愚者 Ⅳ

「私以外の者には……父上には知られておらぬだろうな……?」

 片手でまだ平らな腹を摩りつつ、グィドバールの肩口に顔を埋めた女の肢体を引き剥がす。予想だにしていなかっただろう拒絶に生え揃った睫毛に囲まれた空色の瞳を瞬かせた女は、けれども妖艶な笑みを小作りな口の端に刷いた。

「もちろんですわ。一番にこの喜びを分かち合うのは殿下と決めておりましたから」

 細く、嫋やかな腕が伸ばされる。理性が誘惑に絡め取られる。小柄な情人は爪先だけでは支えられぬ己が重みをグィドバールに預けていた。

 しめやかな吐息が耳朶に吹きつけられると、戦慄とも快楽ともつかない震えが背筋に奔る。密着した肢体から染み入るのはぬくもりだけでなく、たわわな乳房の弾力だった。まだ女を知らぬ少年の頃、グィドバールを包み込んだ叔母のそれよりも僅かに固く、弾力のある若々しいふくらみ。幾度となく揉みしだき、舐ったこの若い果実も、時を経ればあのように柔らかに熟れるのだろうか。


「ごめんなさいね、グィドバール」

 兄の処刑の後、あの子を助けられなかった、と涙ながらにありもしない罪を詫びながらグィドバールを抱きしめてくれた叔母。兄である国王の暴虐と残忍についに耐えかねた彼女は、宮殿からも本来あるべき女子修道院からも離れ、未だ邪教に悩まされる民草を救済すべく王国北部に赴いていた。

 父が即位してすぐに新国王たる兄に反旗を翻した叔父の領地であり、数十年前の戦で叔父を支持したために父に徹底的に破壊された都市。叔母は荒れ果てた街路を寝床としていた孤児たちには温かな食事と孤児院という住まいを、文字を綴れぬ者たちには自ら教養と職を与えていた。しかし、いつしか聖女と呼ばれるまでに民草に愛された修道女はもはやこの世にいない。叔母は兄である国王の圧制を怨む暴徒の凶刃に倒れ、血の繋がらぬ子供たちに見守られながら神の楽園に逝った。

 叔母のの一人であり、現在は修道僧として種々の学問の習得に励む男からその報を受けたるやいなや、グィドバールは一人自室で涙した。優しかった叔母の喪失の痛みに穿たれた胸をどうやって埋めればいいのだろう。

「お望みの物をお持ちしました、殿下」

 泣きすぎて腫れた目を冷やすべく、冷水を運ばせた女官は、細やかに螺旋を描く濃褐色に縁どられた柔和な面を不安と心配に翳らせている。小さいがふっくらとした唇も、地平線近くの天を宿した大きな瞳も、華奢でありながら豊かな体つきも、彼女はもういない女にどことなく似ていた。

 気品でも、身の裡から滲み出る知性でも、唐突に腕を掴まれ顔を強張らせる女官は叔母に遠く及ばない。けれども彼女は父を介して同じ血を分けられた己よりも、暴虐の犠牲となって喪われた女性の面影を色濃く漂わせていた。

 緊張と期待に慄く唇に、己がそれを重ね合わせる。すると不遜とも貪婪ともとれる巧みさで口内に侵入してきた舌は、叔母のものではありえなかった。修道女として貞潔を誓っていた叔母は、このような行為の存在にすら触れていなかっただろう。

 しなやかな指が脚衣の前を乱し、昂ぶりを取り出す。

「……お寂しいのですね。でも、私が慰めてさしあげますわ」

 ほころんだ紅い花弁から這い出た桃色の蛇が、赤黒い蛇と交合する。蕩けた粘膜に己が身体で最も敏感な部位を包まれる、初めて味わわされた手管が齎す愉悦はグィドバールにしばし言葉を、悲嘆を忘れさせたが恐怖は如何ともしがたい。

