情炎 Ⅱ
顔面を魔除けの怪物さながらに引き攣らせた司教によって冠を授けられた四代目の国王。新たなる王は、空席が目立つ即位式の最中に倒れ伏して以来自室に籠り続けていた。病身の王の許に近づくことが許されるのは、彼の母タリーヒとその腹心の女官マーリカ、そして王に代わって政務を担うアルヴァス侯ドニとその小姓であるシュゼシスのみ。
正統なる王位継承者が存命の折に行われた戴冠を非難し、不当に追われた彼の黄金色の頭に王冠を授けんとした者は皆、新王の治世の盤石たらしめんための贄とされた。反逆罪の汚名を着せられた数多の屍の山には、前王の御代において彼の支配を支え続けた宰相を筆頭とする高官たちが埋もれている。
王城の膝下、高級官吏たちの邸宅が並ぶ一角でも更に宮殿に近い街区に聳える屋敷。小作りながら品の良い調度品に飾られた邸宅に王母により遣わされた兵たちが侵入した折には、その主は既に息絶えていた。冷え切った亡骸のほど近くに転がっていた盃の中身は飛び散り花崗岩の床に染みを作っていたが、その正体が猛毒であることは容易に察せられる。
不遜なる企みから王の身を守るため、という名目の下付けられた衛兵に囲まれた愛妾の間の、更に奥に位置する一室は常に仄暗く、肌寒い。しかし娘が精緻な刺繍が施された上掛けに包まるのは春であるとは信じがたい寒気のためではなかった。
「ほんとに残念よねえ。あの男だったら、グィドバールからお前たちのことについてなにか聞いていたはずなのに」
しかと耳を塞いでもなお、夜具の隙間や指の合間から蝮のごとく這い寄り心をひりつかせる囁きから逃れるために。
「他人の妻を寝取ったり、父親の女に手を出したりしているから、“あの殿下ならば妹と通じていても不思議ではない”なんて頷かれる。結局、お前のお兄さまは普段の行いが悪すぎたのよ」
繰り返し繰り返し母から紡がれる現実は、ダーシアにとってはいばらの鞭に匹敵した。
王国北部の貴族たちは、数年前に起こした反乱の芽を土壌ごと焼き払った王子の即位を望んではいなかった。ゆえに彼の地の諸侯は王太子の破門と廃嫡をいささかの抵抗もなしに認可し、あまつさえ
今しがた自分たちが戴いた新たな支配者が女であるなどと考えもせず。儀式の最中で心痛のあまり倒れ伏した王を見下し嗤いながら。父親以上に脆弱な王ならば御しやすかろうと。これならば、百年の長きに渡り不当に押さえつけられていた自分たちの主権どころか、初代と二代目の王、及び元王太子の辣腕によって削られた古来の領土の回復も不可能ではなかろうと。薄れゆく意識であっても容易に捉えられた飛び交う思惑が、矢となってルオーゼの心臓たる都を貫く日が訪れるのはさして遠い未来ではあるまい。
王都の民たちも簒奪が起こった当初は、玉座を父の血と父親殺しの大罪によって汚した庶子を非難し、血統高き美貌の王子の帰還を声高に求めていた。けれども王母の命によって、とりわけ激しく新王を誹謗していた石工組合に兵と火が放たれた後は、皆ひたすらに貝となってしまっている。ここは荒ぶる冬の北海ではなく春の盛りの王都であるのに。
都人たちは例え火にかけられても口を割りはしないだろう。彼らが頑なに引き結んだそれを開くのは、新たなる王やその母へ偽りの忠誠を捧げる時のみ。
ダーシアのせいで、エルゼイアルの研鑽が、血の滲む苦痛の全ては泡沫とされてしまったのだ。あの優しくも気高い少年が、自分なぞに目をかけたせいで。
いつ、誰に、どのようにして兄と自分だけの秘密が知られたのかは分からない。けれどもダーシアが兄を、彼の体温を、接吻を、愛撫を欲しなければ、エルゼイアルは今も王太子でいられたのではないだろうか。初めて出会ったあの日に、あの恐ろしい女官の糾弾に従い直ちに立ち去ってさえいれば……。
母の執拗な嘲りもいつの間にか遠のき、部屋は静謐に静まり返っていた。けれども厚い夜具を被ってもなお、採光窓から差し込む光は細かな布目を潜り抜け娘の眼に突き刺さる。冷徹な光を跳ね除けるべく薄い目蓋をおろすと、たちまち眼裏に広がったのは過去だった。
