渇望 Ⅲ
「ねえ、あにうえ。あれはなにですか?」
あどけなく微笑みながら睡蓮の葉の下を波打たせる魚影を指さす妹。アマルティナの糾弾から庇った数か月前以来、一心にエルゼイアルを慕うようになったダーシアは、あまりに無垢で、あまりに物を知らない子供だった。
「あれは魚という生き物だが……魚ぐらい、食べたことはあるだろう? 解れやすくて白っぽい――鮭などは淡い紅色だが――淡白な味の……」
「あのおいしいやつですね! すっぱいけどおいしい、丸い輪っか」
付け合わせの柑橘をして「あれは魚というのか」と頷く妹の、一切の疑念も躊躇いも含まぬ笑顔に戦慄が奔る。
「……お前が言っている輪は檸檬か
「ああ、あのふんわりした。……でも、だとすると“魚”はほぐれてばらばらになっちゃってるから、もう食べられないですね」
二年前の、現在の妹と同じ年だった自分は、もっと色々なことを知っていた。
未来の自分が受け継ぐであろう王国は、東の森林地帯と南の山脈、そして西の海峡に囲まれた自然が――あるいは神が設けた天然の要塞の最中に在る、護りやすい土地であると。上げられた右腕のごとく荒れ狂う北の海に突き出た半島の、父の王権が及ぶ最も北の地では
知識は多ければ良いというものではない。エルゼイアルが信頼する数少ない人物である神学の教師は、眠気に根負けして机にうつ伏せた教え子の後頭部に拳を振り下ろしながらも、度々呟いていた。
知識は丸呑みするばかりでは己が血肉とはならない。実践し、また他者と分かち合いながら咀嚼して初めて、真に自分の血肉となるのだと。闇雲に蓄えられた知識は贅肉や飾り物の刀剣と同じ、見かけは人々を威圧するが役には立たぬ代物なのだと。
ゆえにエルゼイアルはダーシアの無知を嘲りはしない。だが、最低限の知識すら身に付けさせぬままでいさせてよいはずがない。
正嫡と妾腹という違いは在れども、父の叔母であり祖父の妹であるドリス王女は、修道院に籠ってただ祈祷と勉学にのみに己が生命を捧げる修道士すら圧倒し魅了する教養を備えていた。建国王は、娘が望めばどんな遠方からでも書物や学士を集めていたのだと記録に残っている。つまりダーシアは、本人と父の意向次第では、エルゼイアルと同程度の教育を受けられるはずなのだ。
出会って一年と少し独占し慈しんできた妹をほんのしばしの間でも他者と分かち合うのは口惜しい。本音を言えば、ずっとずっと己の側に置いて、誰の目にも触れさせぬままあの柔らかなぬくもりを愛おしんでいきたい。だが、それでは妹のためにはならない。
「父上!」
記憶にある限りでは初めて潜った王の居室の扉の向こうで坐す男は、何をするでもなく手慰みに王の印章を弄んでいた。
「エルゼイアル」
己と同じ金髪に縁どられた面が蒼ざめているのは、頑強とは言い難い身体を風邪に蝕まれたばかりだからなのか。あるいは病み上がりの身で新しい愛妾との色事に励んだからなのかは定かではないが、もっとも在り得るのは――
「私の前に顔を出すのは式典の折だけにしろと言いつけていたはずだが、よもや忘れてしまったのか?」
「“病が治らぬうちは控えてくださいませ”との医師の言葉も忘れて妻以外の女との情事にお励みになるあなたにそのような苦言を呈す権利があったのですね。浅学なるあなたの息子は存じませんでした」
エルゼイアルの姿を見たからだろう。父はいつも、宮中ですれ違った際も、はたまた重臣たちや他国の使節が控える式典の際も、引き攣った顔をしている。大半を平らげた
だが、湧き起こる憤懣にも胸の軋みにも、もう慣れた。
「ご安心ください、父上。僕がここを訪れたのはあなたの具合を悪化させるためでない。用が済めばすぐに退室いたします。だから無礼を承知で申し上げます――どうかダーシアに、僕の妹に教育を受けさせてやってくださいませ」
父の目から父が忌み嫌う顔を隠すために頭を下げる。隠しきれぬ安堵の吐息は、父と息子が対峙する執務室の澱んだ空気を揺るがしはしなかった。
「お前が何故、あれの存在を気に留める? 所詮は腹違いの、半血の妹を」
さも面倒だと言わんばかりの、吐き捨てる口調は、一端はその勢いを鎮めたはずの熾火を再び燃え上がらせた。
「……ならばあなたは、なぜ己が娘を捨て置かれるのです?」
「賤民の腹から出た娘など諸侯に嫁がせることすらできん。政略にすら使えぬ娘に学など授けるだけ無駄なのだと、説明されねば理解できぬのか?」
目の前の男が王でさえなかったら、燃え盛る炎が命じるままに斬り捨てられもするだろう。十を越えたばかりの己でも、幼少期の虚弱な体質ゆえに戦地で馬を駆るどころか剣を握ることすら稀であった父ならば、隙を付けば倒せるかもしれない。だが現実では口の端を噛みしめ、掌の皮膚が破れるまで爪を食い込ませ、僅かにでも気を抜けば溢れる激情と痛罵をやり過ごさなければならない。
父にとっては自分も妹も、執務机の隅に置かれた、
予想し、覚悟していたものよりも腹立たしい文句が、エルゼイアルの迷いを吹き飛ばした。母や自分に対する扱いからこの男に頼っても無駄なのだと分かり切っていたはずなのに、どうして甘ったるい期待などしてしまったのだろう。