「腹が空くまではでは愉しめませぬが、」

 女は妖艶に口元を吊り上げ、主の脚の付け根を弄るが、そこは萎えたままだった。

「――よい」

「……殿下?」

「二つとなった身体を厭うがよい」

 伝え聞いた叔父の、未だ脳裏に焼き付き、ふとした折に蘇っては己を苛む兄。父の命に逆らった者たちの末路が、肉欲を取り上げたのだ。

 適当な家臣に下げ渡すなり修道院に送るなりして、父に把握される前に何としてもこれ・・を処理しなければならない。

「この処遇は考えておくから、そなたは此度のことをくれぐれも他言してはならぬぞ」

 密かな決意が声音に現れてしまったのか、ようよう押し出したのはこれが自分のものかと驚くまでに冷ややかな――しかし意気地なく揺れ、威厳には程遠い声音だった。

「……承知いたしました」

 隠すつもりなどない不満をまざまざと面に乗せた女官は、それでも淑やかに腰を折って退出する。

 然るべき功績もない家臣に褒美・・を与えては父に怪しまれる。先のティーラとの戦いでも、王太子であった兄を討伐する戦でも、父の指揮の下有名を上げた武人は数多いるが、彼らはいずれもグィドバールよりも父に従うであろう。そして王太子から贈られた女の、早すぎる妊娠への疑惑から探り当てた真実を、心酔する国王に上奏する。さすればこの企みは終わりだ。しかし、ならばと出家を勧めても、あの娘が首を縦に振るかどうか……。

 女すらも遠ざけ、一人練り続けた小細工は、結局のところ実を結ばぬ徒花であった。

 父と二人きりで摂る食事は、豪勢ではあるが味がしない。葡萄酒と葡萄果汁を煮詰めた汁に浸かる仔兎の丸焼きは、しっとりとしていて噛むほどに野趣が口内に迸る。けれども刃さながらの眼光を浴びせかけられていては、どんな美味も喉を通らないのだ。

 荒ぶる北の海で引き締められた旨み溢るる塩漬けされたニシンが、干上がった口腔からなけなしの潤いを奪う。猛烈な乾きを覚えて薄めた葡萄酒を口に含むと、長い食卓の端と端に別れた男の厳めしい口元が開いた。

「食が進まぬようだな」

「いえ、そのようなことは、」

 反射的に紡いだ誤魔化しは弱々しく響き、それが偽りであることを侍従や給仕にすら悟らせただろう。まして父が、グィドバールが弄した虚実に気づかぬはずはない。

「お前の父たる余が、お前に関して掌握せぬことなど何一つない」

 どうして自分は父を欺き通せるだろうと慢心してしまったのか。数瞬前の己が愚かしさに怒りがこみ上げる。

「……も、申し訳」

「そう怯えずとも良い。余はお前を罰せぬと決めた。その証も、拵えさせたのだぞ」

 やがて下されるであろう罰に顔面を蒼白に染めた青年にかけられたのは、平伏せずにはいられぬ嗤いであった。

「運べ」

 父の手招きと同時に、煌びやかに着飾った給仕が死人さながらに蒼ざめた顔を下げて入室する。銀の覆いが被せられた盆を持つ彼は、「それ」を食卓に置いた。そして主たる国王に一礼した男が、恭しい動作で取り払った蓋から現れたのは――

「お前の好物であろう?」

 懊悩し続けた一月あまり、常に頭の片隅に在りながら想起することすら稀になっていた女の頭部であった。

 豊かな巻き毛を燭台に灯された炎を煌々と反射する銀器に広げる女の目蓋は固く閉ざされていて、持ち上がる気配はない。

 堪えきれぬ衝撃に、腰かけていた椅子から転がり落ち倒れ伏した青年に降り注いだ空の皿や小刀ナイフや匙が雨となって降り注ぎ、大理石の床に当たって耳障りな悲鳴を上げたが、醜態を振り返る者はなかった。

「ドリスに似ておるな。どこがどうとは言えぬが」

 物言わぬ躯の目元や口元を武骨な指先がなぞる。穏やかな目元を下りまろい頬を辿って、豊かな唇の曲線を確かめる男の横顔には憐憫と称せなくもない感情が宿っていて、なおのこと理解できなかった。

 己が妻と娘の死には涙するどころか眉一つ動かさず、実弟と長子は残虐極まりない刑でもって屠ったこの男は、妹の死だけは悼んでいたはずだった。

『この兄の忠告すらも退け、死に急ぐとは。全く愚かな妹だ』

 例え泡沫に過ぎぬ合間でも、父が謁見の間で目蓋を降ろし哀悼の意を示したのは、叔母の死去の報を受けたあの時だけ。ならばなぜ、父は平然と叔母の似姿を蹂躙できるのか。

 脳内で渦巻く種々の苦痛と困惑は胃の腑まで下り、食道を駆け上る。喉元までせり上がり、抵抗も虚しく歯列や唇の合間から流れ出した濁流は畏れを押し流してはくれなかった。蹲る我が子を見下す王の目に比すれば、氷柱も冷たいと忌避するには及ばない。

