愚者 Ⅴ

 処女雪に覆われたなだらかな丘はほとんど平地と変わりなく、夜気に晒され大理石同然に冷え切っていた。慎ましいが崇高な美を描く曲線をなぞっても、己の下で震える少女は彫像のまま。初めて味わった女に教えられ、その後の女たちに試みてきた手管を用いても、石は解せない。

 あらかじめ用意されていた香油を、拘束され大きく開かされた細い脚の付け根に垂らす。

 胎内に異物が侵入する違和感と痛みに耐えかねたのか、熱病に罹患したかのごとく身を震わせる皇女の翠緑玉の双眸は恐怖と激怒で燃えていた。

 ――蛮族たる身を弁えず、皇女たるわたくしを穢すなど。

 もしも妻の精神が順当に発育していたならば、彼女は自分このような侮蔑を叩きつけていたのだろう。いつも彼女の隣に付き従う女官そっくりの、高雅だが尊大な口調で、グィドバールを嘲っていたはずだ。

 そういえば、あの女はどこにいるのだろう。主の初夜の寝室に、忠誠と銘打たれた刃で人々を威圧する女官の影すらも射さぬのは不自然だ。アマルティナならば、皇女が不要な痛みをも強いられてはならぬと意気込み、たとえ制止されてもこの部屋に乗り込んできそうなものなのだが。

 一刻も早くこの苦痛から逃れるべく叱咤しても、兆す様子は一向にない。父に失望されかねぬ醜態からのしばしの逃避は、たちまち拭い去りがたい疑念となって脳裏を埋め尽くす。己が息遣いのみが滑稽なまでに響き渡る室内には、焦燥に突き動かされていてもなお卑賎に落ちず、優雅な足取りが近づいていた。

「退け、下賤が!」

 グィドバールも聞きなれた一喝に気圧されてか、王太子とその妃の閨を守っていた衛兵が左右に退く。そして飛び込んできたのは、双眸に荒れ狂う冬の海を宿した女だった。

 普段は品よく纏め上げられた波打つ黒髪は解れ乱れ、長い裳裾から僅かに覗く足元の片方はむき出しになり、割れた爪からは血が滲んでさえいる。触れれば折れてしまうのではないか、と見る者を危惧させる嫋やかな両の手首は生々しい蛇に締め付けられていた。

 数多の擦過傷の桃色と打撲らしき蒼。ただそれだけでも直視しがたい腕をより一層凄まじいものにしているのは、糜爛し透明な汁と血潮を滲ませた火傷だった。

 並みの女より丈高くはあるが華奢なアマルティナが、なぜ甚だしいものであろう激痛にその面を歪めもせず、平然と薄い胸を逸らせられていられるのか。

 衝撃のあまり、優美な四肢をばたつかせて抵抗する少女から身を離すと、更なる驚愕が淡青の双眸に飛び込んできた。

「貴様!」

 生まれ持った身分はどうあれ、国亡き現在は一介の女官に過ぎぬはずの女が、父に、国王に掴みかかっている。

「此度の殿下への無礼、どのように贖うのだ? たとえ平伏し世界そのものを殿下に差し出そうとも、決して赦されるものではないぞ」

 実子であるグィドバールでさえ、父の眼前に立つとこみ上げる畏れに促され、膝を折らずにはいられないのに。男に従属すべき者として神に創造された存在が、この国では最も神に近しいであろう男の襟首を掴んでいる。その光景の異様に圧倒されたのはグィドバールばかりではなく、王の身を守る任を追う衛兵すらも、揺らめく炎に浮かびあがる女に魅入っていた。

「縄を燈火の炎で焼き切り、抜け出したのか」

 激高と悲嘆に研磨され眩いばかりとなった青玉の光に惑わされぬただ独りの男の、おびただしい血と涙に塗れた指先が無残に爛れた皮膚をなぞる。拷問に等しいであろう行為が齎す刺激は堪えきれなかったのか、女は整った眉を顰めつつも己を嬲る男に挑んでいた。

「わたくしでは、ならぬのか……?」

 美しくはあるが柔らかさもぬくもりもない、グィドバールが惹かれる一切の魅力を備えぬ、凍てついた紅玉から彫り上げられたのではと常々訝しんでいた唇が、今ばかりは花弁に見えた。薄く繊細で傷つきやすい薔薇の一片に。

