嗤笑 Ⅱ

「ヴィード? 起きてたの?」

 少女は設えられた寝台におずおずと歩み寄り、甲高いが小さな呟きに耳をそばだてる。

「僕が起きてたら悪いのかよ」

 清潔な布の中心で横たわっていた少年は、そうするのもやっとという風情で身を起こす。向かい合う少年と少女は、面立ちそのものは酷似しているが、瓜二つではなかった。

 少女のふっくらとした紅い花弁はしっとりと潤んでいる。けれども少年の厚みと形だけは双子の姉のものとそっくり同じ唇はかさついてしまっていた。ダーシアの薔薇の一片が張り付いたかのごとく色づく幼子らしい頬とは対照的に、ヴィードは頬だけでなく顔全体がこけ、痩せている。病の快癒を祈願して伸ばされた髪もまた、痛み艶を失ってしまっていた。櫛に絡まればぶちり、ぶちりと切れる黒く細い糸は双子の弟の生命そのものなのだ。

「……べつに、そんなこと、ないけど……」

 赤褐色の染みも皺もない敷布は輝かんばかりに白いが、ゆえに少年を蝕む病の影を色濃く浮かび上がらせる。採光窓から差し込む夏の酷暑から病身を守るために垂らされた厚い帳は、本来必要な日光すらも遮っていた。細かな織り目を潜り抜けた細い細い白金の一筋は、大気に舞う粒子を水晶さながらに煌めかせる。

 まるで雪のようだ。ダーシアは昨年の冬至に異母兄のぬくもりに抱かれながら仰いだ、灰色の天から舞い落ちる泡沫の冷たさに目元を緩めた。

 一部の恥ずかしがりか洒落者。あるいは寒がりを残しては、鋭い枝に纏う葉や花を脱ぎ捨て裸体となった樹々。死にも似た長い眠りに就いた植物の天上のない寝室となった庭園を彩る白銀の、足元から染み入る清冽な寒気に抱くのは疎ましさではなく愛おしさだ。

 眼裏に焼き付いた黄金の毛髪は幾重にも折り重なった厚い雲間からの陽光など及びもつかぬほど輝いていた。控えめな、だが確かな喜びを滲ませた微笑も。そして細められた瞳は、木漏れ日を透かす若葉よりも鮮やかな緑で……。

 淡く開いた唇を撫でると儚い歓びが蘇った。別れたばかりなのに、もう兄に会いたくてたまらない。

 早く明日になってほしい。滅多に病に悩まされぬゆえに明日は必ず己が許に訪れるのだと信じる少女の夢想は、真冬よりも凍てついた詰りに遮られた。

「――おまえ、なに笑ってるんだ?」

「……え? あ、ご、ごめんね」

 ここが弟の部屋であると、弟の前であると失念していた。肉体は濃密な死への怯えと苦痛が漂う一室にあるのに、魂は逢瀬の目印の場である紅薔薇の下を彷徨っていた。

「今日の散歩・・でね、きれいなお花を見つけたの。だから、」

 苦し紛れに紡いだ嘘は、その全貌を露わにする前に断ち切られる。

「――何だよ、それ」

 小さな拳を握りしめ、傷つきやすい口元を噛みしめて双子の姉をねめつける少年の目は充血していた。

「ヴィ、ヴィード?」

 拳が自分に向かって振り上げられるのだと恐れ、憤る少年から間合いを取ろうとした少女の手は、枯れ木同然の手に掴まれる。誰にも分かち合うとせずたった独りで抱え込んでいた悲嘆の一端を曝け出した兄にそうされたように。けれども加えられる力は、健康な少年の握力とは比べ物にならなかった。その弱い、あるかなしかの力でさえ、ダーシアは振りほどけない。

「おまえはいつもそうだよな」

 滑らかな甲に、怯える女官が磨いた爪を突きたてられても。薄い皮膚が破かれ鈍痛が奔り、やがて生温かな雫が滲み出ても。薄墨の裳の面紗ベールで覆われたかのような室内においても、血の色は変わらずに紅蓮であることが不思議だった。

 柔らかな肉を己が爪で刻む少年は、深淵を宿した双眸で流れ出る血潮を眺めている。目覚めたばかりの朝に。消化は易しいが味気ない乳粥の昼食を平らげた後に。ようやく訪れた眠りを破る咳とともに、幾度となく吐き出しただろう粘りとは似て異なる赤を。一切の表情が抜け落ちていて虚ろな、しかし確かな激情を宿した瞳で。

