せずにはいられなかった戯れはもはや戯れではなくなっていた。傷みやすい果実にそうするようにそっと、だが荒々しく加えられる愛情を、熟しきらぬ肢体は受け止めきれずに零してしまう。
上の歯列の裏を、脚の付け根の鋭敏な箇所をなぞられる。
「や、」
喜びに悶える肉体とは裏腹に、疲弊した舌が吐き出したのは拒絶とも受け止められかねない溜息だった。
「どうした? 疲れたか?」
至上の翠緑玉の双眸を飾るために、天上に坐す神が自らの黄金の玉座を削り引き延ばし大理石の肌に植え付けたのかと陶然としてしまう、長く輝かしい睫毛が伏せられる。
「いえ、そんな……」
秀麗な面に憂慮を刻ませた、一瞬前の己の愚挙が憎らしかった。
「無理はするな。お前は女だし、僕のように剣や乗馬で身体を鍛えてもいないんだから、僕よりも疲れやすくて当然だ」
「でも、」
わたしは、もっとこうしていたい。
充血した唇から割って出た不満も。
ダーシアはダーシアのものではない。ダーシアが己を捧げたのはかつてこの北方の地を支配していた偽りの神でも、山々を越えた南方の地から伝来した唯一神でもなく、神と見紛う類まれな美貌を翳らせた少年に他ならない。ダーシアはエルゼイアルのものなのだから、彼の意志には絶対に従わなければならない。なのに自分を気遣ってくれた兄を煩わせるなんて。これでは、兄に見放されてしまっても仕方がない。
「……ごめんなさい、あにうえ」
もしも兄に嫌われてしまったら、自分は悲しくて死んでしまうだろう。高鳴っていた胸を締め付ける仮定への恐怖はたちまち奔流となり、黒曜の瞳から溢れだす。
「わたし、ははうえにはいつもいつも“馬鹿”って怒鳴られるし、あにうえにおしえていただいたこと、まだちゃんとできないけど、でも、」
未だ直されていない胸元もそのままに狼狽える少年に縋りつく。胸板に柔らかな果実を擦りつけると、癖のない黒髪をあやすように撫でられた。
「いきなりどうした? 確かにお前はその、多少は物を知らないかもしれないが、僕の妹であることに変わりはないだろう?」
黒々とした生え際から三日月型の眉まで額のあらゆる場所に押し当てられた薄い唇のぬくもりが強張った心身を融かす。
「あにうえ……大好き」
「僕もだよ。僕の可愛い妹」
期待に打ち震えながら焦がれた喜びはすぐに与えられた。触れるだけのくちづけの愛おしい塩辛さを惜しむ少女は、腋の下に回された腕に気づかなかったのだ。
驚愕を漏らす暇すら与えられず抱きかかえられた少女は、
「これなら、楽だろう?」
背で感じる体温に閉ざしていた目蓋を開く。項をくすぐる吐息から、伸びやかで形良い脚をまたぎ挟む恰好で抱きかかえられているのだと知らされた。
「お前があんまり可愛い顔をするから、もっと触りたくなった」
兄の美しい面を堪能できないのは残念だが、閉じることを赦されぬ太腿を、乱された前を弄る手がそれを補ってくれるだろう。
ダーシアがダーシアになったのは――異母兄エルゼイアルと出会ったのは、母や女官からの嘲り一つで容易に揺らぐ、曖昧な自我が確立し始めた時分だった。
当時、生まれ落ちた頃から虚弱な体質に悩まされていた双子の弟ヴィードは、熱病を患いとうとう寝台から離れられぬ重病人となったばかり。
ある日は咳が少なかった、またある日は顔色が優れない、と弟の体調次第で浮き沈みする母の機嫌は、
「ははうえ。ヴィード、きょうもおねつがあるんですか?」
「そんなこと、見れば分かるでしょう? ……それともなあに? もしかしてお前、弟が苦しむ姿を笑いに来たの!?」
「ち、ちが、」
恐れを抑えて久方ぶりに母に話しかけた朝は最悪で、丸い頬にぶつけられた、じんと痺れひりつく怒りは涙では静められない灼熱だった。
「だったら出て行きなさい! どこへでも――わたくしの目に入らないところにね!」
磨かれた爪に刻まれた一条から滴る痛みもそのままに、身がすくむ激怒から逃れるために叱咤した幼い脚。愛妾とその子のために与えられた――言い換えれば、赦された――宮から彷徨い出た幼子は、やがて進むべき場所を見失い整えられた庭園の一画に縫い止められる。
右を向いても左を向いても、怯え潤んだ眼差しが捉えるのは慣れ親しんでいるはずなのに覚えのない樹々ばかり。常ならば少女を微笑ませる芳しい香気を漂わせる
均衡を崩し傾いだ身体は大地に叩き付けられたが、温かな風に誘われ舞い散り降り積もった花弁は少女を優しく受け止めてくれた。母よりも、よほど。
疲弊した四肢ごと立ち上がる気力と意志を投げ出した幼子の意識は、心地よい安楽の翼に誘われるが、夢の世界に羽ばたけはしなかった。
「目を覚ませ、淫売の娘」
氷など比べ物にならぬ凍てついた侮蔑に微睡みを引き裂かれたために。
――いんばい、ってなんだろう?