見知ったはずの宮殿の庭で迷い、途方に暮れる幼い自分は、やがて厳めしい女官に痛罵され涙する。幼子は、彼方から近寄ってくる黄金の影にさえも怯え、涙ながらも震える脚を叱咤し……。
そんなの、無理だ。
虚ろな心中で吹き荒ぶ諦観は風となり、現在のダーシアが見守る前で、ありえたかもしれぬ過去の自分の脚を攫い縺れさせ転倒した。巻き戻った情景で己の頬に奔る傷を指先でなぞり、女官に手当を命じるのはやはり兄に他ならなくて。
留まることなく流れゆく清流のごとき現在は刻一刻と変じているが、氷さながらに凝った過去は不変である。唯一己が思うがままにできるはずの、自らの記憶を捩り糸にして形にしたタペストリーでさえも、一度織りあげられてしまえば決して手を加えることはできないのだ。少なくともダーシアは、己の過去すらも変えられなかった。
噛みしめた唇から染み入る鉄錆の臭気が、娘が織りなした虚実を突き破る。夢想と幻影の最中であっても、ダーシアは兄を求めずにはいられない。彼の手を取り、彼のぬくもりに焦がれずにはいられない。禁忌であると承知していても、ダーシアはエルゼイアルを愛せずにはいられないのだ。そのために罰を受けると分かっていても、なお。
兄が位から追われるに至ったのは、神が自分たちの背徳を砕くために振り下ろした鉄槌のためなのだ。ダーシアの罪は灰色の海よりもなお暗く、深く、恐ろしいものなのだ。
「ごめ……なさ……。あに、うえ」
悲嘆は津波のごとく押し寄せ赤らんだ眦から零れ落ちては、ひりついた口腔に潮の風味をむせ返らせる。最愛の人と愛し合い、触れ合うことすら赦されぬ我が身が恨めしく、憎らしかった。敬慕する兄と半分ながら同じ血を宿しながら、彼の窮地を救うための何らの策も手段も弄せぬ己の愚かさが。
――何もかも、私が馬鹿だから悪いんだ。母上の言う通り、私がどうしようもない愚図だからこうなったんだ。
ひたり、ひたりと歩みよる絶望に似た泥濘に跟を沈める。冷ややかな汚泥はずぶずぶと娘の頭頂までをも呑みこんだが、抱えた暗澹までもは吸い取ってはくれなかった。
過度の睡眠により痛む頭と背を摩りながら半身を起こしたのは、一番星が瞬く黄昏であった。
「お目覚めでございますか、我が陛下」
望んでもいないのにすっかり耳に馴染んでしまった、すぐに上辺だけのものだと察知できる程度の薄っぺらな媚びを張りつけた侮蔑は、毒となって鼓膜に垂れる。
実権を掌握して以来、国政の全てをアルヴァス侯が握っているのは皆が共有する暗黙の了解である。しかし彼はあくまで忠実な家臣を装い、いかな細事であれ王との相談の後、彼の承認を得たという体裁を採らなければ実行していなかった。
「此度陛下の許に参上いたしましたのは、
目の前に動かされた一葉では、ダーシアの目にはさして美しくもない文様としてしか映らぬ線――文字がのたうっている。タリーヒもドニも、こと文字に関しては、ただ一つの光明を除いてはダーシアの視界が闇に閉ざされているのだと承知の上で、このように迫ってくるのだ。
ダーシアが判読できるただ一つの単語を名に持つ人ならば、読んで聞かせてくれたであろう文についての見解など述べられるはずがない。
「今回もまたこのアルヴァスに一任してくださるとのこと、臣は大変嬉しく思います」
さらさらと、鞣された皮の上を尖った先端が滑る音がした。そうして綴られたのは己を、ヴィードを表す綴りであるのだと知らされていてもなお、鮮明な黒は脳裏を過ぎ去るばかりで。
ちらと見やった書面には兄の名はなかったのだから、これから成されるのは、兄には関係のない、兄を害せぬ事柄なのだ。ならば、もうそれだけでいい。ダーシアが何をしても、それは象にとっての蟻の足掻きと大差のない、容易に踏みつぶして無為に帰せられる程度の抵抗に過ぎないのだから。
