嬌笑 Ⅳ

 健やかな寝息を立てる女の儚い長身は豪奢な褥に埋もれてしまっている。けれども彼女の美は、精緻な花模様が織り込まれた布ごときには埋没していなかった。どんな穢れも跳ね除ける処女雪の肌の白さを引き立てる髪は黒く、優雅に波打っている。理知と気品を表す整った薄い唇は、触れれば鮮血が付着せんばかりに紅い。そして、今は目蓋に隠された双眸に嵌めこまれているのはこの世で最も尊い翠緑玉だった。

 慎ましいがゆえの神聖さを醸し出す胸部が緩やかに上下していなければ、不遜にも彼女に懸想した誰ぞに神殿より盗み出され、着飾らされ寝台に横たえられた彫像と見紛われる麗しさ。絶世を冠するに相応しい花顔に水晶の粒が降り注ぐ。睡蓮の花弁に似た唇に吸い込まれた雫は塩辛く、長い睫毛がふると震えた。

「……おかあさま?」

「……殿下。わたくしの……わたくしは……」

 母が、涙を流していた。父たる皇帝が海よりも碧い、と褒めたたえ接吻していた瞳から。皇族にのみ許された紫衣を纏えばまさしく女神のよう、まさに陛下の隣に立つに相応しい御方だと女官たちを心酔させていた貌を、悲嘆で曇らせて。

「幼い貴女を守ることのできなかった罪が、とうとう跳ね返ってくるようなのです」

 細い、けれども温かな、大好きな腕が伸ばされる。己を包む身体は柔らかで、余計なふくらみのない胸に額を擦りつけると、穏やかな鼓動を全身で感じ取れるはずだった。しかし幽かに隆起した胸は破れんばかりに忙しなく脈打っている。母がこんなにも焦燥していたのは、かつてはザーナリアンの国に仕えていた家来でありながら、主に反逆し刃を向けた東の蛮族との戦争に、父たる皇帝が出陣すると決定して以来なかった――いや、本当にそうだろうか。


「最愛の妻と娘よ。私はそなたらの誕生祝までには必ずこの宮殿に帰還するから、それまでに欲しい物を考えていなさい。お前たちが望むのなら、きっと世界の果てまでも人をやって探し出してやろう」

「わたくしは何も望みませぬ。陛下の生還と勝利以外は」

 臣民の前では毅然と振る舞い夫を戦地に送り出した母は、自室に戻るやいなやザーナリアンを抱きしめ泣き崩れる。

 これが最期になるだろう、と誰もが囁いていた。ザーナリアンが生まれた時には、あるいは父が皇位を継承した折には既に、帝国を支える柱は朽ちていたのだ。そして、虫に齧られ啄木鳥に突かれながらも辛うじて在り続けた中枢はついに切り倒される。

「ああ、わたくしの愛しい娘。そなたはこの斜陽の時代に生を受けておらねば、世界で最も幸福な姫と呼ばれたろうに」

 いささか古めかしくも高雅に結い上げた髪を振り乱し、己の染み一つない頬に爪を立てる女は、悪鬼さながらに狂乱していてもなお慕わしい母だった。

「すまなんだなあ。わたくしがこの時代にそなたを産んでしまったから、そなたは幸福にはなれぬのだ」

 恨むなら陛下ではなくわたくしを恨んでおくれ。真に子のためを想うのなら、との陛下の御言葉をも跳ね除け、我儘を通してそなたを産んだわたくしを。

 貴重な紅が乗せられ匂い立つばかりの口元は噛みしめられ、新たな、生々しい紅に彩られる。

「わたくしはしあわせよ、おかあさま。なのに、どうしてそんなことをおっしゃるの?」

 骨が折れんばかりに我が子を抱きしめる母の細腕に秘められた力は、幼子が胸からこみ上げた悲しみを吐き出すとますます強くなって。

「娘よ。そなたは幼き今でも、この母よりも、世界の誰よりも美しいが、長じれば永久に語り継がれる美女となるだろうになあ……」

 誰に聞かせるでもなく独り言ちた後、母の面に浮かんだ微笑は絶望だった。

「その顔、潰してやった方がそなたはまだしも幸福でいられるのだろう。乱世においては、美貌など禍の種にしかならぬ。よしんばそなたが生き永らえても、蛮族共の慰み者とされるのでは……」