 背を丸めて嘔吐えずく青年の指先が沈む汚物の海は、何者かを受け止めびちゃりと跳ねた。

「拾え。そして見よ」

 汚らしい黄と黒ずんだ赤の飛沫をグィドバールの顔面に飛ばした塊を探り当てる。こわごわとこじ開けた眼に飛び込んできた「それ」は既に四肢を備えていた。小さな、作り物めいた先端には五本の指まで。硬い石材に叩き付けられたためにひしゃげた頭部には、耳と双眸すらも。

 立ち昇る死の生臭さから逃れたい一心で、ぶよついた屍を掌から払い落とす。けれども己が子に飽き足らず孫すらも殺戮した男は、安寧への逃避を赦しはしなかった。

「分かっていただろう?」

 華やかな装飾こそなされていないが丹念に仕立てられ、王の威厳を醸し出す長靴が、人間の形を取りかけていた肉をグィドバールごと踏みつぶす。ぐちゃりと潰えた死肉と滑らかな靴底に挟まれた五指の骨の軋みなど、慌ただしく脈打つ臓器のそれには比較すればないも同然だった。

 詰られる意識はやがて薄れ、掌に染み入る血と肉の滑りすらも曖昧になり、ついに全てが閉ざされ暗澹となる。

「殿下」

 昏倒から覚めた青年の、朦朧とした視界に飛び込んできたのは、元は可憐であろう面を醜く引き攣らせた女官の姿だった。

 僅かな救いを求めて伸ばした手は、焦燥を滲ませた拒絶に制止される。

「……私どもも、命が惜しいのです」

 狩人に狙われた女鹿さながらの怯えでもってグィドバールを跳ね除けるのは、彼女だけではなかった。

 王太子に抱かれると、国王に口にするのもはばかる罰を下され処刑される。

 宮殿どころか城下にすら流れた風聞の出所は分からないが、ただ一つ明白な事実がある。

 グィドバールは妻以外の女に触れることすらできなくなった。しかし妻は未だにはならず、またグィドバールはあの幼女・・の裸体を想像するだけでたちまち萎えてしまう。

 ――皇女が女になるより先に、父上が崩御してくれれば。

 礼拝堂には通わずとも熱心に祈りを捧げた子羊に、神は冷淡だった。

 幼い妻は生まれ落ちて十四回目の春と共に成熟の徴を迎えた。永遠に続いてくれればと願った初潮もあえなく終わり、グィドバールは女になった妻の寝所に鈍重な足を向けざるをえなくなる。 

 部屋の大部分を占めているかのように錯覚してしまう寝台には、折れんばかりに細い肢体のなだらかな曲線を露わに透かす紗の寝衣を纏った少女の麗姿があった。

 夜すら色褪せる黒髪を真白の敷布に散らす少女は、女神と見紛うまでに美しい。鮮血のごとき紅い唇に猿轡を噛ませられ、手首は絹の紐でくくられ拘束され、すらと伸びた脚を大きく開かされ、ほころびかけた蕾を曝け出されていなければ、神々しいまでだっただろう。

 眦が裂けんばかりに瞠られた一対の翠緑玉は、未知への怯えによって潤んでいた。とめどなく滴る水晶の粒は、世に二つとない貴石を一層煌めかせる。

「始めよ」

 一欠けらの慈悲すらも窺わせぬ冷徹でもって下された簡潔な命の意図を、千々に乱れる脳は計りかねた。

 この少女と、などと父は本気で言っているのだろうか。魂が凍るまでに美しいがグィドバールの情動を一切刺激せぬ、よくできた彫像を穢すなどできるはずがないのに。

 ザーナリアンよりかは、この宮の下働きとして数多たむろする老婆を相手にする方がまだましだ。

 迸る真意を激情のままに叫び出したくとも、放たれる威圧に縛められた舌は持ち主の意志には従わなかった。

「できぬ、などとの戯言は受け付けぬぞ。今宵のためにわざわざあれに似た女を探し出し、作法を教授させたのだからな」

 冷笑に押された背はぐらりと傾ぎ、寝台の上の少女に覆いかぶさる。なだらかな胸元に実る果実もまた整っていて美しいのだが、いかんせん小ぶりにすぎ欲望は縮こまるばかりだった。

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