「私は御母堂のご機嫌伺いに参りますが、伝えたい言葉はございませぬか?」
――そんなものはありません。用が済んだのなら、すぐにここから出て行ってください。
心身を蝕む倦怠は舌の根すらも縛めてしまっている。言葉にしては伝えきれぬ心情を吐露すべく激しく首を横に振ると、ドニは締まりのない口元に薄笑いを刻みながらも退室した。恐らくダーシアの無知を、意気地の無さを嘲っていたのだろう。
◆
目を覆いたくなる惨劇の場と化した王妃の部屋は、随分と派手に
有翼獅子を閉じ込めたタペストリーは、血飛沫によって精緻な美術品としての価値を穢されてしまっている。血を流しているかのごとき獅子の下には、女の腕――であったと辛うじて判ぜられる物体が転がっていた。指は全て切断され、元の白さを窺えぬまでに焼かれ、割かれ、皮膚を剥がれた肉塊が。
侯爵はまだ柔らかなそれを布越しに掴み、
「これでは後始末に骨が折れますよ」
「それならこいつらに適当に始末させるわ」
既に息絶えた女を、兵士たちに嬲らせている女の足元へと放り投げる。
血溜まりの中心で横たわる亡骸は、二目と見られない有様だった。女を好まぬドニの心中にすら、仄かな憐憫を芽生えさせるぐらいには。
幾日にも渡る苦悶を味わわされた後、ついに安寧の地へと飛翔した女は不運だった。たかだか一度や二度あばずれと蔑んだ相手から、言語を絶する責苦を受けることになると知っていたら、十八年前の彼女は口を噤んだのだろうか。――いや、この女ならば、やはりタリーヒを声高に罵ったに違いない。喪われた女の心意気と矜持は、焦がれる青年のそれと近しいものがあった。降伏を促してもなお、ドニ達を流麗でありながらも苛烈な口ぶりで簒奪者と誹謗した彼と彼女が似通っているのは、面立ちだけではなかったのだ。
「この婆、腹を開かれても“大丈夫ですよ”なんて言って笑ってたわよ。……こっちが笑いそうになっちゃったわ」
王妃の女官が失ったものは腕だけではなかった。タリーヒが生きたまま腹を割かせたのだと語った通り、白い腹部からは腸がはみ出ている。長い長い澱んだ桃色は何がしかの棒に巻き取られ、引きちぎられていた。おびただしい鉄錆の生臭さに紛れていて俄かには判ぜられなかったが、そういえばこの場には死臭すらも漂っている。この室内にいてタリーヒが涼しい顔をしていられるのは、とうに嗅覚が麻痺してしまったからだろうか。だとすれば恐るべき執念深さだった。
服の袖で低い鼻を覆ってもなお、異臭は繊維の隙間から鼻腔に進入する。この場に長く滞在していれば、服どころか皮膚にまで蔓延する悪臭が沁み込んでしまいそうだった。
切断された脚部を細切れにさせながら、女は口元を艶めかしく吊り上げる。ある兵は己の所業を棚に上げ女の狂乱に頬を歪めたのだが、幸いにも嗤う女に感づかれはしなかった。もしも察知されていたら、哀れな躯は数を増やしていただろう。
「調度品はそのやり方でも始末できますが、そちらの御方は如何なさるのです?」
血塗られた室内のただ一つの美を――ザーナリアンを指し示す。エルゼイアルの母である彼女の面は汚れていても麗しいが、女の美にしか過ぎなかった。
「そいつ、婆が悲鳴を上げるために“おかあさまをいじめないで”なんて騒ぐから、眠らせたの。やっとおとなしくなったところなんだから、起こしたりしたら承知しないわ」
人々を圧倒する
「エルゼイアルをお前のものにする代わりに、これはわたくしが好きにする。あの約束、覚えているわよね?」
「心配は御無用ですよ。少しばかり遅れてしまいましたが既に文書に纏め、
男は哀れむべき女の行く末を思う。変わり果てた実母の姿を目にした際の、想い人の嘆きはいかばかりか。彼は異母妹に捧げたものよりも美しい涙を流すだろうか。ただそれを確認せんがために、ドニはザーナリアンを悪魔に引き渡したのだ。
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