「殿下は御身体はともかく、御心は未だ幼い。子を生し血を繋げるのは貴き責務ではあるが、殿下がこの役目をつつがなく果たせるとはわたくしには到底思えぬ……殿下の御心はもはや戻らぬだろう。だが、」

 長い睫毛に縁どられた切れ上がった眦は、伏せられると荘厳な美を醸し出した。

「わたくしは殿下には及ばずとも高貴で美しい。そなたらに必ずや皇帝の末裔と称して恥じぬ男児を授けられる!」

 幼い主への忠誠の証としてなら、滅んだ帝国が数百年来蔑んできた蛮族の男に抱かれ、胤を付けられる屈辱をも甘んじて受けられる。

 一瞬の迷いも躊躇いもなく言い切った女は、先ほどよりもなお一層、神聖なまでに麗しい。けれども彼女が対峙するのは、女の涙ごときに融かされる冷徹ではなかった。

「そなたは皇統を継いでおらぬ。余が欲するのは気品でも美貌でもなく、血統のみだ」

 死の恐怖は崇高なる美の魅惑をも凌駕し、下された命に鞭打たれ果たすべき務めに返った衛兵は王からもがく女を引き剥がす。

「ああ、殿下。わたくしの皇女殿下……」

 鎧に身を包んだ屈強な男二人に剣を向けられてなお、女は主を救わんと腕を伸ばしていた。梔子の花を思わせる優美な指が視界に入ると、皇女もまた恋い慕う母に縋らんと縛められた身を捩らせ、グィドバールの下から抜け出さんとする。だがこの場の全てを支配する王は、女たちの苦しみや息子の懊悩を知悉してなお狂った芝居を止めさせはせず、新たな幕を開けと急かすばかりで。

「グィドバール」

 苛立っているのでも、憤っているのでもない、ただ命じるだけの声音が恐ろしかった。この男の意に従わねば、自分は地虫同然に無残に屠られてしまう。叔父のように、兄のように。戯れに手をつけた女と、彼女の腹に宿った最初の子のように。戦慄と終焉への恐慌によって奪われた全身の熱は、何故だか下腹部に集まった。

 父の意に応える。ただそれだけのために搾りだし、奮い立たせた気力を貝さながらに固くなに閉じた亀裂に押し当て、こじ開ける。まだ未熟な果実は突きたてられた刃の鋭さに悲鳴を上げ、破瓜の血を滴らせた。鉄錆の臭気を漂わせる紅は芳しいはずの香油と入り混じりむせ返らんばかりに甘く据え、堪えがたい嘔吐感を催させた。

 悲鳴を上げることすらも許されぬ少女が噛みしめる辛苦を代弁したのは、彼女の側に控える女官であった。

「殿下。なんておいたわしい……」

 ついに泣き崩れ、とめどない嗚咽と悲嘆を漏らす女の眼前で彼女のに精を注ぐ。それはグィドバールにとっては祖が倒した悪しき竜に挑むに匹敵する難行であり、妻の裡で萎えた己をもう一度発起させるには少なからぬ時を要した。

 技芸の神によって象牙から彫り上げられた彫刻から身を離す。淡い翳りから女となった徴を滴らせる少女の瞳は虚ろで、もはや何物をも映してしなかった。

「よくやった」

 覚えがある限り始めてかけられた父からの称賛に覚えたのは幽かな安堵。そしてあえかな希望を押しつぶし、己が手の届かぬ彼方に放り投げる絶望だった。

「これからは毎夜皇女の褥に通い、後継者を生せ」

 それから始まった責苦は、地獄で繰り広げられる悪魔の催しだった。

 太陽が顔を出せばそれが沈んだ後に訪れる刻に怯え、月が登れば夜の始まりに嘆息しながら泣き叫び助けを求める少女の四肢を押さえつけ、貫く。忌まわしい役目を放棄したくとも、背後には父より付けられた監視が控えているのだから逃避など赦されるはずもなく。

 夜ごと繰り返されるおぞましい宴に終わりの幕が垂らされたのは、妻の年若さゆえに徒花として散るばかりだろうと危惧していた徒労が実を結んだのだと判明した、春の暮れだった。

