嬌笑 Ⅱ
褥に横たわった男の口に覆いかぶさったのは、ほころんだばかりの大輪ではありえぬ、凋落寸前か地に堕ち踏みしめられぐずぐずに萎れた花弁であった。鼻腔に舞い込む体臭は、裸の胸をくすぐる長い髪の主が何者であるかをグィドバールに教える。僅かばかりの空隙をしなやかに押し広げ、虚ろに忍び込むのは蛇だけではなかった。
乾いた口腔を潤す馥郁たる葡萄の芳香に入り混じる酒精は脳髄にまで届く。
「美味しゅうございましたか、陛下?」
眠りに圧し掛かられ重い目蓋をどうにかこじ開ければ、褐色の美貌に婀娜な笑みを咲かせ、匂い立たんばかりに魅惑的な肢体を薄物で隠した女の艶姿が飛び込んできて。
「こうしてわたくしの許に訪れて下さるのはとても光栄なのですけれど……“約束”を放りだしてお眠りになってしまうなんて、ひどうございますわ」
拗ねたような口ぶりとは裏腹に、未だ微睡みから覚め切らぬ王の頤を撫でる長い指の動きはあまりにも蠱惑的で。タリーヒの「約束」が何を指すかは判然としない不可解さを霧消させたのは、酒気によるものだけではなかっただろう。
「……覚えておられませんの? わたくし、謁見の際に申し上げたではございませんか。とっておきの葡萄酒を用意し、陛下と共に賞味する日を楽しみにしている、と」
よくよく記憶の澱を洗いだせば、そのような文句も拾いあげられるやも知れぬ。だが、路傍の石のために溝に飛び込む愚か者などいるものか。女の肉厚の唇を男への不満で尖らせるのは、王にとっては何らの価値もない、受け取った途端に街路に放り投げても痛痒も感じぬ程度の誘いであった。時折耳に飛び込む
「……そうか。そうであったな。無論私とてそなたのもてなしを味わう夜を心待ちにしていたのだが、ここの所別の愉しみにばかり専念してしまっていたのだ。すまなかったな」
「ならば、今宵は夜が更けるまでわたくしの部屋にいてくださいませ」
既にことは済んだというに己の上に圧し掛かったままの肉が重苦しい。妻でも、ましてルオーゼ人でもない賤民でありながら、王たる己に
だらりと萎えたはずの欲望にもう一度鎌首を擡げさせたのは、それぞれが個別の生き物であるかのごとく蠢く五本の指だった。女の手と男の局部の体温を啜り温もった薔薇の香気は一層芳しく澱んだ空気に立ち込める。
「陛下」
屹立した内臓を握り締める掌は滑らかだった。最上の絹布の肌に包まれていると、もはや決して還れぬはずの過去が舞い戻ってくる。成人し、立太子されてからは閨を除いては憩うことすら許されなくなった原初の安らぎ。嫋やかで温かな腕は、我が身を襲った悲劇と、亡き恋人との思い出に殉ずるばかりの母のものではありえなかった。
「グィドバール」
疲弊した心身に染み入る甘い、けれどもどこか清冽な清水の声が寝台に身を沈めた己を呼ぶ。汗ばんだ額と火照った頬を撫でる。自ら調合した薬湯を一匙一匙、熱に浮かされる口に運んでくれた叔母は、彼女の献身が実を結びグィドバールの病が癒えれば、よく頑張ったわねと抱きしめてくれた。
また叔母上にこうして貰えるのなら、もう一度病にかかっても構わない。
押し付けられる乳房の柔らかさに胸を高鳴らせた幼子の心情など、神に貞潔を誓った彼女には分からなかっただろう。しかし幼き日のグィドバールにとっては叔母の腕の中こそが完全であり、言い換えれば世界そのものですらあった。畏怖と憧憬の象徴たる男と同じ血を有する証たる色彩を宿した女は、父の倒立した鏡像でもあったのだ。
