嬌笑 Ⅲ

「いつまでそうやって目を閉じているつもりなの?」

 女にしては低いがゆえに艶めいた声が謡うように形にしたのは確かな嘲りであった。

 縫い付けられたのかと錯覚してしまうまでに重い目蓋を持ち上げなければ、今度降ってくるのは嘲笑ではなく殴打や跟だ。激高した母に髪を掴まれ押し倒され、頭や顔や胸や腹を――全身を踏みにじられる痛みは既に幾度か味わわされていて、それゆえに蹲る娘が抱える恐怖を増幅させる。

 自分自身すら意味を解さぬままに紡いだ懇願と服従の文句は、暴風雨を宥める呪文にはなりはしない。ダーシアは母の怒りが治まるまで石像となって全てに耐えるしかないのだ。

 いっそ本物の石であれば苦痛を感じもしなかっただろう。でも、それでは兄と触れ合う喜びも感じられない。黒髪を振り乱す母に頬を打擲されるたびに何度も反復してきた希求は、常に渇望に変じるのだと決まっていた。

「……あに、うえ」

 助けて。私をここから――母上がいる地獄から連れ出して、あなたの隣の楽園に連れて行って。

 父の生命の根を枯らした毒に蝕まれたわけでもあるまいに痺れた舌は主の意を跳ね除け、発せられなかった哀訴はただ虚に融け消えるばかり。

「あにうえ。あにうえ。……あにうえ!」

 小虫の羽ばたきめいた懇願に応え、黒曜石を曇らせる露を掬い舐め取る舌と指は、六年前の冬の日に奪われてしまっている。

 死人同然に蒼ざめた褐色の美貌を覆うのは父の血に塗れた、父の息を絶やした穢れた手であり、その奥に隠れた双眸には己が犯した罪が焼き付いてしまっていた。灯された炎は焼き鏝を熱する劫火でもあり、葡萄酒と血の二種類の紅に彩られた断末魔は魂にすら烙印され忸怩たる激痛を齎す。

 こみ上げる悔恨は、優美な刺繍が施された布靴の爪先に頬を抉られる亡骸に手向けられたものではなかった。己が犯す罪業の醜悪さをダーシア自身の双眸からも隠し通してくれるはずだった面紗を掴み、剥ぎ取った男の苦悶に歪んだ造作は、整ってはいるが兄の秀麗の足元にも及ばない。けれども、その面を縁どる毛髪の金色だけは似通っていて。

 ダーシアは決して拭いきれぬ汚濁をエルゼイアルのものである肉体に塗りつけたのだ。兄と自分の父である男を弑逆すること。それは兄に刃を向け、兄の身を損ねることと同義でもある。

 ――私は、兄上の半分を殺してしまった。

 空っぽの胃の腑を蠕動させ、食道を妬き、乾ききった口内をひりつかせる酸とともに、このおぞましい咎が己から流れ出てしまえばいいのに。

 身を折り曲げて嘔吐する娘は、切れ切れに喘ぎながらも、頑なに己を取り巻く世界から逃避し続けた。

 目を開け違えようのない現実を認めてしまえば、真っ先に父に糾弾されるに決まっている。己の殺人者たる娘への怨嗟を燃え上がらせる亡霊に腕を掴まれ、神が定めた則に背いた咎人が永劫の裁きを受ける地の底まで牽かれてしまい、もう二度と兄に会えなくなるのではないか。

 充満する鉄錆と酒精の臭気と蜜蝋と香油の薫りは、ない交ぜになって耐えがたい悪臭となる。己がいるのが地獄となった現世うつしよなのか、この世に広がる冥府なのかは判然とせず、己の肩に爪を食い込ませるのが生者なのか、はたまた人間であるかすらも分からない。彼方から轟く男も女も老いも若きも様々に入り混じった絶叫は、この奈落で生前の悪行の責苦を受ける罪人たちのものなのだ。鋼と鋼がぶつかる耳を劈かんばかりの金属の音は、亡者を苛む拷問具が奏でているのだろう。

「や、やめて……」

 男とするには柔らかく、死者とするには温かな指が、怯え震える娘の手首を掴む。ダーシアを堕ちるべき場所まで堕とすために。

 でも、そしたら兄上と会えなくなってしまう。

 最愛の異母兄との永遠の別離に喚起された狂乱は、萎え、だらしなく投げ出されていた四肢に抵抗を教えた。

「……は、はなしてください、」

 ならず者に路地裏に追い詰められ衣服を剥ぎ取られた乙女に、猟犬に囲まれた狐に、猫の爪に尻尾を挟まれた鼠に許された最後の反撃。強者にとっては微風に等しくとも、卑小なる者にとっては死に物狂いの一撃は、男にしてはぶよついた腿を掠める。

