情炎 Ⅰ
紺色の夜空に君臨する月が猫の爪ではなく、鎌のように見受けられるのは己だけではないだろう。ほう、と安堵とも不吉ともとれる感情を吐き出した青年はその萌え出でたばかりの草色の瞳を伏せる。夜闇は篝火に暴かれ、本来ならば秘匿しているであろう悲惨を余さず曝け出していた。
勝利を言祝ぎ盃を重ねる兵たちの野太い歌声の合間には、今にも掻き消えんばかりのか細い呻きが吹き渡る。音もなく野営地に舞い降貪るのは死肉を貪る烏だけではない。梢の合間から覗く星々の輝きを匂いを嗅ぎ取った狼の黄金の双眸のぎらつきと見紛うのは、オーラントだけではないだろう。
王都より騎馬で下り国境の山岳地帯に辿りついた主と自分を
双方の非戦闘員や近隣の住民を避難させるために、交渉が決裂したその日から七日の猶予を待って行われた戦の決着は既についている。万年雪を戴く山々に心身の力を削られ、その上に背に
交代で哨戒を担う兵が、酒によるものではない赤みを面に乗せて振り返る天幕では、竜の威容が翻っている。梟の囀りや獣の唸りに紛れる嬌声は、敵将の妻と娘のものだった。降伏と和睦の証として己が妻子を差し出さざるを得なかった男は、禽獣のごとく手足を括られながら己の敗北を味わわされている。夫であり父である男の咎を代わりにその身に背負って雪いでいる彼女たちを組み敷いているのは、王太子に他ならない。
寝返った配下の者に妻子ともども捕らえられ、この場に引きずり出された将は、血と汚泥に穢れた顔を涙で清めながら叫んでいた。己は殺しても構わないから、妻と娘には手を出してくれるなと。彼の目の前に君臨する異国の美貌の王子が、敗将の嘆きごときに心動かされる支配者ではないのだと知らぬがゆえに。
ひび割れた声で己たちの耳にとっては朧にしか意味をなさない懇願を迸らせる男の、低く垂れた頭に靴底を擦りつけ彼の誇りを踏みにじった主君。その嘲笑は、魂が凍り砕け散るまでに麗しくて。
『来い』
傍らの男同様に平伏して侍る女たちが招きに応じて面を上げた瞬間、彼女らの頬には陶酔の淡紅が広がった。彼女らは控える兵に促され牽かれずとも、己の意志でもって立ち上がり、己の意志でもって異国の王子の寝所まで歩み、彼の褥に横たわった。
己の真の敗北を突き付けられた男の、歪んだ顔は長くは見てはいられない。険しい瞳に湛えられていたのが屈辱のみであったならともかく。それこそがオーラントが主の閨から飛び出し、けれども万が一が生じれば命を賭してでも彼の加勢に駆け付けるのだと、王子の天幕のほど近くで瞬く星々を見上げる理由であり――
「王宮より、殿下に危急の
「は、い。ゆえに、早急に殿下にお目通りを願いたく、」
決して平らかではない旅路を食事どころか睡眠すら摂らずに駆けてきたという二人連れに応対するためではなかったはずだった。
◆
三十の半ばも過ぎた女の身体は十分に熟れているが、まだどこかに青さを残す果実は、丹念に解さねば味わう楽しみも半減する。紅玉とするには暗い、黒ずんだ雫が降り注いだ敷布が吸い取ったのは女の苦痛だけではなかった。男女の享楽を啜った布は不快に湿っているが、その上で抱き合う女たちはまるで意に介していない。
絡み合う女体の奥底では、二つの花がほころんでいる。己が生み落とされた洞から抜き出されたばかりの肉をぽっかり口を開いた深淵に差し込まれれば、娘は悲鳴ともつかない喘ぎを細い喉から絞り出して痙攣した。崩れ落ちた娘の裸体を彼女の父の足元に放り投げても、男は一切の反応を返さない。一筋の紅蓮など既に滲む汗に流され落ちた腿に散らばる一片を咲かせた際には、まだ何事かを喚いていたのだが。
彼の妻を引き寄せ後ろから貫いても、男はもはやエルゼイアルをあの追い詰められた獣の目でねめつけはしないだろう。牙を折られ爪を抜かれた狼は犬にすら劣る。
