渇望 Ⅳ

 幾重にも寄せられた襞は重く、ただでさえ機敏とは称しがたい少女の脚に絡んで縛める。生い茂る草を擦るまでに長い裾を踏んで転びはしないか。あの可愛らしい脚に傷を拵えはしないかとの兄の危惧など知らぬ、満面の笑みを湛えた顔で、ダーシアはエルゼイアルの許に駆け寄ってくる。

「あにうえ」

 まるで犬のようで、薄く整った口元が僅かに緩んだ。「女」という獲物を寝所に運ばせるばかりの父王が主催する狩りの宴で弾けるのは、大物を射止めた貴人の喝采や見物に勤しむ貴婦人の歓声ばかりではない。鮮血に毛皮を赤く染めた兎や狐を咥え主人の許に馳せる猟犬が礼賛を期待してか喉を鳴らす様は慈愛の心をくすぐる。もっとも、彼らのいずれもダーシアの愛らしさを上回りはしないが。

 少年を見つめる少女の瞳は黒水晶だった。じっとりと濡れた煌めきを放つ双眸を囲む濃い睫毛の影が落ちる褐色の頬は、少女らしく健康的に――けれどもどこか艶めかしく紅潮していた。ふっくらと肉感的な唇も。

「あにうえ」

 けざやかに紅い花弁から漏れるのは、花の蜜ともまた違う――香のように甘い、噎せ返らんばかりに濃密な囁き。母の胎より生まれ落ちて十回目の春を迎えて一月も経っていない少女には不釣り合いですらある無意識の媚態を滲ませた音は、大方の女には受け入れられまい。事実、アマルティナはただの一度邂逅しただけの妹の声と喋り方をたびたび嘲っていた。

『質の悪い油を使った菓子のようだ。べたべたとして――聞いているだけで胸焼けがする』

 エルゼイアルにとってはどんな楽の調べよりも妙なる響きを蔑みたいのなら心ゆくまですればよい。陰で悪し様に罵られようとも、ダーシアの真価は痛罵程度では損なわれない。脆く傷つきやすい妹が二度と傷つけられぬように、兄たる己が目を光らせていさえすれば。 

 エルゼイアルにとっては歩いているのとさして変わりない、けれども本人にとっては懸命な走りは覚束ない。異郷の面影を色濃く受け継いだ面は、己のみに向けられていた。

 そんなによそ見をしていると、転んでしまうぞ。吐き出しかけた懸念はしばしの後に現実になった。

「お会いしたかった、」

 緩やかに傾ぐ少女の肢体。ゆらゆらと、水中を漂うかのごとく広がる黒髪は手に取れば湿って冷たいのだろうと錯覚させるほどに艶やかで。翻る濃い桃色の裳裾も、光を拒絶する漆黒によって色褪せた。

 どさり、と乾いた音の後に続いたのは押し殺された嗚咽だった。目の前で人体が切断され、迸る血飛沫を浴びても泣かなかった――ゆえにその場に駆け付けた父に、言葉ではなく眼差しで化物ではないかと畏れられた自分とは違い、妹はすぐに涙を流す。

 好きな花が散れば泣き、迷い込んだ仔猫に威嚇されれば怯え、恐ろしい夢を見たと己に抱き付く小さな少女。ダーシアは今もエルゼイアルを、エルゼイアルのみを必要としていた。エルゼイアルはいつもその事実に、ダーシアに満たされ、救われていた。

 啜り泣きをどうにか堪えた少女の潤んだ眼がひたと充てられる。たくし上げられた布に埋もれるようにそれは在った。鮮血に彩られた脚は、琥珀で形作った芸術品のようで。

 露わにされた脹脛はすんなりと締まっていた。膝は丸かった。腿はむっちりと肉付きが良く、触ってその滑らかさを確かめてみたくなった。そして、ちらと垣間見えた脚の合間には一筋の幼い花がほころびの刻を待っていた。