厳めしいがゆえに威厳溢るる面立ちの父と、叔母の柔和な造作はかけ離れている。成人した男の半分にも匹敵する重量の甲冑を纏ってもなお苦も無く剣を振るう大柄な体躯と、小柄でありながら豊満な体つきもまた同じだ。それらが内包する魂もまた、冷酷と慈愛の両極端に隔てられているのに、グィドバールの目は難なく父と叔母の共通点を探し出した。
『だいぶ熱が下がってきたみたいね』
『随分と顔色が良くなった』
口元に刻まれる笑みの形はもちろん、叔母は手酷い悪戯をしでかした兄を、父は戦地において失態を犯した家臣を叱責する際の両者の眉の顰め方など、瓜二つですらあって。ゆえにグィドバールは一心に叔母を慕ったのだ。実際の父には恐れに妨げられ近づこうにも近づけない。だが鏡の中の父ならば心が赴くままに触れ合っても罰せられはしまい。
「……」
誰をを求め、呼んだのかは自分自身ですら定かではない。天井を向いた剣がいつの間に肉の鞘に収められたのかも。自らに跨り、腰を振る女が何者かすら。
蕩けた脳内では万年雪さながらに凝り固まった過去すらも蕩けて現実と入り混じる。
もしも、この女が叔母だったら。
聖なる者を穢し、唯一神に唾するに等しい大罪のおぞましさに萎みかけた劣情は、齎される快楽に叱咤されるばかりで。
嘔吐し、悪夢で魘されることになると承知していてもなお、罪人の頸を見分せずにはいられない好奇心は退けがたい。こじ開けた双眸に飛び込んできたのは叔母ではありえぬ女の狂態であり、グィドバールが貫いても罪とされぬ女の肉体であった。
細い喉から迸る嬌声は獲物の喉元に牙を食い込ませた女豹の遠吠えであり、勇ましい響きを男を怯えさせると同時に奮い立たせる。
一際低い、男じみてすらいる咆哮が夜闇を切り裂く。収縮する洞に搾り取られた精はふくよかな腿を伝い落ち、男の腿にすら滴った。
「清めの水と布を運ばせますわ。……おいで、マーリカ」
あらかじめ用意させ、扉の外に控えさせていたのだろう。しどけなく薄物を纏ったタリーヒが手を叩くと、タリーヒと同じ黒髪に褐色の肌をした娘がいかにも重たげな盆に腕どころか全身を震わせながらも入室してきた。
数年前にドニの領地に流れ着き、同じ身の上であるタリーヒが己の侍女として迎えた娘を宮殿に伴ってくるとは事前に報告を受けていたから驚くには値しない。だが王はしばし瞠目し、綺羅びやかに着飾った彼女を見つめた。
男ならばもぎ取り己が口に運ばずにはいられない、旬の果実を連想させる曲線と僅かに覗く肌は瑞々しい。はちきれんばかりの胸元などは主のそれすらも上回る蠱惑を放っている。古の豊穣の女神と見紛わんばかりの肉体の上の顔もまた美しいのだろうに、マーリカと呼ばれた娘の顔は衣装と揃いの面紗で隠されていた。
「お気持ちは分かりますが、陛下」
グィドバールの視線の先に若い娘の身体があるのが気に入らぬのか、タリーヒは眉どころか顔全体を歪めながら呟く。
「あの娘は疱瘡を患ったために一族に捨てられたのです。若い娘の身空で、同胞に捨てられる原因となった痘瘡を人目に晒す苦痛は大変なものでしょう。まして、それがこの国で最も優れた殿方に、とあっては。ですから、どうか……」
ご容赦してくださいませ。
それが何を指すのかもまた、俄かには察せられなかった。もしやタリーヒは、グィドバールが己の侍女に手を出すとのではと危惧したのだろうか。
ひたすらに平伏する娘の肩は、彼女と対峙する己はいつのまにやら亡霊になったのかと錯覚してしまうまでに慄いている。幽かながら歯が鳴る音さえ轟いていて、流石に憐れみを催さずにはいられなかった。
