嬌笑 Ⅰ
仄かに漂う乳と蜜の甘みには、薔薇の芳香が混ざってすらいた。幾つもの陶器片を組み合わせ、小鳥や魚、はたまた神話の怪物が素朴ながらも精緻に描かれた
水分を吸い込み一層黒く艶やかになった髪は常よりも重くなっていた。背や頬に張り付いた毛の束を布を用いて纏め上げ、女官たちが不満と怒りに眉を顰めながらも運び込んだ湯に手足を沈める。
気まぐれに手に取った、ともすれば掌から抜け出してしまいそうな丸みを帯びた白い四角形は、かつてのダーシアが最も慣れ親しんでいた物の一つだった。幼少期は女官たちが、長じてからは己が握り褐色の肌を擦っていた海綿も。
髪を梳く櫛。肌を清め整えるための石鹸と海綿。そして香油。恋い慕う異母兄を除く全ての人間の目から隠して然るべき裸体を覆う衣服。エルゼイアルをダーシアの狭隘たる世界を照らし支える太陽とすれば、それらは暗く彩に乏しい世界を華やがせる花々だった。
六年前に唯一神の許に旅立ったとされた王の娘の日常は、異母兄によって成り立っていた。兄を想いながら眠り、兄と逢瀬を交わすために目覚める。彼から女としての成長を刻みつつある胸を疼かせる言葉を引き出すために身支度を整え、着物を選び……。
蒸気に潤んだ紅唇からくぐもった悲嘆が漏れる。立てた両膝の間に額を埋めると、生温かな雫が凪いだ水面に波紋を広げた。既に数日前に宮殿から発った王太子は、今頃は国境を目指して馬を駆っているはず。あるいは、既に到着し、異民族と刃を交えているかもしれない。
純金の髪と白い肌は舞い上がる砂塵に塗れてもなお輝かしいだろうが、ダーシアは自らの身でもってエルゼイアルの疲労を慰撫したかった。少年であった時分から既にしなやかに引き締まっていた背にしなだれかかって乳房を押し当てれば、兄はきっと喜んでくれるだろう。湯に浮かぶふくらみの大きさはとうに林檎を凌駕してしまっている。母のそれよりも豊かになった胸は、天井を向いて横たわれば呼吸を妨げ、立ち上がれば足元をおぼつかなくさせて煩わしいばかり。けれども兄に触れられれば羽毛よりも軽く感じられるはずなのに。
「お前はいつもよくあの子の世話をしてくれているわ。でも、流石に少し疲れたでしょう?」
二夜に渡って国王と夜を共にした女は、気だるげながらも勝者の奢りを滲ませた声で跪く女たちに命ずる。
「さあ、早く入浴の支度をなさい。石鹸も香油も、わたくしが使用しているのと同じものを準備するのよ」
国王の情けを受けた愛妾やその子ならばまだしも、何らの地位も持たぬ賤民の安楽のために動かねばならなかった貴賓の娘たちの裡に植え付けられた憎悪はいかほどか。きっと、魔女の大鍋を満たす猛毒さながらに煮えたぎり、地獄の劫火のごとく燃え盛っていただろう。
幾人かの女官の剣呑な眼差しは厚い面紗をも貫きダーシアを糾弾する。堪らず俯いて口元を噛みしめた娘が拾い上げたのは、高く澄んだ嘲笑だった。
「これはこれは女官の皆さん。揃いも揃って顔を引き攣らせて、元から不細工な顔を凄まじく不細工にしちゃって。まるで見世物の猿みたい」
炎に油を注ぎ天を衝くまでにした少年の、亜麻色の巻き毛に縁どられた面は聖堂の柱に彫り込まれた天使そのものであるのに、吐き捨てる侮蔑は悪魔に近しい。
「ああ、シュゼシス。持ってきてくれたのね」
退屈を嘆く息子の話し相手の訪れに、頬に喜色を滲ませた女は、己より背が低い少年の耳元で何事かを囁く。
「ありがとう。あの子もきっと喜ぶわ」
細く白い手が抱える荷物は濃い色の布に包まれていて、目を凝らしても中身は判ぜられないが、察することはできる。シュゼシスはヴィードの話し相手を務める合間、王子に献上するという名目で持ち込んだ書物で無聊を慰めていたから。ダーシアは己では判読できぬ文を楽しげに読み解く少年の、思いだしたように浴びせられる視線をやり過ごしながら、兄との夢想に耽っていた。それこそがダーシアの現在の日常だった。
「マーリカ。王子様のお世話は僕が変わるからさ、ゆっくりしてきなよ」
菫の双眸から放たれる侮蔑の眼差しの辛辣さを知悉する娘は、投げかけられた朗らかな笑みに反射的な警戒を覚え背を強張らせる。
「これからきっとタリーヒ様の許に陛下が渡られる機会は触れる。そうすれば、君の姿が陛下の目に留まることもきっと出てくるだろう。その、顔は仕方ないけれど、陛下の御前に出るのに美しくない恰好をしているなんて、許されざる無礼なんだよ」
「そういうことよ、マーリカ。さあ、早く行ってらっしゃい」
微笑み合う少年と愛妾は、他者の目には見目どころか心根すらも美しい人間なのだと映るかもしれない。顔中を蝕む痘瘡を恥じ、自ら望んで面紗を被る卑屈な娘を慮る、聖人にも匹敵する善人なのだと。けれども彼らの本性を知るダーシアにとっては、目前の光景は夜明けが西から始まるよりも恐ろしい怪異であり天変地異であった。