 慎ましくも蠱惑的な一輪を、かつて強いられたように未だ開き切らぬ蕾を指でこじ開けたくて仕方がなかった。禁忌であると知っているのに。

 伏せた翠緑玉の奥で、聖典のある貢が開かれる。流麗な文字で綴られているのは、神の怒りを受け滅んだと伝えられる街の物語だった。風俗の退廃ゆえに燃える硫黄の雨で清められた街で行われていた罪の最たるものは……。

 ――此のおぞましき、罪に塗れた街では、父と娘が、母と息子が、兄と妹が交わっていた。

 彼らしくなく淡々と読み進めるいつかの師の声は、湿った囁きに蹴散らされた。

「……あにうえ」

 口腔は何故だか乾き切っているのに喉が鳴る。妹は期待に輝く瞳で自分を見つめ、強請っている。

 どこか近くで香木が燻されているのかと錯覚してしまうほどに、頭の芯が痺れた。曇った黒曜石は少年を捕らえて離さない。色彩すらも遠のいた世界で鮮烈なのは、少女が纏う黒と褐色と、褐色に滲む赤だけで。渇いた喉は潤いを欲した。たとえ半量であろうと己の中で巡るものと同じである生命の雫を。

 痛ましい傷を舌先でなぞり、舐め上げると、腕の中の肢体は跳ね、悶える。

「……いたい、いたい、です」

 しどけなく開いていた唇は噛みしめられ、僅かに漏れ出る吐息は熱く湿っていた。

「我慢しろ」

「でも、いた……あっ!」

 苦悶に歪む面は気まぐれに手折られ踏みしめられた花のようで、痛々しく憐れみを誘う。けれども少年の胸に灯ったのは憐憫ではなく悪戯とも嗜虐ともつかない愛おしみだった。

 もっとも、もっとこの顔が、この熱くくぐもった悲鳴が、潤んだ眼差しが欲しい。欲望が命じるままに舌を蠢かせ、少女の苦痛が刻まれた膝から張りのある太腿へと這いのぼる。そこには女の悦びの源泉があるのだと、少年は知っていた。今はもういないある女から、望みも、まして命じもしないのに教えられていた。

『愛していますわ、殿下』

 エルゼイアルに乳を与えた女は繰り返し叫んでいた。互いの舌と脚を絡め、身体を弄ることこそ、愛情なのだと。当時は、これはとうとう気が触れてしまったらしいとしか受け取れなかった告白は、過ちであり正しい。

 エルゼイアルはダーシアと共にいると、いつも「それ」をしたくなる。意識が妹の唇に、幽かながらに膨らみ始めた胸に縫い付けられて、動かせなくなってしまう。母にも、そして母の女官アマルティナにも微塵も喚起されない熱を、腹違いの妹には抱くのだ。そしてこの熱を彼女と分かち合いたいと欲する。分かち合うために何をすればよいかも理解している。

 怖がりな少女を怯えさせてはならぬと自制していた欲望のうねりが、朽木の堤防を

砕き溢れる。

「あ、あにうえ?」

 気づけばエルゼイアルの指は、膝裏の窪みでも太腿でもない柔らかな場所に在った。

「……すまない」

 妹から拒絶が投げかけられる前に、と半ば反射的に話した指先には、温かな柔らかさがこびり付いて離れない。ダーシアは頬も唇も蕩けんばかりに柔らかいが、それらとはまた異なる瑞々しい弾力を秘めた丸みに比すれば、麺麭パンなど岩同然だった。

「あ、あの……」

 見下ろした妹の面差しは、驚愕を湛えている。いきなり異母兄に胸を弄られて驚かない異母妹の方が珍しかろう。だが、ダーシアの驚きは嫌悪というよりかは感嘆を含んでいるように映るのは、己の醜悪な欲望が見せる幻なのだろうか。