これ以上父の顔を見ていたら、堪えきれずに殴りかかってしまうかもしれない。
「――あなたのお気を煩わせたことをお詫び申し上げます。それでは、陛下」
応えも待たずに父に背を向けた幼子に投げかけられたのは、想像も期待もしていなかった慰めだった。
「エルゼイアル。お前の日々の努力には、私も満足している」
お前が今更何を言う。飛び出しかけた嘲りは、胸の奥の更に奥、自分自身すら底が見えぬほど深くから押し寄せるうねりに攫われる。
「更に研鑽を積み、責務に励めば、お前の母が正気に返ることもあるやもしれぬな」
「……」
「アマルティナはよくあれに仕えているが、あれに先んじ神の許に召されることは避けられまい。あの哀れな女を支えてやれるのはお前だけなのだ。己を生み落としたただ独りの母と、替えなど幾らでも作れる腹違いの妹。どちらを優先すべきかも、聡明なお前になら判ぜられるな?」
母が自分の名を呼び、抱きしめてくれる。今までよく頑張ったわね。偉いわ、と微笑みながら。それは少年が長年抱き続けた、密やかな渇望だった。
それを手に入れられるのなら、己が持つ全てを投げ打っても構わないと、憎悪の対象ですらあった神に祈っては裏切られ、そのたびに絶望してきた希求が適うのなら――
そうしてもいいかもしれないと納得しかけた自身の醜さが赦せなかった。母親にすら見捨てられているらしき妹が頼れるのは、この不甲斐ない自分だけなのに。
「……ご忠告、ありがたく頂戴いたします」
滑らかに磨き上げられた石を叩く鉄球と鎖の音色が聞こえぬことが不思議でならない、重い脚を叱咤する。約束の刻限はもうすぐだ。急がねば妹を待たせてしまう。だが「お前にとっておきの物をくれてやるから」と宣った舌の根も乾かぬのに、やはり駄目だったなどとのうのうと謝罪など……。
伸びやかな脚は重苦しい懊悩に縛められていても目指す場所に辿りつく。
「あにうえっ!」
「……ダーシア」
「おあいしたかったです! ……ああ、やっぱりいいにおいがする」
心臓に張った氷は、己の腕の中に飛び込むやいなや狐の臭いを辿る猟犬のごとく白い項に押し付けた鼻をひくつかせた少女の柔肌の熱では融かしきれなかった。
汗ばんだ背と首筋に一陣の風が吹き付ける。
――不甲斐ない兄でごめんな、ダーシア。
我知らず独り言ちた自嘲は、運悪く微風に運ばれ妹の耳に入ってしまった。
「あにうえ?」
濃い睫毛で覆われた双眸に隠し事などできはしない。
「僕は、お前に何もしてやれない。兄なのに」
胸で渦巻く愁いの全てを吐き出し、妹の泣き顔を恐れそっと目蓋を下ろしたエルゼイアルの鼓膜が捉えたのは、弾けんばかりの歓声。
「そんなこと、気にしないでください、あにうえ。わたしはおべんきょうなんてしたくない。文字なんておぼえなくてもいい。……あにうえがいてくれればそれでいいんだって、前も言ったでしょう?」
そして少年が心の底から欲したもう一つだった。
――自分が妹を鍵がかかった部屋の中に閉じこめ、澄んだ瞳から自分以外の全てを隔てたいと望むと同じように、妹にもただ己だけを望んでほしい。父の叔母に倣ってこの城を出るのではなく、彼女を永遠に自分の側に在らせるには、どうすれば良いのか。
一人寝台に横たわりながら追求した謎の応えは既に出ている。
「……お前は本当にそれでいいのか? ダーシア」
「はい!」
妹を、独りでは何もできない女にすれば良いのだ。側について助けてやらなければ衣服の着脱どころか食事すらもままならない、母と同じ幼子のまま留め置けばよい。
空舞う鳥を捕らえて籠に閉じ込めれば、自由を恋しがって飛び立とうとするだろう。だが、生まれながらに閉じ込められた蒼穹を知らぬ鳥ならば、翼を手折り風切羽を抜かずとも、籠の中で囀るはずだ。
「そう、か。……勝手なことして、悪かったな」
「べつにいいですけど、」
喜悦で震える手で形良い頤を持ち上げると、妹は不満に口を尖らせる。
「わたしはおべんきょうなんて……ぜったいにじゃないけど、できるだけしたくないんだって、おぼえててくださいね」
けざやかに紅い唇はまさしく――いや、妹そのものが薔薇なのだ。然るべき水と肥料と日光を注がねば儚く枯れ果ててしまう、けれども手間を惜しまずに育めば大輪をほころばせる、芳しき若芽。庭師の手違いで日当たりの悪い大樹の陰に植えられてしまった花たる妹の陽光となり、妹を守ってやれるのはエルゼイアルしかいない。
「だって、へんな線のいみをおぼえるより、あにうえとこうしてるほうが――」
厚い雲が垂れ込める夜の虹彩で煌めいた悪戯とも無垢とも違う輝きに魅入られていると、唇に柔らかな熱が押し当てられた。わたしはぐずでのろまだから、ともうすっかり癒えた傷を撫でながら涙ぐんでいた妹を黙らせるためにした行為を、真似られたのだ。
「たのしいじゃないですか」
にこやかに口の端を吊り上げた少女は、呆然と息を呑む少年に――腹違いの兄にくちづける。降り注ぐ稚い接吻は雨となり、ひび割れた胸の裡を潤し、魂にまで張っていた氷を融かした。
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