 ぐ、と漏れ出た喘ぎは澱んでいて、男のものとも女のものともつかなかった。骨が折れんばかりに嫋やかな腕を縛める手の力も。

「私だって、本当はあなたを殺したくはなかった!」

 生前は言葉を交わすこともなかった父から、解放と慈悲を引きずり出すために紡いだのは、心臓を矢で貫かれた獣の最期の咆哮の調子を帯びた告白であった。

 ダーシアがタリーヒの企みの全てを知らされたのは、辛うじて今日に留まるのか既に昨日となったのかすら曖昧な午後のこと。

『この壜の中身を注ぐだけ。それならお前にだってできるでしょう?』

 父を弑し、玉座を奪う。そのための毒は既にドニに用意させたから、後は時期を見計らって摂取させるだけ。母は華やかな花弁の影に毒を含む葉と根を潜ませた毒花の笑顔を浮かべながら、小さな壜を手渡したのだった。

 ――女官たちを使うわけにはいかないし、わたくしも同じものを飲まねば警戒されるでしょうから、お前が毒を入れた盃に葡萄酒を注いであいつに差し出しなさい。大丈夫、お前は注ぐだけ・・・・だから。

 突き付けられた反逆の恐ろしさに膝から崩れ落ちた娘の反論を封じた微笑みは、大輪の薔薇だった。不用意に近づく者を鋭く残忍な棘でもって戒めるその花は、棘があるがゆえにより一層美しい。

 兄とダーシアの逢瀬を見守ってくれていた庭園の花は、しなやかな茎に生やされた剣によって割かれた指から滴った雫を啜るがゆえに、鮮血と見紛うまでに鮮やかなのだ。あの懐かしく愛おしい花弁を糸として織り上げられたかのごとき布地は、これから流される血潮に浸されたがゆえに息を呑むまでに生々しいのだ。

 己が柔肌に刃を沈められ、握り締める衣服の染料を絞り出されたくはない。母の命に従うより他にダーシアを生に導く道などありはしないのだ。

「ほんとはやりたくなかったんです! でも、母上の言う通りにしないと、兄上を殺すと言われたから、」

 だから、私はあなたを殺した。

 ひたすらに父の亡霊に頭を垂れ、半狂乱になって泣き叫ぶ娘の、涙で汚れた頬に熱が奔る。

「いい加減に正気に戻りなさい!」

 掻き毟られた幾筋もの痕跡が伸びる喉から迸ったにしては馴染みのある罵倒に鞭打たれ、娘は慄きつつも目を開く。

「……あ。はは、うえ?」

 父の遺体は微動だにしておらず、呆れ果てたと言わんばかりの面持ちでダーシアの前に立ちはだかるのは母でしかありえなかった。

 碧き原から静謐な湾に、その後方の人の営みの結晶に押し寄せ全てを押し流して破壊するうねりにも似た恐慌が退いた頭で考えれば、あれは母だったのだと理解できる。父の亡骸は微動だにしていないのだから、脈打つ心臓だけが生み出すぬくもりを備えた肌は母のものでしかありえない。

「思った通りね。こいつがくたばっただけでこの有様。お前は本当にお父さまにそっくりだわ」

 豊満な胸の下で腕を組む女は、打ちのめされた心はいらばの鞭で、物言わぬ躯は跟でもって蹂躙しながら口の端を吊り上げる。

「だからお前はいつまで経っても愛しのお兄さまに会えないままなのよ。……まだこいつが生きている間に、どうにかこの宮から抜け出して真実を訴えていれば、曲がりなりにもこいつの娘であるお前は王を謀った罪を赦されたかもしれないのにねえ」

 獲物の喉笛に噛みついた豹の、血塗れの口元を連想させる唇から垂らされるのは掴め得たかもしれぬ幸福であったからこそ、含めば直ちに生命の源を制止させる猛毒に等しかった。

「でも王の娘であっても、その王を殺したとなれば……後は流石のお前でも分かるでしょう?」

 ダーシアが無理やりに立たされた道は、おどろに絡み合ういばらに埋め尽くされた獣道などではない。母の命が導く行きどまりなど、恐れながらも加わった企みがついに現となるまで考えようともしなかった己が愚かしさが呪わしかった。

「お前、まさか本気でこれで終わると思ってはいないでしょう?」

 我が子を慈しむ慈母。あるいは聖女を模した母の笑みは、魂から滲む侮蔑を覆い隠しきれていないがゆえにおぞましかった。

「この国の王位継承法、お前は知って……いるわけないわね。じゃあ教えてあげるわ」

 悪魔に唆され唯一神を裏切った「最初の女」の愚行が示すように、肉体どころか知恵ですらも男に劣る女は、男に従い男に守られながら子を産み育てさえすればよい。女がそれ以上を望むなど、神に唾するに等しい大罪である。

 同じ神を崇める全ての少なからぬ男が奉ずる教えは、この北方の王国では唯一神や預言者へのものと比する、とりわけ深い信仰を捧げられていた。

 ルオーゼ王国の――王国が誕生する以前の、部族国家時代から受け継がれた法典では、王の娘は例え正嫡であっても即位できない。剣を操り馬を駆って軍勢を指揮し民を守護するには脆弱な身は、温める暇すらも与えられずに外敵に玉座から引きずり落とされてしまうから。