自ら腹を見せ恭順の意を示した獣が有用ならば、彼らの奥底に潜むであろう本性を警戒しつつ、餌を与えて飼いならしもしよう。だが役に立たぬわりに気位だけが高く調教しがたい猛獣は、疾く縊り殺してしまうに限る。こういった犬は鞭をくれてやった人間とその回数をいつまでも覚え、己に痛みを舐めさせた手に噛みつく機会を常に窺っているものだから。
南方の地ではもてはやされると聞く銀の髪は、喪われた少女のものとはおよそ正反対の色彩を有している。染み一つない白皙の皮膚に覆われた肢体はほっそりとしなやかなのだが、それは言い換えればエルゼイアルが好む豊満さに乏しいということでもあった。
このようなつまらぬ肉付きの女なぞ、友好の徴でなければ抱きはしなかった。
下腹部に溜った不満を注ぐと、女の滑らかな背は生きながら熱せられた鉄板に置かれた魚となる。びくり、びくりと震えるのは彼女の最奥もまた同じであった。
自らの夫の前で他の男に抱かれているというに、よくもここまで乱れられるものだ。呆れとも侮蔑ともつかない熱を帯びた剣を蜜が滴る果実から引き抜く。恍惚に四肢を萎えさせた女の、結い上げられてはいたがすっかり崩れ、おどろに縺れるばかりとなった髪を鷲掴むと、あえかな悲鳴が濡れた唇から漏れた。
桜桃の花の蕾を思わせる薄紅から突き出された母娘の舌に、奪い合い、競い合うがごとく己を舐らせていた四半刻前には乾いていたそこも、二人分の唾液ですっかり艶めいている。だがエルゼイアルはもう彼女にはそそられなかった。
狼狽える女の、美しくはあるがやはり趣味ではない面を、彼女の夫の脚の付け根に押し当てる。
「そなたに夫を味わう最後の機会をくれてやろう」
エルゼイアルが山脈を越えた地の民と交えたのは剣だけではないから、通訳が同席せずとも大まかな意図は彼女に伝えられる。女はおずおずと躊躇いながらも、嫋やかな指でもって己の夫を脚衣の下から誘い出し、別の男を咥えこんだ口に彼を招き入れた。妻の痴態に応じてか、だらりと萎えていた敗北者は再び奮い立った。
父の咆哮に法悦の余韻を蹴散らされてか娘が薄い目蓋を持ち上げる。目覚めた娘に注がせた葡萄酒を傾け、今一度柔な口腔に包まれながら楽しむのは、これ以上はない饗宴だった。
「――!」
眼前で妻に裏切られた男が口走る暴言は、交渉や国交の場で紡がれるに相応しい語句ではない。むしろその対極に位置するだろうがゆえに理解は及ばぬが、察するのは容易かった。売女。雌犬。概ねこのようなものだろう。
この屈辱は己が無謀が招いたものであるというのに、現実から逃避せんともがく男は世に二人といない喜劇役者だった。足首を縛める枷のみを娘に解かせても、男の眼中に映るのは妻のみらしく。男はひたすらに罵声を張り上げながら、手足を突かせた妻の尻に腰を打ち付ける。彼らがルオーゼ人を指して吐き捨てる「異端の民」の足元で這いつくばる娘を助けだそうともせずに。
もう、良いだろう。あれらに和平を信じさせるには、もう十分すぎるほどに励んだ。
羽織っていた寝衣の前を合わせ、鞘から剣を引き抜く。一際大きな咆哮ごと太い首は切り落とされ、苦悶と享楽がせめぎ合う髭面は血飛沫に塗れた。
「あ、あ……」
降り注ぐ生温かな雨で全身をしとどに汚す女は、夫を屠った男に懇談する。
――何でもするから、私と娘は殺さないで。
跪いて乞われずとも、エルゼイアルは彼女らの命までをも取るつもりはなかった。配下か新たなる臣従を誓った者のいずれかに娶せ、相応の地位を与えてやるつもりだった。さすれば戦わずとも新たな支配者は寛大らしいと安堵し、己の足元に服従する者は増えるであろう。獣の調教と同じで、民草を統べるには罰と褒美を乗せた天秤はどちらかに傾いてはならぬのだ。
