嗤笑 Ⅰ

 緑滴る庭園の香気は快いが、晩夏の気だるさと忍び寄る秋の冷たさが入り混じる風は肺を蝕む。一年のほとんどを寝台に横たわり、世話役の女官や見舞いに訪れる兄や叔母の顔を見上げながら過ごした幼少期ほどではなくとも、己の身体は変わらずに頑強とは程遠い。熱気と寒気の混合の具合の如何によって容易く傾ぐ体調が、誰から受け継がれた特徴であるのかは判然としていた。

 父の姉。建国王とその妃の長子。つまりはグィドバールにとっての伯母は、幼時より急な病や吐血に悩まされ、ついに十代半ばという若さでこの世を去った。父の系譜に潜んでいた脆弱が、不運にもグィドバールに現れてしまったのだ。

 戦や国政に追われ滅多に不甲斐ない息子の許に足を運ばぬ父は、己が弱さを忌み嫌っているのではないか。

 このままでは、いずれ自分は殺されてしまうかもしれない。熱に浮かされながら焦燥に怯える幼子の涙を拭ってくれた修道女は、優しかった叔母は既に身罷って久しい。叔母に急かされれば、必ずとはいかずともほとんどは自分の病床の傍らに赴いてくれた父も。

 ――お姉様はこのお花が好きだったの。匂いを嗅ぐと、胸がすっきりするって。だからあなたもきっと気に入るわ。

 叔母がか細い指に傷を拵えながら一つ一つ棘を取って飾った白薔薇。血とも通ずる紅とは対照的な、穢れない雪の色した花弁はひんやりと滑らかだった。

『これはドリスが用意したのか?』 

 父の厳しく残虐な眼差しを僅かながらの懐旧で和らげた清純な一輪を探し求める脚は、剪定を終えたばかりの若木のほど近くで石となる。欲する花が既に枯れ、根すら掘り返されてしまっていたのだと思い返したためではなく、直視しがたい面影を見出したために。

 繁茂した樹々が落とす陰には、葉陰など及びもつかぬ艶やかな漆黒と、その漆黒すら跳ね除ける純金の輝きがあった。己と同じであるはずなのに己のそれよりも輝かしい、やや癖がある毛髪が。 

 紫紺の脚衣に覆われたすらりと伸びやかな脚と、真紅の裾からはみ出た褐色の脚が絡まり合っている。男は我が目を疑いつつも、良く知った少年と、名づけの際に抱き上げたきりだった、顔立ちすらも朧になっていた少女の戯れを盗み見た。乱れた呼吸を押し殺して。荒れ狂う心臓に奔る痛みを堪えながら。蟀谷こめかみの疼きに、悪寒に、嘔吐感に苛まれながら。上半身にぴったりと張り付き、成長途中の曲線を露わにする胴着の前から零れ落ちた、まだ青い果実を揉みしだく少年の面差しを。大粒の涙で噛みしめた唇を濡らしながらも、禁忌から逃れるどころか拒絶の素振りすら見せぬ少女の面差しを。禁断の果実を共に齧る二匹の怪物の横顔を。

 ――深く深く、角度を変えながらも何度も、貪欲に接吻しているのは、己の息子と娘だった。正妃に産ませた世嗣と、愛妾が生み落とした双子の片割れ。産んだ女は違えど紛れもなくグィドバールの子であるはずの少年と少女のくちづけはおぞましかった。行為だけでなく彼らそのものが。容姿は美しいのに、限りなく醜悪だった。陽光を浴びてぬらつくはらわたよりも。腐肉を啄む烏よりも。打ち捨てられた躯の残骸に集る蛆よりも。