「おかあさま?」

「……しかし、わたくしには、できぬ。たとえそなたを守るためであっても、腹を痛めて生み落とした我が子の身を損ねるなど、できはしない! まして生命を断つなど、陛下との約束であってもできるものか!」

 苦悶に歪んだ両の眼に慈愛の光を宿した母親は、やがて気高く聡明な皇后の仮面を被った。

 皇后は真珠と貴石が縫い込まれた裾をたなびかせ、嫋やかな手を叩いた固唾をのんで控えていた女を呼ぶ。

「ザーナリアンや」

「なあに、おかあさま」

 母がいつもの母になってくれたことが嬉しくて、幼児は飛び上がって金糸で花模様が刺繍された裾にしがみ付いた。

「わたくしはそなたの母であると同時に、臣民全ての母である。よって、そなたばかりに構ってはいられなくなるのだが、それではそなたも寂しかろう?」

「おかあさまといっしょにおはなをつめなくなるのはいやだわ」

「……さもあろうよ。そなたは幼い。だから陛下が――“おとうさま”が帰還なさるまでは、アマルティナをわたくしだと思え。なんせこれはわたくしの……」

 淑やかに歩み寄り、ザーナリアンに頭を垂れた女の、伏せられた面が幼子の眼前に曝け出される。

「殿下の御側に仕える名誉、慎んで拝命させていただきます」

 そこにいたのは、女官に扮した母だった。華美だか重苦しくもある礼服を脱ぎ捨てた母は、幾分か若返ってすら見える。よく似た別人のようにすら。

 ――おかあさまはあんなことをおっしゃってたけれど、わたくしのためにこっそりかげむしゃをたてて、ごじぶんはこうしてにょかんのふりをして、わたくしのそばにいてくださるんだわ。

 こみ上げる歓喜に背を押され、皇女にはあるまじきはしたない振る舞いだと理解していながらも彼女に飛びつくと、軽やかな笑い声が降ってきた。

「皇女殿下は聞きしに勝るお転婆のようで」

 まるで始めて出会ったのだと言わんばかりの口ぶりだが、これは芝居なのだから仕方がない。ザーナリアンと母は――アマルティナは、ずっと二人で父の帰りを待つのだ。そしていつか三人で、大好きな熊の火の環潜りの妙技を一緒に愉しむ。いや、見世物などなくとも、父母がいればそれでいい。こんなことを言ってしまえば母に叱責されてしまうのだろうが、父と共に東に進軍した兵すべてが斃れたとしても、父が無事に戻ってきてくれるのならそれでいい。

 なのに――

「おとう、さま……が?」

 他人に扮した母より沈痛に告げられたその報を、幼児の心は否定した。こんな嘘を母が弄するはずはない。であれば、母と女官は再び入れ替わっていたのだ。

 ほんとうのおかあさまはどこにいるの。

 足に絡む長い裳裾と苦闘する幼女にとっては、生まれ育った宮廷であっても迷宮となる。急激な心細さに駆られた幼子は、いつしか人の気配で蠢く場所を目指していた。ようやくたどり着いたそこには、壮麗な皇后の衣装を紅蓮で濡らした女が、息もせずに身を投げ出していた。血溜りで溺れるがごとく沈んでいるのはザーナリアンの母でしかありえなかったが、母が自分を遺して自決してしまうなんて。それこそ、先程母が付いた嘘よりも――いや、そもそもあれは母ではなかったはず――ああ、何もかもが判然としない。

