嗤笑 Ⅲ
真鍮の匙からどろりと垂れる雫は白く濁っている。すり潰した
――何を考えているか分からない。……いいえ、何もお考えになっていないのでしょうけれど、おとなしくて扱いやすい姫様。
女官たちが自分を陰でどのように蔑み、呼んでいるのか、ダーシアは知っていた。
――癇癪もちの母親や生意気な弟よりは、愚図でのろまだけど無害な姫様にお仕えする方が数倍まし。
艶やかな金や栗色の髪を結い上げ、若々しい肉体の魅力を誇示し引き立てる衣装を纏う彼女らはいずれも相応に名のある貴族の娘だ。本来ならば自分の面前に出ることすら赦されぬはずの賤民の女とその子に跪く屈辱を噛みしめてもなお、その手に掴まんと彼女らが欲するもの。それはダーシアの父である国王グィドバールや異母兄である正嫡の王子エルゼイアルの寵に他ならない。
冷めても芳しい白麺麭を千切るでも、食卓に瑞々しい香気を漂わせる李を啄むでもなく、運ばれた時すでに生ぬるかった液体を無心にかき混ぜていた少女の手が止まった。
「用事があって表に出た時、ちらと垣間見たのだけれど……やっぱりお美しいわ」
母の前では頑なに沈黙を守る女官たちの頬は薔薇色に輝き、紅が刷かれた口元は緩みきっている。彼女らは侮っているのだ。ダーシアは彼女たちの怠慢を咎めはしないのだと。この意気地のない姫君には、何かを行動に起こす気概など備わってはいないだろうと。そしてそれは否定するつもりなどない事実である。
「あと二、三年もしてすっかり殿方らしくなれば、それこそ太陽神のように麗しい青年になられるのでしょうね。……楽しみだわ」
「馬鹿ね。あんたみたいな大したことない顔が、殿下のお目に留まるわけないじゃない」
「――そんなこと、分からないじゃない! もしかしたら、日頃の私の働きをご覧になった神様が、特別に計らってくださるかもしれないでしょう?」
ダーシアは何も言えなかった。本当は憎らしくてたまらないのに。わたしから兄上を取らないで、と叫び出してしまいたいのに。
「そういえば殿下はすでに
「さあ? ……でも、
こみ上げる怒りは香ばしい木の実と濃厚な乳の風味と共に嚥下する。丹念に濾されたはずの汁の舌触りはどこかざらついていて、元来縮こまっていた胃の腑を不快に刺激した。もう何も食べられそうになかったが、エルゼイアルと約束したのだからこれで終わりにするわけにはいかない。萎え、ふらつく四肢を叱咤して薔薇の下に赴いても兄に要らぬ心配をさせるだけだ。
ふわふわと柔らかな生地を引きちぎり、発酵
僅かだが決して黙殺はできない不調に蝕まれた下腹部からせり上がるのは、優越感という名の歓喜だった。脂でぬらつく唇を舐め、恍惚の味を舌先で転がす。これさえあればもう何もいらなかった。後は母が戻ってくる前に身支度を済ませ寝台に入れば朝が来る。そして贅と趣向を凝らした品々がむしろ煩わしい昼餐を終えれば、悦びの刻が訪れる。
「……もう、いいです。片付けて」
か細い囁きなど掻き消さんとばかりに囀り続ける雀たちを残し、その広さと豪奢さが空疎さを際立たせる部屋を出る。拳大の麺麭一つと数かけの薄黄の塊が消えた他はさしたる変化が見られない食卓の幾分かは、女官たちの胃の中に放り込まれるのだろう。
手足に重く絡む昼の衣装を脱ぎ捨てる。少女の曲線を艶めかしく透かす肌着と長い髪のみを纏った姿で欠けた白銀の円盤を仰いだ。愛妾のための間で最も日当たりが悪い場所に設けられた自室は、夏であっても常に薄暗く肌寒い。まして夜半となればなおさらで、採光窓から差し込む蒼い月光はまろやかな肢体を冷え冷えと刺した。だがそれでも、褐色の肌を燃え上がらせる熾火は鎮められなかった。
この肉体に、兄が触れた。この世にただ一つの宝玉であるかのように。ただそれだけで、嫌悪する母の特徴をそっくりそのまま写し取った容貌すら愛おしくなる。物心ついてすぐに、心臓に達するまでに胸に深く根を張り、女官たちの蔑みの眼差しを養分として育まれたいばらの根が枯れる。
「あにうえ。……わたしの、あにうえ」
疼く下腹を摩っても、兄にされた際の陶酔は訪れなかった。やはり自分でしても意味はないのだ。ダーシアには己を己で慰める趣味などない。女官たちのいずれかは、どうしても眠れぬ夜にこっそりとそうしているらしいが。エルゼイアルの赦しもなしに、彼の物である肉体を弄ぶなど。ダーシアにとっては唯一神に遣わされた預言者の像に唾するよりも恐ろしい大罪だった。
