愚者 Ⅵ

 広大なる宮殿の奥深くには、華やかなりし宴の喧騒など届かぬだろう。しかししどけなく長椅子に横たわっていた女は、細やかだが確かな物音を捉えた。成人した男の掌からでさえ零れ落ちる乳房に添えていた手で、腿が露わになるまで捲り上げていた裳裾を直す。愛欲でぬらつく指先を舐ると、掻きだしたはずの白い濁りの青臭さが口内で噎せ返り、三日月型の眉を顰めずにはいられなかった。

 豊かな黒髪を手で梳いて嘲笑を口元に張りつければ、歓待の準備は整う。

「随分と遅かったわね」

 耳障りな扉の軋みと共に姿を現したのは、騒音など比べ物にならぬ不快であった。嵌め殺しの窓から差し込む蒼白い光は訪問者の醜貌を一層際だたせ、更におぞましいものにしている。幼児などが遭遇してしまえば、お伽噺の怪物が自分を喰らいに来たのかと粗相をしてしまいかねない有様は、彼と幾度となく顔を合わせてきたタリーヒであっても見るに耐えなかった。この怪物を瞳に映していると全身が、魂までもが穢れてしまいそうで。

「色々と、支度をしなければならなかったのですよ。それはあなたもお分かりでしょう?」

 弛んだ皮膚に吸い付いた二匹の蛭が捻じれると、寝衣に包まれた背に悪寒が奔っる。ドニの屋敷の賓客として過ごしてきた六年は、タリーヒを彼に順応させてはくれなかった。そもそも、この容貌に適応し、受け入れることができる女など居るはずがないのだが。

 ――あの怪物を寝るなんて考えられないわよね。だって、あれに触れられるよりかは、物乞いにでもなったほうがまだましじゃない。

 タリーヒに聞かせようとしてか、不自然な声量で捲し立てていた女官は既に喉を潰し宮中から放逐しているが、腹立たしさは未だ消え去らない。

 婚礼の日の前日に婚約者に自死されて以来、女の陰すらも寄せ付けず独り身であり続けた侯爵。領地と位を受け継ぐべき親類縁者も既に亡い彼の後継者として送り込まれたのが庶出の王子ヴィードであり、その母タリーヒは実質上の侯爵夫人として王より下げ渡された。質素な褐色ではなく煌びやかな羽毛を纏い宮廷で囀る雀たち全てが共有する流言は、虚実であろうと既に事実・・となっていて覆らないのだ。屈辱を糧とした激怒を煽り大きくする風説の蔓延を防ぎうる唯一の人物である国王が、それを暗黙の裡に認めてしまっているのだから、決して。

 ドニの趣向の罪深さを把握する者はタリーヒが託っているであろう孤閨を嗤い、そうでない者はあれは保身のために怪物に抱かれた女だとやはり嗤う。名目上の夫を除いては来客など絶えてない宮まで伝播する嘲りの種を絶やすには、タリーヒは今一度、前夫・・の閨に招かれる必要があった。

 屋敷に仕える下男や出入りする商人たちの、荒々しくも巧みな奉仕に親しんできた肢体は王の緩慢な愛撫では満たされなかった。上に乗って搾り取った精が放たれ、用は済んだとばかりの男が退出するや否や、自らを慰めずにはいられなかったほどに。

「どうです? 六年ぶりの一夜は?」

 片方の薄い、あるかなしかの眉がつり上げられる。形に成された揶揄はたまらなく不愉快で、こみ上げる侮蔑を激情が赴くままに吐き捨てずにはいられなかった。

「愛しの王子様のためならば、気にくわない女の御機嫌伺にも参上する。……結構な献身ぶりねえ」

 逆恨みか反感かは定かでないが、この男は生まれたばかりの赤子に始まり半ば棺桶に身を横たえた老女に終わる、ありとあらゆる女を嫌悪している。

 この唾棄し足蹴にすべき奇怪な容貌を許容するなど、聖女であっても成し遂げられぬ苦行なのだ。彼を産んだがゆえに夫に疎まれついに塔から身投げした母親や、神が定めた掟を破れば永遠の責苦を受けると承知で首を括った娘同様に。

 怪物がかつて想い人でも拵え手酷く拒絶されていたのだとしたら。それゆえに女を忌避し神が禁じた情欲に奔ったのだとしたら、これに勝る喜劇は神でさえも生み出せぬであろう。

 従順に飼い主の手に鼻を擦りつける家畜は愛らしいと評せるだろう。だが、主の褥に潜り込まんとする豚がいるとしたら。それはもはや鞭打って駆逐すべき変化へんげであり指さして蔑むべき道化である。

「わたくしは端から招かれてもいなかったけれど、お前には声がかかったのでしょう? 愛しい王子さまのための宴は楽しかった? どんな趣向を凝らされた料理が皆の舌を愉しませ、どんな催しに歓声を上げたのか、わたくしにも教えていただきたいものだわ」

 分不相応にも人間に恋い焦がれる獣に実体のない刃を振るい、矜持という名の無益にため込まれた脂肪を斬りおとすのは快い。

「残念ながら、私は殿下のための宴には出席しませんでしたので」

「あら、そう。それはどうして?」

 濃い睫毛に飾られた双眸に宿る加虐は地獄で燃える紅蓮であり、それはつまり容易には消し止められぬ劫火だった。

「分かりませぬか?」

 さあ、もうお止めくださいと懇願しなさい。わたくしの足元に跪き、わたくしの足を恭しく捧げ持ち、接吻するのなら、一欠けらの容赦ぐらいは垂れてあげる。

 やがて訪れるであろう喜悦に頬を緩ませる女は、対峙する男の面が湛えた哀れみに唇を噛みしめる。

「貴女様のその、男を誘惑し咥えこむための手管しか詰まっていない頭では無理からぬことではありますが」

 ただでさえ醜悪な造作は軽蔑によって歪むと、魔除けのための怪物の像そのものになる。

「もっとも、貴女様の侍女・・のような空漠よりかは、堕落した技術でであっても満たされているのなら幾分か救われるのでしょうがね」

 この世の全ての女を嫌悪するこの男が、最も激しい憎悪を募らせるのはタリーヒではなかった。半分ながら同じ血を有するというだけで、生まれ持った特質のみで、彼の想い人に死してなお・・・・・想われるダーシア。王太子の異母妹にして己の愚かな娘こそが彼の最大の恋敵であり、彼が排除したくともし切れぬ最大の障害であった。