「ほら、マーリカ。国王陛下の御前に出るのが初めてで、緊張してしまう気持ちもわかるけれど、いつまでもそこで呆けてばかりではいけないわ。陛下をもてなす準備を――
己が侍女の醜態を見かねてか、彼女を慮ってか。タリーヒはマーリカにグィドバールの眼前から下がる名目を与え、致し方ないと言わんばかりの溜息を吐く。
「あれは従順で大人しいのですが、その分気が弱い娘でして……。陛下に酌をさせるつもりなのですが、何らかの粗相を犯してしまうやもしれませぬ。ですが、」
「それぐらい構わぬ。酒の席での失態は酒精が見せる幻としようではないか」
「陛下は変わらずに寛大でいらっしゃいますのね」
湿った唇から飛び出してきたのは、感嘆を装った揶揄であり痛罵であった。グィドバールにはそのように感じられたが、これもまた酔いが織りなす幻影なのだろうか。ならば己は、何に酔いしれているのだろう。少なくともそれは身体と享楽を交えたばかりの女ではなかった。
当初は望んでいなかったはずなのにいつしか待ち望んでいた芳醇な香気が鼻腔に届くまでには、短いとは評しがたい時を要した。小型の甕と二つの盃を乗せた盆を捧げ持つ娘は先程よりもなおいっそう、悪い病に罹患したのかと問いかけずにはいられぬまでに戦慄していて。満たされた酒杯を受ける際に僅かに触れ合った指先は冷たく、あれは氷か死体なのだと言われればそのまま信じてしまっていただろう。
紫の果実から滴った液体は、灯火ですら駆逐できぬ薄闇を映し古びた血液さながらに黒ずんでいる。
「では、陛下」
往時は眼差し一つで男を惑わせていただろう驕慢な美の名残に促され、芳しい紅を口に含み、舌の上で転がし、嚥下する。快い熱が食道を滑り落ちた途端、胃の腑から異変がせり上がった。
王は死神の爪が喉に食い込む苦悶に耐えかね身を折り曲げる。床に叩きつけられた器から飛び散った、薔薇の一片さながらの飛沫には気づきもせずに。驚愕を浮かべた淡い青の瞳は吐き出した鮮血と同じ色彩に埋もれた黒を捉える。酌をした娘の目には、狩人と直面した女鹿の、あるいは己が犯した罪を持て余す罪人の怯えがあった。
「な……にを、飲ま、せ」
ぜいぜいと、いかにも苦しげな吐息を漏らす男は娘の腕を掴んで問いたださんと試みたが、その目的は果たされなかった。娘は矢を射られた獣のよりも素早く身を翻らせる。もがく男が手にしたのは彼女の面紗だけだったが、グィドバールは露わになった顔に見覚えがあった。
癖のない黒髪に縁どられた、肉感的な唇や垂れ下がった目元が特徴的な妖艶な面立ちは、若かりし頃のタリーヒそのもの。
一瞬、過去が舞い戻ったのかと錯覚した。けれども彼女は出会った当初のタリーヒよりも幾分か年若い。ならば、これは……。
ダーシア。
確信へと変じた疑念を発するには、王に残された生命はあまりにも少なく、血の巡りと共に全身に広がる毒はあまりにも無慈悲だった。
だらりと伸びた舌をひりつかせる鉄錆の味が、葡萄酒の後味を掻き消す。手足は先程の娘の怯懦に乗り移られたかのごとく痙攣し、今一度せり上がった苦痛はついに王の息を止めた。
王は口の端を歪め微笑む女の靴底の硬さを背で、肩で、顔面で味わいながら絶命した。娘は最後まで父の死から目を逸らしていた。
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