 王位継承の際に優占されるのは常に神に祝福された男女の間に生まれた正嫡の息子。庶子が玉座が与えられるのは、正嫡の王子が生まれなかったか、あるいは死亡した場合のみ。

 明るみに出された思惑は鉄槌であり、氷となっていた肢体をばらばらに打ち砕いた。

 母は兄をも殺戮し、ヴィードを王として即位させ、自分は王母としてこの国に君臨し支配するつもりなのだ。

 兄は国王となるためにあんなに努力していたのに。退屈極まりないであろう学問に励み、技芸の神が至上の大理石から彫り上げた彫像の肉体に痛ましい傷を拵えていた少年の労苦が、母に握り潰され儚く散る徒花とされるなんて。例え神が、世界中の人間が認めてもダーシアはそれを許容できない。

「兄上だけは! お願いですか、」

 情事の気怠い痕跡が散らばる胸元を覗かせる襟を掴んだ手は乱雑に払いのけられた。鳩尾に食い込む膝と、背骨を軋ませる壁に挟まれた肢体に残された気力では、もはや立ち上がることすらできない。

 ごめんなさい、兄上。

 自らの不甲斐なさに滲む熱を吸い取ったのは、投げかけられた衣であった。匂い立つ死の匂いは娘の滑らかな肌を粟立たせる。

「……そろそろお迎えがくるから、早く支度しなくちゃいけないわ、ヴィード」

 名実を伴わぬとはいえ己の夫であった男から、生どころか衣服すらも剥ぎ取る女の笑みはどこまでも浅ましく、もはや人間のものではなかった。

 千々に乱れる脳裏は母の存在そのものを撥ねつけ、嫌悪を誘う作り物の慈愛を纏った言葉の意図は理解の範疇を越えている。だが、これ以上この部屋に、母の支配下に居てはならぬことだけは察せられた。けれども小刻みに慄く脚は未だ主の醜態を嗤っていて、これが己の一部であるとはもはや信じられなかった。

「ああ、緊張で身体が震えているのね。そうね、お前が司教様に会うのは初めてだものね」

 衰え線が崩れ始めた肉体が、若く瑞々しく豊かな曲線を暴く。胴着を、裳裾を剥ぎ取り、露わになった裸体に布を巻きつけ女を封じる。更にその上に王の装束を被せてしまえば――そこにいるのは、病弱ゆえに線は細くとも十分に麗しい王子ヴィードだった。

 ぎしり、と悲鳴を上げながら軋んだのは、項垂れる娘の心だけではなかった。厳めしい甲冑の先頭に立つ侯爵は、跪いて頭を垂れる。

「お迎えに上がりました、我が陛下」

 彼に倣って平伏した男達は、宮殿に数多侍る衛兵ではなかった。アルヴァスの領地から王都まで、野盗の剣を弾く盾となって己たち一行を囲んでいたドニの私兵は、いずれも香よりも濃密な血臭を放っている。

「大丈夫よ、ヴィード」

 渦巻く混乱ごとダーシアを押さえつけんとしてか圧し掛かる母の重みと体温に催した感情を吐き出すことは許されなかった。

「お前は重い風邪をひいていて声を出せない・・・・・・のだから、わたくしが代わりに全てを語ってあげるわ」

 背に積まれた岩塩の重みによろめく驢馬さながらに引きずられながら歩む回廊はおびただしい量の粘ついた液体で濡れていた。心身の疲労のためにふらつく肉体の均衡を崩し、躓かせるのは切断された四肢や割かれた胴からはみ出たはらわたである。

 衝撃に耐えかね、ついに途切れた意識が再び目覚めた際には、王子・・は見知らぬ門の中にいて、母の傍らで喉元に剣を突き付けられ禿頭から脂汗を滴らせた男と対峙していた。

「お前は六年前、今はもういないダーシアの後をこっそりついて行った時、恐ろしいものを見たのよね?」

 何をすればよいのかと思考することすらできず、ただひたすらに唇を噛みしめていると、甲に鈍重な一撃が見舞われた。反射的に頷いてしまうと、褒美とばかりに靴底で撫でられて。

「ダーシアとあの王子は、兄妹でありながら通じていたのです。それは、突然お亡くなりになられた・・・・・・・・・・・・陛下もご存じでした」

 唯一の救いは、間近に迫った終焉への怯えと闘う男の目に灯る懐疑の光だけ。しかし幽き燈火は、太い首から垂れた一滴によって容易く掻き消されてしまう。

「腹違いとはいえ己の妹と淫楽に耽る王子など、国王に相応しくない。どころか、無垢な羊の群れに悪徳という病を蔓延させる者は、群れから放り出さなければならない。違いありませんでしょう、司教さま?」

 まかり間違って己が首を落としてはならぬと慎重に、けれども確かに肯いた男は、やがて焦燥によって濁らされた声で宣言した。王太子エルゼイアルの破門と、彼の弟である王の庶子ヴィードの即位を。新たな御代と血を分けた兄弟・・による玉座を賭けた内乱の始まりを。

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