兄以外の人間に穏やかに話しかけられた経験すらない自分が、一度に二人の人間に、それも母と何故だか己を執拗に敵視するドニの付き人に労われるなど。もしも六年前ならば、あるいは未だ兄が宮中にいたならば、一目散に彼の腕の中に飛び込んでいただろう。
――助けて、兄上。
喉は震えるばかりでその用をなさず、肩に置かれた手を振り払う気概など端からありはしなかった。
「ほら、準備が終わったみたいよ、マーリカ」
柔らかに取り繕われた声音に肌が粟立つが、下された命に従わねば後に待ち受けているのは耐えがたい暴力である。鉛と化した両脚を愛妾の間の外れまで引きずるだけでも、一部屋に軟禁される日々を託つ娘の心臓は慌ただしく脈打つ。それでも憶えのある浴室に辿りついた頃にこみ上げたのは、紛れもない郷愁であった。しかし一瞬の懐かしさは、揺らめく靄よりも儚く消え去るばかりで。
花の香気に包まれながら温かな湯に浸かれば、凝り固まった緊張と身体の芯はいささか解れもする。しかしやはり、己が真に欲しているのはただ一人のぬくもりだけ。彼に舐られもしない肌を磨き上げても、奥底に溜るのは暗澹とした虚無のみ。己の掌と海綿はいずれも柔らかく、剣胼胝によって固い掌の代わりにはなりはしないのだ。
張りのある漆黒に指を通し、
しばらくは、髪が乾くまではここにいよう。
誰に示すでもなく一人頷いた娘は、よく伸びた脚を投げ出し、在りし日の楽園に還った。紅薔薇に見守られながら春の庭園で佇む少年の側へ。誰よりも愛おしい兄の腕の中へ。
「ダーシア」
類なく麗しい貌に湛えられた怜悧が緩む。整った薄い唇から這い出た桃色が少女の肉厚のそれを割り、二匹の蛇がまぐわう。幸福と恍惚に酔いしれた脳内は次第に濃密に立ち込める煙に支配され……。
「ダーシア!」
いつしか底面に四肢を投げ出していた娘の肩に爪を食い込ませ、揺さぶるのは彼女が焦がれる異母兄ではなかった。ぼやけた視界に映るのは、美しくはあるが兄には到底及ばぬ少年の焦燥に歪められた小さな顔であり、落胆の吐息を吐く気力すら湧き起こらない。
「昼食の時間になっても戻ってこなかったから来てみたけど、服を着たままのぼせてるなんて、馬鹿にもほどがあるでしょ」
呆れ果てたと言わんばかりに小さな口を尖らせる少年は、愛らしいはずのその片方の端を吊り上げた。
「君のご主人様が、君に話があるんだってよ。今すぐ行かなきゃ後が怖いんじゃない?」
悪戯っぽい揶揄に促され、どこか澱んだ空気が蔓延する母の部屋まで鈍重な脚を動かす。
「随分とさっぱりしたわね。これなら陛下の目に入っても何一つ恥じることないわ」
母は満足げに頷き、手招きしてダーシアを引き寄せた。陸に打ち上げられた魚となってぱくぱくと口を開閉する娘に自らの衣服を押し当てる女は、嫋やかな指を滑らかな頬に添え首を傾げる。
「わたくしもそうだけれど、お前の肌には淡い色はあまり合わないわ。はっきりした、鮮やかなのがいいわね」
今度こそ母の意図どころか、自分が正気かすらも分からなくなった。ダーシアの耳が突然の不調に見舞われたか、母が精神に変調を来したとしなければ、この異常は受け入れられない。
「……あの、」
「ああ、そうだわ。あれがいいわ」
ダーシアに何も発せさせまいとしてか。母は芝居がかってすらいる大仰な素振りで手を叩き、部屋の片隅に控えていた少年に大輪の華の笑みを向けた。
「お前が持ってきてくれた包みに、黒い糸で花模様が織り込まれた真紅の長衣と、揃いの面紗があったでしょう? 飾り帯は――深緑がいいわね」
「承知しました、愛妾殿」
彼がタリーヒと相対すればいつも吐き出す皮肉は一体どこに行ってしまったのか。従順にタリーヒの意を汲み取り従ったシュゼシスはまるで別人だった。
木霊していた少年の軽やかな足音すら消え去った室内。見つめ合う二人の女の容姿は酷似している。背丈も顔つきもほとんど同じであるが、くっきりと妖艶な面に乗せられた表情はどこまでも対照的で。
「今宵、また陛下が御渡りになるわ。お前はその時、持て成しの手伝いをするのよ」
獲物を見据えた豹の残忍なるぎらつきがちらつく眼は、氷じみていて冷ややかで、娘の肢体に湯冷めではない戦慄が奔る。後ずさった背にぶつかるのは壁であり、つまりは行きどまりであった。
ぎしり、と不快な軋みが暗闇に呑まれる意識を掻き乱す。白い手から褐色の手に渡され、母が娘に被せた衣は不吉なまでに紅かった。脈打つ心臓から迸る鮮血に浸されたかのように。
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