 罪深い触れ合いを父が見ているとは気づかぬ娘が微笑む。

「あにうえ」 

 しなやかな筋肉を乗せた背に腕を回し、未熟だが確かなふくらみを胸板に押し付けて。

「きょうは久しぶりに“あれ”してくれませんか? ……なんだか最近、ちょっとおかしくて」

 潤んだ黒曜で更なる罪を誘った少女の身体が持ち上げられる。硝子で作られた薔薇であるかのごとく繊細に。そして彼女がそっと降ろされたのは、神を象った氷像の美貌を支えるに相応しい長く整った脚の上。敏感な芽を引き締まった腿に擦りつける悦びにのけぞる少女の、しめやかな嬌声は彼女の母のものと非常に似通っていた。

 王は脚どころか全てが石を通り越し鉛となった身を引きずり、十数年前は毎夜欠かさず味わった叫びよりも幼く澄んだ響きの源から遠ざかった。これ以上この声を浴びせかけられていると、耳から始まった腐敗が全身に及び、肉体どころか魂までもが膿み腐り、生きながら崩れ落ちてしまいかねない。


 ◆


 手足の末端から生じた活力が血の巡りに乗って集うのは、硬い掌に摩られた下腹だった。

「本当に大丈夫なのか?」

 片手でなだらかな腹部からまだ淡い繁みの生え際までを撫でる少年の口ぶりは憂慮に溢れている。けれども彼のもう片方の手が齎す感覚は甘やかなのにいっそ嗜虐的ですらあって、ダーシアは憂いを含んだ瞳でエルゼイアルに縋った。どうか、湿った息に嬲られ常よりも鋭敏になった頂きではなく、その周辺をくるくるとなぞるばかりの指先を、少しでもいいから震える先端に当ててくれと。

「ほんと、です。だから、」

「けど、なあ。お前はずっと体調が優れないのを僕に黙っていたんだろう?」

 白い指は少女にとっては非情にも小さな蕾を通り過ぎる。脇腹を撫で、くすぐられているのに、だらしなく開いた口元から漏れるのは熱病に浮かされた病人の喘ぎだけで。縦長の臍の線やその窪みを剣胼胝でなぞられると、上気した褐色の下で流れる紅い潮が沸騰した。既に濃い靄に覆われていて、思考すらままならなかった脳裏に浮かびあがる語彙は乏しく拙い。

「だ、だって、」

 兄上にそれなら数日は部屋でおとなしくしていた方がいい、なんて言われるかもしれないと思ったから。あなたに会いたかったから。

 快楽に縺れた舌は己が役目を放棄し、単純な弁明を紡ごうともしなかった。

「ほんとに、だいじょうぶ、なんです。……ただ、ちょっとだるい、だけ、で」

 大理石彫刻の指が円を描くように己の下腹部で這い回る。その一挙一動に翻弄された。この上なく美しいが同時にこの上なく残酷な、自らの信徒に裁きを下す神のごとき微笑に胸が締め付けられる。

「ダーシア」

 身体の奥の奥、女という生き物ならば生まれながらに備えた空虚の行きどまりが切なく疼いた。冷淡でありながら慈悲深い指が、俯きつつあった蕾をそっと弾く。たちまち再び擡げた木苺がやんわりと捻られると、快い甘味の中に苦味を秘めた切なさが広がった。凪いだ湖面に生じた漣のごとき喜びは、辛うじて保たれていた理性を押し流す。

 迸る絶叫はくちづけで封じられ、差し込まれた舌によって押し戻された。ふやけた口腔を蹂躙する肉の招きに応じ、弛緩した己のそれを絡める。やがて離された二つの唇を繋ぐ透明な糸は、陽光に照らされ銀色に輝いた。露の珠をぶら下げた蜘蛛の糸さながらに粘ついた唾液は華奢な顎から滴り項を伝って胸元まで垂れている。

 少年は少女と己が入り混じった液体を掬い、

「僕はお前のそういうところは気に入らない。しなくてもいいどころかしない方が幾分かましな我慢をするところは」

 純血した頂点に塗りつけた。色のない粘りの力を借りて滑るそこを執拗に責め立てられると、言葉どころか呼吸すら忘却の彼方に流されてしまう。

 むっちりと肉付きがよい腿が、尖った爪先が――ダーシアの肉体を構成する筋肉の全てが戦慄く。痙攣的な恍惚はすぐに奪い取られるのだと知悉させられていたが、陶酔せずにはいられなかった。