「皇女に、子が……?」

「ああ。男児であれば良いが」

 女官の腹に宿った孫は踏み潰した男は、この世で最も尊貴な少女の腹に宿った孫ならばその誕生を祝福できるらしい。

「子が生まれるまで、お前は皇女の前には姿を出すな。母親が暴れ、腹の子に万が一があっては大事だからな」

 忠告などされずとも、木彫りの玩具ならばともかく水差しや花瓶などの凶器となりうる品々を投げつけ、己を威嚇する妻の部屋に好んで足を運ぶ愚か者などいるものか。

 妻との疎ましい共寝から逃れられた王太子は、ひたすらに神に祈った。残忍なる太陽神を崇めていた時分の部族法を基として編まれた王国法典では、嫡出であっても女児の戴冠は認められていない。王位の継承が認められるのは、まず第一に正嫡の王子。その次に庶出の息子。そのまた次に控えるのが王女の夫であるが、あの父が自らの血を引かぬ男に玉座を与えるなどありえない。

 皇女の腹で育っているのが娘であれば、種馬でもあるまいに次を急かされるのだろう。さすれば、再びあの苦杯を舐めなければならなくなる。ゆえにザーナリアンが身籠った子は男児でなければならないのだ。

 老いてもなお勇猛衰えぬ王と、その虚弱な後継者の一致した望みを、今度こそ唯一神は聞き届けた。

 凍てついた大気を勇ましい産声でもって揺るがし、母の腹から這い出た赤子は偉大なる祖父より名を与えられ、父の腕に引き渡される。取り落として死なせでもしたら、と息を止めて抱いた息子は既に産湯で清められている。けれども健やかなはずの赤子は、眼裏に焼き付いた困苦であるかのようにグィドバールを苛めた。

 己が目の前で息絶えた兄が、戯れに愛でた女官とその腹から抉り出された胎児が、幼い妻が床で流した血の塊。それこそがエルゼイアルと名付けられた息子であり、母親に似ていると誰しもが称賛する容貌は直視に耐えなかった。

 息子の出生から程なくして父はついに身罷り、グィドバールが単独にして三代目の支配者として立つ。御幸としてかつての大帝国に赴いた際、無聊な旅のせめてもの慰めとして差し出されたのは賤民として蔑まれる女だった。

 美貌は妃どころか妃の女官にすら及ばず、人徳や気品では叔母に遙か劣る、豊満な肉体と閨での手管のみが抜きんでた賤民の女。彼女を妾として宮殿に連れ帰った理由は判然としている。

 誰でも良いから、全てにおいて己より下位に属する者を側に置きたかった。グィドバールがタリーヒに真に求めた安寧は淫楽ではなかったが、夜を共にすれば子はできる。母体ごと密やかに始末することも容易であった庶子の誕生を許可するに至った経緯もまた分かり切っていた。

 欲しかったのだ。父は既に崩御し、グィドバールはあの厳めしい眼差しから逃れられたのだという事実の目に映る証が。しかし妾が双子の庶子を生み落としてもなお、父の威圧はグィドバールに圧し掛かる。

「父上?」

 成長した凝血は妃の面影を色濃く湛えた秀麗な面に、亡き父を彷彿とさせる残忍な冷笑を乗せて力なく卓に伏した己を蔑む。

「陛下は度重なる責務と祭の準備に追われ、お疲れのようだ。誰ぞ、居室まで陛下の伴をせよ」

 お前の頭には王冠は重すぎ、玉座は煌びやかにすぎるだろうと。普段は鞘に収められているがふとした折に振るわれる弾劾の剣は、グィドバールの心身を切り裂き癒えぬ傷を刻むのだ。

「この場は私が取り仕切りますので、どうかごゆるりと玉体を労わってくださいませ」

 叩き付けられた冷笑に潜む軽蔑に凍らされた胸を再び温かな血が巡るものにするのは、己だけでは不可能だった。

 女の柔肌に温められなければ今宵は眠れぬだろうが、グィドバールが求めるのは宮中に咲く貴き花ではなかった。この世で最も卑しむべき賤民の売女でなければ冷え切った肢体は温められない。安楽に包まれるためならば自ら足労を負ってもよい。これほどまでにあの女を欲したのは、出会った当初ですらなかった。

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