「おまえはいつも、嬉しそうに外に行くよな。ここから動けない僕への当てつけか?」

「……ちっ、違う。わたしは、そんなつもりなんて」

 怯え、縮こまっていた舌の根の呪縛を僅かながらにでも解いたのは、痛みへの恐れであった。早くここから、弟から逃げたい。そのためには弟の怒りを鎮めなければならないのだが、

「じゃあ、どんなつもりだったんだ?」

 健康な姉の言葉は、病弱な弟の苛立ちの炎を仰ぎその勢いを大きくする風となるばかりであった。

「ヴィードが考えすぎてるだけだよ。……へ、へんな言いがかりは、止めて」

「うるさい! おまえ、行きたくても外に行けない僕の気持ちを一度でも考えたことあったか!? なかっただろ!?」 

 乾いた音が、埃と拭い難い終焉の気配と病に縛められる少年の悲嘆が入り混じった大気を震わせる。

「え?」

 弟に、叩かれたのだ。理解した途端、頬が燃えた。苛烈な痺れは血の巡りに紛れて全身に広がる。恐怖に高鳴る鼓動だけが、厭に大きく響いた。堪えきれずに零れ落ちた嗚咽よりも。

「ひ、ひどいよ、ヴィード」 

 透明な滴は片側だけが悪質な草木の汁に被れたかのごとく腫れた頬を伝い落ち、手の甲をひりつかせる。

 じくじくと陰湿な疼きは、その源を兄の舌でなぞられれば瞬く間に治まるだろう。涙では拭いきれなかった乾いた血だけでなく、五本の指の合間を丹念に舐られ、舌先で突かれれば。下腹から生じた高揚のうねりはいつもダーシアを酔わせ、兄以外の全てを忘れさせてくれる。だが双子の姉と弟が向かい合うこの部屋には、どころかこの部屋が位置する一画にエルゼイアルが訪れることはない。

 縺れた糸玉を解きほぐさなければならないのに、その方法が分からない。どこから手を付けるべきかすら。

「……わたし、なんにもしてないのに、こんなことするなんて」

「――“なんにもしてない”? おまえ、よくそんなこと言えるな!」

 べたついた頬に二度目の打擲が加えられる。ありったけの気力が込められた一撃は強烈で、口内で鉄錆の味がむせ返った。漆黒の眼差しは盛り上がった嘆きによって朧になった。

 三度目の暴力がどの方向から放たれるかすらも定かでない。慄く少女は頭を抱えて蹲る。濃い睫毛を二度、三度瞬かせた後、彼女は異変を悟った。手を放されている。

 解放された手に刻まれた憤激を呆然と撫でていると、ひゅ、と鋭いが脆く濁った音が鼓膜に飛び込んできた。

「ヴィード?」

 運よく出会った大樹の陰に隠れて己を突け狙う猟師から逃れた兎よろしく、恐る恐る上げた双眸に飛び込んできたのは、咳き込む少年の骨ばった背筋だった。

「だ、大丈夫?」

 薄弱な肢体にとっては急激な興奮は猛毒か命をこそぎ落とすやすりだったのだろう。

「――触るな!」

 記憶の澱を漁って母の手つきを探り出し、躊躇いながらもじっとりと湿った背に伸ばした手は拒絶に跳ね除けられる。

「消えろよ! 役立たず!」

 ダーシアは逃げ出した。弟の望みを叶えるためではなく、自分自身のために。弟の機嫌を損ねれば更に齎されるだろう苦悶と蔓延する病苦の気配から。これ以上ここにいては自身の生命までもが蝕まれるのではと怖気づいて。

 せめて夢の中で愛しい少年に出会うために、一目散に自身の寝台に飛び込んだ。


 ◆


 涼しげに切れ上がった眦に嵌めこまれた翠緑玉は神の園に生えた樹木すらも色褪せさせるだろう。長い睫毛の影が落ちる大理石の頬は滑らかで染み一つない。

 触れても血肉のぬくもりなど伝わってこないのではないか。対峙する者を危惧させ戦慄させる氷の華の美貌に、女は見惚れた。これ以上に美しい生き物がこの世に存在するはずはない、と心を奪われた自身を恥じた。それは夢であっても変えられない事実であった。

「おねえさん」

 はちきれんばかりに膨らんだ腹部に嫋やかな腕が伸ばされる。染み入る体温は、彼女が彫像でもこの世に降臨した女神でもなく、己と同じ生きた人間であるのだとタリーヒに教えた。

「ここにあかちゃんがいるんでしょう?」

 己の夫の胤を宿した女にするにしては無垢な素振り同様に、タリーヒの下腹部を撫でる少女の微笑みもまたあどけなく純真だった。これがたどたどしいながらも己が足で歩み始める齢の幼子の母親であるなど信じられない。