教えられずともその大まかな意図は察せられる――大方、苛立った母から叩き付けられる「ぐず」や「のろま」や「役立たず」の仲間なのだろう――単語の響きは冷厳だった。べたつく頬に張り付いた一房を引かれ、見知らぬ女の糾弾の眼差しに直面させられる恐怖も。
「お前がここに来たのはあの売女の差し金か? あれはつくづく芯から考えが卑しいな。あのつまらぬ男に脚を開いて取り入るのは勝手だが、塵溜めで男を漁る売女が咥えこむに相応しい男は他にもいたであろうに」
先の王に征服された旧ティーラ帝国の民に多い黒髪をきっちりと纏め上げた女の、雪白の肌を引き立てる赤い唇が噛みしめられる。
「遊芸人風情が、我らが皇女殿下と同じ宮殿で暮らすなど。亡き皇帝陛下と皇后陛下への、何よりわたくしの殿下への侮辱だ。――母親に瓜二つのその顔、この目に入れるのも忌々しい」
疾く、去ね。そしてあのあばずれに身の程を教えてもらうがいい。
慈悲すら窺える微笑みには鋭利な驕慢が生えていた。艶やかな大輪で惑わせ誘った指先を引き裂く、いばらの棘が。
小さな顎を掴み持ち上げていた乾いた手がか細い首に回される。
「良いか。二度とわたくしの皇女殿下に近づくでないぞ」
「その子にお前も弁えていない身の程を言い聞かせるのはそれぐらいに留めておくのが賢明だぞ。これ以上はお前の厚顔と無知が曝け出されるばかりだからな」
しかし幼くも怜悧な声が震える少女から死への畏れを遠ざけた。
「エルゼイアル殿下」
陽光よりも眩い金色の髪の、大人びた物言いの少年。彼の威厳と気品、そして端麗な容姿は、泣きじゃくる幼子から涙を忘れさせ、倨傲な女を跪かせた。
「殿下の御心を煩わせた軽率、申し開きのしようもございません」
「ああ、全くだな」
へたり込んだ少女を守るように膝を折った女の眼前に立ちはだかった少年の、外衣の裾をそっと掴む。
「不敬罪に処されたいのなら、もっと別の方法を採るのが確実だぞ。例えば、廷臣の面前で父上に唾するとか、な」
「恐れながら申し上げますが、我が生命はザーナリアン殿下に捧げておりますゆえ、殿下の父君にくれてやるわけにはゆきませぬ。たとえ殿下のご命令であろうと」
「そうか。確かに、父上はお前の忠誠と献身に値せぬやもしれぬが、」
名匠に掘り上げられた至上の大理石の指が、乾き黒ずんだ紅をなぞる。
「王の娘の身を損ねた罪をお前はどのように購う?」
頭を垂れる女の首筋に腰に佩いていた剣を突き付ける少年が湛える微笑は、残酷であるがゆえに魂が凍えるほど麗しかった。
「ち、ちがいます。……これは、ははうえが、」
ダーシアがなけなしの体温を求めて少年に縋りつけば、彼の決断を引き留める形になる。
「――真か?」
「ええ。わたくしには覚えがありませぬ」
芽生えかけた思慕を宿した漆黒で見つめると、やがて張りつめていた美貌は緩んだ。
「そうか。ならばお前は、無礼へのせめてもの償いとしてこの子の手当てをしてやれ。それで全てを無かったことにしてやろう」
「殿下の寛大な処置、ありがたく拝受いたします」
主の命を遂行すべく迅速に、しかし焦りのあまり粗野に堕ちもせず、あくまで優雅に立ち上がった女官の長身は、たちまち樹々に紛れていった。
「……やっと煩いのがいなくなったな。じきに戻ってはくるが」
血の気が引いた頬に添えられた少年の指先から染み入るのは、違えようのない労わりだった。
「お前の母上は酷い事をするんだな。痕が残ったらどうするつもりなんだ」
――
忌々しげに憤りを吐き捨てる少年の母は、あの厳めしい女官が心酔する皇女は、女官たちが憧憬を募らせながら称賛する絶世の佳人は、慈愛に満ちた女性なのだろう。初めて顔を合わせた異母兄のように。
「僕の妹。お前、名前は? あれはお前たちの話題が出るだけでも機嫌を損ねるから、僕はお前を何て呼べばいいのか知らされていないんだ」
「……ダーシア」
弟が寝台の住人となって以来囁かれることすらなかった、もはや忘れかけていた響き。褐色の肌に隠れた管に流るる王の血統を除けば父が唯一ダーシアに与えたものが、愛おしくなった。異母兄の涼しい声音に乗せられたから。
「ダーシア。お前は、母親から逃げてここまで来たのか?」
「……え? な、なんで、分かるんですか?」
「お前たちの宮と僕たちの宮は、父上の居室を挟んで真反対にある。――知らなかったか? だけど、随分歩いたんだろう? ……可哀そうに」
母親譲りの絶世の美貌をほころばせた少年の腕の中で初めてダーシアは安心を、幸福を知った。そして、決して手放せなくなった。
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