 今度こそ、わたしをこの波に浸したままでいて。この波がわたしの全てを飲みこむまで。わたしがこの全てを飲み干すまで。

「あにうえ」

「駄目だ」

 あえかな願いは徒花として散り、身を委ねていた穏やかな海――異母兄に与えられる快楽の潮は引き、懲罰的ですらある戯れもまた止まった。

「おねがいします」

 少女は潤んだ双眸で兄を見上げる。乱れた己の衣服を慣れた手つきで整える少年を。

 兄は、まさかこれで終いにするつもりなのだろうか。気怠さから解放されはしたが、冷めきらぬ火照りに蝕まれた肢体のまま、部屋に返れ、と。

 肢体のあちこちで燻る熾火を持て余す少女に突きつけられたのは、危惧通りの冷酷な宣言だった。

「今日はもう戻って、ゆっくり休め」

 薄い口元が鮮やかに持ち上げられ形作られた笑みは、ダーシアの乏しい語句の全てをかき集めても足りぬほどに端整だが恐ろしかった。

「……あにうえ」

 この熱を抱えたまま寝台に横たわったところで、安らかに眠れなどできはしないのに。ダーシアの心情と求める者を見抜いるはずなのに、微笑みながら己を突き放す彼が愛おしくも憎らしい。

「もうこんなことしませんから! どこかがおかしくなったらすぐに兄上に相談しますから!」

「駄目と言ったら駄目だ。諦めろ」

 彼らしくなく軽やかな笑い声を上げた少年は、憤り不満に唇を尖らせる少女を引き寄せる。耳朶に吹きかけられたのは、明日をも超えた未来に繋がる約束だった。

「もうすぐ秋だな」

「ええ。そうです、けど」

 それが、何かしましたか。

 吐き出しかけた憤懣は、至上の麗貌に鎮められる。

「秋になったら薔薇が咲くだろう? お前のその服と同じような色の薔薇が」

 涼やかな風が秀麗な額を撫で、日の光を浴びて更に輝く純金の髪を揺らした。そっと背に回された腕は一年前よりも逞しくなっている。その体温としなやかな筋肉が頼もしく、心地よい。

「そしたら、またその服を着てここに来い。その色はお前に似合っている。満開の薔薇の下で見れば、きっと薔薇の精みたいに可愛い」

「……あにうえ!」

 頬が燃えた。心臓は猟犬に追われる兎さながらに跳ねる。エルゼイアル以外の一切がぼやけ歪んで映るのは、幸福に酔いしれるあまり眩暈がしたからだろう。

「じゃあ、また明日! わたし、今日は兄上の言いつけ通りにしますから! 明日はたくさん“いいこと”しましょうね!」

「ああ」

 別れ際に与えられた鳥の翼か淡雪で撫でられているのかと錯覚する儚い触れ合いは、帰路を歩む少女を現実から浮遊させた。

 ――わたしが可愛いって。薔薇の精みたいだって……。

 もとより下がった目元を更に垂れさせ、唇の端を締まりなく緩めた少女は、慣れたはずの庭園で一度ならず二度、三度と足を取られながらも、さして戻りたくもない一画に辿りついた。

 飴色に光るまでに精緻に磨かれ精緻な彫刻が施されてはいるが、王妃とその子のための宮の竜が彫り込まれた青銅の板が嵌めこまれたそれと比すれば貧相ですらある扉を開く。

「……ただいま戻りました、母上」

 控えめに、弟の看病で気疲れし苛立っているはずの母を刺激してはならぬと抑えた挨拶に応えたのは、

「母上なら、父上の使いの方と話してる」

 夜半になれば激しくなる咳と熱に遮られた眠りの不足を取り戻しているはずの双子の弟だった。

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