「げんきなあかちゃんがうまれるといいわね。そしたらわたくし、まいにちあかちゃんとあそんであげるわ」

 花顔を縁どる黒髪は、蒼穹を閉じ込めた青玉や小粒の真珠の鎖よりも、折れんばかりに細い項の白さを引き立てる。波打つ絹がさらさらと流れるごとに漂うのは茉莉花の甘い甘い――脳髄を蕩かす濃密な危険の香り。

 天空から地上に堕ちた星と見紛う可憐な花は、時に子を育む臓器を収縮させ、中の果実が熟れ切らぬうちに排出させる。奥底で奔った激痛は幻に過ぎないが、この少女の側に留まり続ければ現実と成り得る。

 わたくしに触らないで。

 叫び出してしまいたいのに、数え切れぬ男の賛美と彼らから搾り取った財で磨き上げた肉体が指一本己が意のままにならないのが苛立たしい。

「それにしてもおおきいおなかね。もしかして、あかちゃんはひとりだけじゃなくて――」

 まろやかな曲線をなぞる指は真っ赤に熱せられた炭だった。薄布越しに感じるザーナリアンが己に焼き付く。熱せられた心が爛れる。

「こんなにふくらんで、おなかはさけたりしないの? ねえ、ちょっとみせてちょうだい」

 そしてついに素肌に押し付けられたぬくもりは、やがてすぐに奪い去られた。

「――そのような下賤の売女に触れてはなりませぬ! 尊い御身が穢れてしまいます!」

「おかあさま」

 王の上に乗っていた己の髪を鷲掴み、王の寝所から引きずり出さんとした侮辱の毒矢を傲岸な女官に、彼女の主たる皇女に射返すために、タリーヒは禁を犯したはずだった。

 王の子を身籠った己を誇示するために。絶世と名高い容姿は虚実と縷言で飾り立てられた虚実であり、己のものには及ばぬであろう顔面を焦燥で歪ませ溜飲を下げるために、与えられた宮を抜け出した。

 けれども己以外の生命を宿した重い身を叱咤した末に得たのは、粉々に砕け散った己が美への誇りだけで。

「どこの野犬と番ったのやも定かではない淫売に過ぎぬ身で、よくわたくしの皇女殿下の御前にその顔を出せたものだな。よもやお前は、お前がわたくしの皇女殿下より美しいのだと己惚れていたのか? ――憐れなものだな。賤民は鏡を見ることすらままならぬらしい」

 殺意を誘う痛罵と嘲笑につり合うものは何一つなく、

「おねえさん、じぶんのおかおをみたことがないならあのいずみをのぞくといいわ」

 水面に映る数多の男から妖艶と讃えられたはずの顔は浮腫み肥り引き攣れていて、これが自分とは俄かには認めがたかった。


 褐色の目蓋がゆるりと持ち上がり、漆黒の瞳が現れる。

 何度見ても忌々しい夢だった。久方ぶりの夜伽に控え、熟睡を妨げる咳と我が子の世話に追われ疲弊した肉体を労わらんとして見たのがあの悪夢とは。いっそ午睡などしない方がまだ安らかな心持ちで居られただろう。

 己には奉仕させるばかりで自分は腰を振ろうともしない退屈な男の寝所に参じても得られるのは気怠い徒労ばかりだ。しかし身支度を口実に、いつもあからさまにタリーヒに怯え目線すら合わせぬ娘との夕餉を免れると考えれば、幾ばくかは気が晴れる。一挙一動でタリーヒの苛立ちを招く娘など死んでしまっても構わないのに、頭の弱さに反して肉体ばかりは丈夫にできているのだからますます腹立たしい。どうしてダーシアは健康で、ヴィードは病弱なのだろう。逆であれば良かったものを。

「身支度は整われましたか?」

 娘ほどあからさまではなくとも、タリーヒと視線を交わすと顔色を蒼ざめさせる女官が、王の使いの来訪を告げる。王にとってのタリーヒは、足労と引きかえにしてまで貪らんと欲する果実ではない。だから決して近くはない王の居室の寝室まで来いと命ぜられる。

 竜が彫り込まれた青銅の板を嵌めこんだ扉など蹴破ってしまいたいが、自らの肉体を損ねる愚挙は犯さない。グィドバールは己の肉体を痛めつけてまで蔑むに値する男ではない。

「お久しゅうございます、わたくしの愛しい陛下」

 長くなるであろう夜への不満を、唾を吐きかけてやりたい衝動を抑えながら、差し出された筋張った手にくちづける。  

「して、わたくしに伝えなければならぬ大事とは?」  

 そして突き付けられた事実はおぞましいものだった。

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