「ごめん。僕はお前を驚かせるつもりなんて、」

「ど、どうして分かったんですか!?」

 心中で己が醜態を詰りながら紡いだ弁明は、あどけない疑問によって遮られる。

「わたし、最近たまにここが痛くなって、今日も、いたくて。中になにか入ってるみたいで、ずっと変な感じがしてて、」

 少女が恥じらいながらも指さしたのは、つい今しがた少年がなぞった曲線だった。

「でも、兄上に触ってもらったら楽になったんです。だから……」

 ――もっと、いろんなとこを、いっぱいさわってください。

 耳元に吹き付けられた誘いと吐息は蜂蜜を思わせた。壺一杯に溜めた蜜で指を包まれる、甘やかなこそばゆさが下腹部からせり上がる。

 濃い睫毛が瞬くよりも素早く、愛おしい少女を、この世でただ一人だけの妹を抱き寄せる。震える唇に吸い付くと小さな舌が挿しこまれ、脆くも崩れ去った理性と倫理を絡め取られた。


 肌蹴けさせた前から覗く肌は、糖蜜を塗り込まれたかのごとく艶めいている。まろやかな線を登って腋窩を指の腹で嬲ると、あえかな喘ぎは意味を成さなくなった。

 胸元に張り付いた、褐色を透かす銀梅花を舌で剥す。緩やかに隆起した丘の頂上で実る木苺をそっと食むと、腕の中の少女の肢体の芯が崩れた。

 とっさに抱き寄せ、頭を抱えて柔らかな身体を支える。弛緩した手足はだらりと投げ出され、濡れた唇は嫋々と湿った吐息を吐き出す。癖のない長い髪の、汗ばんだ皮膚とはまた違う滑らかさを愛でていると、形良い頭が不意に傾ぎ、耳の上からは白い花が転げ落ちた。清廉な白は少年の掌と黒髪に挟まれ、ぐしゃりと潰え、はらはらと散っていった。

 落ちた一輪の代わりを摘み取ろうとした手は控えめな囁きに制される。

「あにうえ」

 潤んだ瞳の言葉ない誘いに応じ、淡く開いた薔薇の蕾を舌で割る。二匹の紅い蛇が交合するごとに奏でられる水音は淫靡だった。己と異母兄の唾液で艶めく唇を吊り上げ、先端に傷んだ一片を張り付けた桃色の肉をちろと突き出した少女の笑顔も。蠱惑的でありながら無垢だった。彼女が罪を自覚せざるがゆえに。

「だいすき」

 ただ己のためだけに紡がれた囁きが、少年の魂に空いた穴――母の拒絶によって穿たれ、押し広げられた空白を埋める。もっとも、ひび割れた陶器にいくら蜜を注いだところで、僅かずつながら確実に流れ出てしまうものなのだが。だからエルゼイアルはダーシアを、腹違いの妹を欲する。日々大きさを増す胸の氷を融かすために。満たされるために。

『更に研鑽を積み、責務に励めば、お前の母が正気に返ることもあるやもしれぬな』

 どれ程振り払おうとしても両の足首を縛め絡みつき、ついには肉に食い込んで己の一部となった父の言葉はいばらの蔓だった。引き締まっているが華奢な背を鞭打ち、追い立てる。

 もう耐えられないと何度も思った。いつまで待てば、母は己の名を呼んでくれるのかと、泣きだしてしまいたくなった。

 ――あにうえ!

 だが自分よりも幼く、自分よりもよく泣く少女が、エルゼイアルに涙を忘れさせてくれる。エルゼイアルはいつの間にか、空を知らぬ鳥としたはずの妹に囚われていた。

「あの、」

 籠の鳥が囀る。好む餌を与えれば、きっともっと啼いてくれるだろう。

 ――わたしのあにうえ。

 甘く蕩けた声で、耳にこびり付いた母の悲鳴の苦味が薄れさせてくれるだろう。

 少年は掻き抱いた妹を押し倒す。少女の肉体の下敷きになった花嫁の髪を飾る花の残骸は無残にひしゃげ、萼から離れた最後の花弁は萎れ土に塗れるのみで、兄と妹はもはや哀れな一輪を顧みない。

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