「殿下!」

 暗黒に侵食される意識を僅かながらに切り裂いたのは、母の――いや、これは母のものに似ているが――もう何も分からない。細切れになった幻想と真実は複雑に入り乱れ、緻密なモザイクを描いている。どれか一つでも断片が欠けてしまえばこの絵の均衡は脆くも崩れ去る。余計な者を付け加えてもまた同じだ。

「ああ、ようやくお目覚めに。……良かった。もう二度と目覚めぬのかと、皇后陛下が共に連れて逝かれるのかと不安でなりませんでしたが……」

 母は未だ生きている。ならばザーナリアンは父が戻ってくるまで、いつまでも二人でこの演劇を続けなければ。舞台は何故だかかつてとは様変わりしてしまっているが、役者と観客は揃っている。

 けれどもいつまでも母を母と呼べないのは哀しいから、少しぐらいの逸脱は犯しても構わないだろう。

「……ねえ、おかあさま」

「……如何なさいましたか?」

「おとうさまにおてがみをかいたら、よろこんでくださるかしら……?」

 母と一緒に、何度でも、呆れられても構わないから父に手紙を書こう。わたくしこわいゆめをみたの、と。だけど、父が戦死する悪夢など、このまま己の裡だけに秘め隠しておいた方がいいのだろうか。だって、これはあまりにも不吉すぎて、口に出せば現実になってしまいそうだから。

 あの時の悪夢を、ザーナリアンは己の頭の中の禁断の小箱に閉じ込めた。なのに錠はいつしか錆れてしまっていて、破れた封印から飛び出した不安は現に舞い降りてしまったのだ。 

「可愛いとの最期の挨拶は終わったかしら?」

 優しい手に頭を撫でられた途端、鼓膜に棘が刺さった。母の穏やかだった目元はたちまち針よりも鋭くなる。険しい視線の先には、熊ではなく武装した男を従えた女がいた。彷徨う者たちと呼ばれる民族の女が。まだザーナリアンと母の誕生月を迎えてもいないのに。

「殿下の御前に貴様のごとき売女が顔を出すなど。相も変わらず身の程を弁えておらぬと見える」 

「その言葉、そっくりそのままお返しするわ」

 女の厚みのある唇がつり上げられ残忍な三日月になると同時に、ザーナリアンと母は引き離された。

「玉座を得たのはお前たちのエルゼイアルではなくてわたくしの息子。お前たちの王子さまは、今や妹と通じた異端にして背教者なんだから、」

 ――この無礼者に、少し礼儀というものを教えてあげなさい。

 紅い月が制止するのを待たずして、母のか細い肢体には鋼の拳が食い込んだ。くぐもった喘ぎを漏らしながら倒れ伏した母の黒髪を、褐色の指が無造作に掴む。

「……まこと浅ましい面だな。そなたと同じ顔したあの娘と、殿下が情けを交わすなど妄言に過ぎぬわ」

 母は厳めしい男達に手足を抑えられながらも、自らを蹂躙する女を見下していた。

「……お前たちにとっては残念でしょうけれど、事実なのよ。こればっかりはどうしようもないわ」

「ならばそなたの娘が、そなたがあの王相手に励んでいたように、無理やりに殿下の上に乗って腰を振ったのだろうよ。母娘揃って貪婪なことだなあ。やはり親子は、」

 けれども女の跟が母の鳩尾に食い込めば、愛おしい声は遮られてしまって。

「おかあさま!」

 母を助けたくとも、ザーナリアンの手足もまた押さえつけられていて自由にならない。

「……そんなこと、お前に教えられなくとも分かっているわよ。わたくしの娘もお前たちのエルゼイアルも、あの男に似て本当に愚か」

 だから、共に旧交を温めましょう。亡き陛下を偲んで・・・、陛下との思い出を語り合えば、きっとわたくしたち仲良く・・・なれるわ。

 朗らかに微笑みながら呻く女の腿を跟で抉る女の双眸では炎でぎらついていた。黒い黒い、地獄だけで燃え盛るはずの情念の焔が。

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