兄の物である身体を冷やし、体調を崩してはいけない。少女は可能な限り素早く寝衣に袖を通し、柔らかな寝台に潜り込む。
「あにうえは時々いじわるだけど、でも、」
大好きです。
澱み湿った、陰鬱な大気を揺るがした囁きは荒々しい足音に蹴散らされた。由緒正しい貴顕の血統と誇りを受け継ぐ女官たちが、貧民の卑しさが現れていると嘲ってならない、母の歩み。厚い扉を隔ててもなお身がすくむ怒気が、真っ直ぐにダーシアに向かっている。
ここ数日どころか数か月は母と言葉を交わした記憶などありはしない。兄との逢瀬に向かう際に「散歩に行く」と声をかけても無言――早く出て行け、わたくしの目の前から消えろ、との苛立ちが返されるばかりだから。
助けて、兄上。
舌は縺れ震えるばかりだから、心中で希った。滲む涙を拭ってくれる指を。慄く心と肉体を抱きしめ守ってくれるぬくもりを。
だが少女の哀願は瞬きに等しい短命を定められた徒花だった。
臆病な心臓を跳ね上げさせる音はぴたりと止む。泡沫の静寂の後に響いた扉の軋みは、人間を貪り食らう怪物の唸りだった。
冷たい敷布を涙で温もらせる少女にできるのは、息を殺し祈ることだけ。どうか、早く出て行ってくれと。母が
「ダーシア」
麝香を連想させる淫蕩な響きでも隠し切れない慣れ親しんだ嫌悪と、初めてぶつけられた忌避から逃れるために、少女は頑なに目を閉ざし続けた。
「ダーシア」
すっぽりと被った上掛けが剥ぎ取られ、華奢な肩には尖った爪を食い込まされる。肉を抉られる激痛は耐えがたかったが、母の激高と比べれば虫に刺されたようなものだと我慢できた。
「――その下手な芝居でわたくしを欺けると本気で思っているの?」
しかし、氷柱の冷笑を浴びせかけられ、髪を引かれて頬を張られては、重い目蓋をこじ開けずにはいられない。
「は、はは、うえ。……どうして?」
ぼろぼろと零れる恐慌に曇った黒曜石に映る母の、接吻を交わせば落ちるはずの色素に彩られた唇は紅い三日月だった。にんまりと不吉に持ち上げられた口元に刻まれている感情は、ダーシアの乏しい語彙の全てを駆使してもその片鱗すら表現できない。
ありとあらゆる底冷えする念が渦巻く双眸は月も星もない嵐の夜そのものだった。
「今日の
艶やかだが毒を持つ夾竹桃の微笑みがにじり寄る。後ずさって逃れたくとも、二の腕には既にしなやかな指が蔓さながらに絡み、いばらの棘のように食い込んでしまっていた。
「は、はい……とっても」
合わない歯の根もそのままに首を縦に振る。べたついた頬に張り付いた髪の束は疎ましかったが、自分の目を覆って母の表情を隠してくれることだけはありがたかった。
「ええ、そうね。そうでしょうね」
自分の一切に興味を抱かなかったはずのタリーヒの詰問の意図が分からなかった。
「だって、お兄さまと会って、
どうして、そのことを。
激痛に霞む脳裏を、更なる衝撃が掻き乱す。
「お兄さまにはどんな風に可愛がっていただいたの?」
月の光を冷ややかに弾く黄金を嵌めた指が、まだ幼いふくらみに添えられた。兄の、己のものでもない体温に嫌悪を覚えても、それを露わにすることはダーシアには赦されていない。
「こんな風に、かしら? それとも、こっちの方?」
片方の青い果実をもぎ取らんばかりの力で掴まれ、もう片方の頂をねじ切らんばかりに捻られる。
「ここをこうされると気持ちよくなれるものね。分かるわよ。わたくしだって女だもの」
喉を締め付け呻くことすら不可能にする激痛と比すれば、先ほどの激痛など痛みですらなかった。
物乞いをする貧者に貨幣や食物ではなく礫を投げる幼子の、己が彼らの上に立つと確信するがゆえの残忍な笑み。仰ぎ見た母の面に広がっていたのは、心胆を寒からしめる歪な嘲笑だった。
「羨ましいわあ。わたくしはお前のお父さまとはとんとご無沙汰だけれど、お前はお兄さまと愉しんでいるなんて――」
解放を求めて伸ばした手は、冷徹な一撃に振り払われる。
「お前も、あの女の息子も、本当に愚かね。気味が悪いわ」
吐き捨てる口ぶりから、痕跡を削ぎ落さんと言わんばかりに娘が触れた素肌を擦る母の形相から、ダーシアは悟った。母にとっての自分は垢と汚物に塗れた貧者や病者ではないのだと。鋭い嘴で目玉をほじくり返され腸を啄まれ、蛆に集られた死体をも上回る、おぞましい存在なのだと。
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