「殿下は御姿は神と見紛うまでに麗しく、まだ武勇にも優れた英明なお世継ぎでいらっしゃいますが……ただ一つ女性を選ぶ審美眼だけは神より与えられなかったようですな」

「何言ってるのよ。あれはただのどうしようもない女好きで、好みの女に片っ端から手を付けては捨てているだけじゃない。父親とまるっきり同じか、それ以上に酷いわ」

 あの王太子はなまじ見目が類なく優れているから、内側のおぞましさが見えなくなってしまうのだ。

「だって、腹違いとはいえ妹に手を出すのよ? お前が崇拝している王子さまは」

 十一歳の妹と――娘が散歩・・を習慣にし出した時期から察するに、あるいはそれ以前から――淫楽に耽る王太子なぞ、廃嫡され国を追われても致し方ない。だのに共に禁断の実を齧った娘――女ばかりが咎を糾弾されるとは。世界が創造され最初の夫婦が楽園から追われて以来からの決まり事とはいえ、公平とは断ぜられない。もっとも、あの娘は処罰を受けるに相応しい愚か者であるが。

 色艶の悪い、腐った豚の血の色をした軟体が引き結ばれる。薄い、頭頂はほとんど禿げあがったくすんだ薄茶の頭髪がかかる耳元に湿った息を吹きかけると、肥満した四肢は嫌悪に慄いた。

「だから迷いを覚ましてあげるんでしょう? 女なんか誰も、お前以外のどんな人間も近づけない所に閉じ込めてしまえば、いつかは靡いてくださるかもしれないものね」

 少年に過ぎなかった王太子への恋情を、に似た色彩を纏う一夜の花で分かりやすく紛らせていた侯爵の耳元で、六年前にも囁いた誘惑だった。

 娘の失態が引き寄せたただ一つの幸運であり、たった独りの協力者。彼との間に亀裂が入っても、たちどころに埋めてしまえば断絶には至らないのだ。

「あれは? お前のことだから既に準備は済んでいるのでしょう?」

 引き締まった筋肉ではなくぶよついた脂肪で厚い胸元を弄ると、不意に体温を啜って生温かな金属が指先を掠めた。

「どうぞ、愛妾殿。貴女様のそのお美しい肢体を飾るにはあまりに粗末な品ですが、この哀れな男の献身の徴を受け取ってくださいませ」

 一切の感情の籠らぬ戯れは決まりきったがゆえに陳腐に堕した文句であり、傾聴するには値しない。

「つれないものですなあ。私の一世一代の告白に、頬を赤らめもしてくれぬとは」

 ――お前が本当に愛を囁きたいのは、わたくしではないでしょう。

 ふと脳裏に生じたのは明白であるがゆえに皮肉にもならぬ嘲りはそのままに、探し求めた硬さを引き出す。

 真鍮の上で羽ばたく小鳥の黄金の羽毛は、白銀の月に照らされどこか冷ややかな光を放っていた。タリーヒの掌ほどの大きさの小箱は、首飾りの寝床とするには不自然な高さがある。しかしその違和感は、季節外れの花を路傍に見出したのと同程度の、通り過ぎればたちまち忘却してしまえる細やかなものだった。これならば、中に指輪をも収めているとでも嘯けば、女官たちは深く詮索はしないだろう。

 此度の策を、タリーヒとドニの願望を現実にするにあたって、まず乗り越えなければならない難所は乗り越えられたのだ。女官たちは王都の広場で首を刎ねられた娘の二の舞となっては、と仮初の主の宝飾品を手入れするどころか触れようともしなくなったのだから。

 駒鳥を融かした金で覆い、魔術でもって縮めたのかと魅入ってしまうまでに生き生きとした、一対の把手に爪をかける。覆いは音もなく外され、豪奢な床で眠る宝石はついにその姿を星芒の下に曝け出した。円かな月は厚い雲の面紗に隠れてしまい、華奢な鎖を飾る緑の深みは見極められない。けれども、高価であろうその石の輝きが、ザーナリアンの瞳には敵わぬことだけは陽光に透かして確かめずとも明らかだった。

 あるいはこれは貴石の真似をした色硝子で、ドニは内心でタリーヒを嘲っているのかもしれない。だが今宵ばかりは、自らの美貌に贈られた品の素性の如何など細事であった。 

 偽りの底を外し、真の底面を暴く。静謐に臥す小壜を取り出し傾けると、内側に閉じ込められた何かがとろりと流れた。線が崩れ始めた肢体の奥からも、甘酸っぱい蜜が滴って。

 自らが傷つくばかりだとは承知していても、掌中の煌めきを硬く握りしめずにはいられなかった。

 あの一切の穢れを跳ね除ける処女神めいた女は、既に成人した息子の母親なのだ。大理石さながらに白く滑らかだった頬は染みや皺で汚れているだろう。触れれば折れんばかりにか細かった四肢には無様な肉が付いているだろう。黒絹の髪には幾ばくかの白が混じっていても不自然ではなく、凋落した美の虚像を貶める悦楽は男との共寝をも自涜をも凌駕した。

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