身を寄せ合う母と娘に、彼女らの命が明日も続くことを信じさせるのは、彼女らを再び組み伏せ貫けばよい。だが、淫楽に耽るには己が肌にこびり付いた返り血はいささか不快にすぎた。
「オーラント」
清めの水を持て。
発しかけた言葉は驚愕を湛え極限まで瞠られた友の眼に宿る危惧と焦燥に蹴散らされる。
「殿下!」
友が狐を咥えた忠犬よろしく己目がけて走るのは、漂う鉄錆の臭気のためではなかった。
「これを。急ぎお読みになり、決めてください」
整えられた栗毛を振り乱した青年は、膝を折って皺が寄るまで握り締めた文を主君に奉る。
「僕は、貴方が進むと決められたのなら、たとえ冥府までもお供致しますから」
平静の穏やかさをかなぐり捨てた、懸命な声に促され羊皮紙に眼を落とせば、そこに綴られていたのは驚愕であった。
父王が異母弟の母に弑逆されただけでは、エルゼイアルは驚きはしなかった。閨で女に暗殺される。あの父ならばいかにもあり得る不手際であり醜態だ。しかし、母とアルヴァス侯の後押しの下、異母弟が王として戴冠するとは。
病弱ゆえに王としての教養を授けられなかった異母弟が、国政を操れるものか。傀儡の手足に括りつけられた糸を操るのは彼の母や、その庇護者である侯爵に違いない。
威信も血筋の正統性も備えぬ王の即位。それは、この若き国がかつての混沌に還る可能性を示唆していた。
建国より百に近い歳月が流れてもなお、隙あらば古代の独立の栄誉を快復せんとする北部。不和と争いの芽の苗床が、未だ心の奥底に帝国時代の矜持を隠し持つ旧ティーラ帝国が離反すれば、ルオーゼは瓦解する。終止符を打たれたばかりの、有史より続いていた同族同士の闘争の、新たな幕が上がってしまう。
もし仮に目前にこの文を認めた男が立っていたならば、臓腑が煮えくり返らんばかりの激昂が命じるままに、彼を肉片に変えてしまっていただろう。あの愛妾と異母弟はともかく、侯爵たる者がそれを分からぬはずはあるまいに、一体なぜ此度の暴挙に出たのだ、と。
――王位継承権を放棄し新王に忠誠を誓うのなら破門を解き、更には母君の故郷の一部の支配権をも殿下に与えられるようにあの女と交渉致しましょう。
奥底で燃え広がる憤激を煽る一文ごと、掌中の一片を引きちぎる。
この大陸中部北方の全てはエルゼイアルのものだ。父祖が剣を振るい勝ち得た、母が己に受け継がせた、己が守り繁栄させるべき土地。この世にただ一つだけの園を他者に不当にもぎ取られたとしても、彼の才覚が己を上回るのならば潔く身を退けもしよう。だが、慈悲も才覚のどちらも持たぬ者に、己の庭を踏み荒らされれば、たとえ命に代えても奪い返すのみ。
「紙と筆を持て。ただし
一礼し、立ち上がったオーラントは己の意図を察したらしい。程なくして用意された、干した杯に満たされた黒ずんだ赤に鵞鳥の羽を浸し、己の決断を書き記す。――真の支配者たらんと欲するのなら、この兄のように、この兄の血でもって諸侯に即位式の招待状を認めるがよい。
「そなたら、急ぎ我が弟にこれを渡せ」
蒼ざめ、憔悴した面持ちの使者の片方に、まだ乾かぬ生命が滲む書を押し付ける。あの尊い存在が損なわれる前に、エルゼイアルは彼女を救出しなければならない。
戦場で
王太子の位を剥奪されてもなお王太子であり続ける青年は、誰に聞かせるでもなく独り言ちる。
その力強い囁きは、どんな美酒よりも強かにその場の兵たちを酔わせ、どんな氷よりも屈強な男たちを慄かせた。ほんの昨日までは互いの頸を互いの剣でもって落とさんとしていた、言語を共有せぬ異民族すらも。
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