情炎 Ⅲ

 三代目の主が蹴落とされた玉座に坐す欺瞞が統べる都は、深い海の底だった。強風が吹けば漣立ち、黄金の陽光が溶けた碧を白く砕かせる水面は、平穏に凪いでいるようでその実絶え間なく揺れ動いている。しかし光芒射さぬ青は夜闇と見紛わんばかりの暗澹と化し、停滞した水をかき混ぜるのは魚ではなく……。

 それは口からは炎を、鼻からは煙を吐き、鰭を動かせば波を逆巻かせ、あらゆる武器を跳ね返す鎧のごとき鱗を全身に纏う。

 海の怪獣の恐ろしさをシュゼシスに語って聞かせたのは、敬愛する主でも、ましてや泣き叫ぶ息子を貧民窟の行きどまりに放り投げ、間男の腕の中に飛び込んだ母でもなかった。まだ齢が片手の指の数にも満たなかった頃、顔も覚えていない父は流行り病に襲われ息絶えた。それからシュゼシスは、塵や踏み潰された林檎や犬の死体が転がる路地裏で、男達の欲を受け入れる見返りとして端金や食料を得ながら這いつくばっていたのだ。

 ある者は些細な喧嘩のために、またある者は風邪をこじらせ、またある者は飢えにより、同じ年頃の子供たちはあっけなく息絶え、土の中ではなく鼠や犬の腹に納まる。あらゆる貧困と悪徳が蔓延する一画で幼子が生き延びられたのは、ある晩の客となった破戒僧からは「壁画の天使のよう」と称賛された容貌のため。生来の愛くるしい容姿は、街の裏側を支配してた男の目にも留まり、シュゼシスは彼のとなることで安寧を得た。

 王国北方から流れてきたというその男は、元は海に潜り真珠を採って自らや家族を養っていたらしい。気まぐれにシュゼシスを殴打し詰り、その同じ口でいかにも幼児が好みそうなお伽噺を語って聞かせた男が集めた宝玉は、一体どこにいったのだろう。王子様かお姫様の服に縫い付けられでもしたのだろうか。

 裏町の首領が真の街の支配者の命で捕縛されて以来、喪われた彼と入れ替わりのように現れ己を救済してくれた現在の主は、宝石よりも美しい王子に入れ揚げている。ドニはエルゼイアルが舐れと嘯けば、宝物庫より運ばれた財宝を賜らんがごとく跪いて彼の足指を食むだろう。死を命ぜられれば、喜び勇んで冥府の淵に飛び込むだろう。いっそ喜劇じみた片恋はもう六年も続けられているが、幕が下ろされる気配はついぞ無かった。

 ドニはなぜ、こんなにも近くにいて、夜毎肌を重ねる己ではなくあの男を求めるのだろう。あの王子は、確かに容姿は限りなく美しい。ドニの小姓として赴いた宮廷で、初めてちらと垣間見た折には、なぜ彫像が動いているのだろうと驚嘆し、魅了されずにはいられなかった。それほどまでに彼は麗しかったが、あの王子が優れているのは所詮はそれだけ。単純に内側の美点のみを評すれば、ドニの方が勝ってすらいるのに。

 シュゼシスとて、元王太子が軍事や内政で上げた手腕の幾ばくかは耳にしている。殿下の手腕は陛下を上回るとの、押し殺されていて密やかな歓喜の声も。しかしあの王子は、支配者としては父王に勝れども、祖父や曽祖父の天賦の才は備えてはいないだろう。

 元王太子は優秀ではあるかもしれないが、天才ではない。けれども、父祖から恐るべき冷酷さや残忍さだけは譲り受けている。まして、父親の女だけならばまだしも腹違いの妹にすら手を出す女癖の悪さを加味すれば――ドニは何故、あの獣にも劣る王子を愛するのだろうか。ドニだけではなく、王子の側仕えを務めるオーラントも。あの王子は根っからの女好きで、男を組み敷く趣味はないはずなのに。

『よく邪推されてますけど、僕は殿下をそういった意味では愛していません。それこそ一欠けらも。ただ――』

 主君として、また友人としてはお慕い申し上げております。

 数年前、ダーシアへの土産・・を集めていた際に、偶然にすれ違った青年の微笑みは穏やかだった。生まれ持った地位はともかく、こと容貌ならばシュゼシスが勝っている。だのになぜ、あの青年は身体ではないもので主と繋がっていられるのに、自分とドニではそれを成せないのだろう。

 ドニは庇護者を喪い緩やかな終焉に向かいつつあった、過去の自分を拾い上げてくれた。一切の見返りを求めず、温かな食事と清潔な寝台をシュゼシスに与えてくれたのは、ドニだけなのだ。だから自分は彼が望めばどんな行為にも付き合った。

 シュゼシスとて、流石に出会った当初はあの容貌を直視することはできなかった。けれど彼の人となりに触れるにつれ、真の醜悪はドニではなく彼を蔑む愚か者たちの裡にあるのだと信ずるに至るようになった。だが幸福な蜜月は、世にも麗しき王子と彼の異母妹の過ちによって儚くも崩壊してしまって久しい。

 美貌にも地位にも、また友にも恵まれた王子は、シュゼシスが望んだたった一つすらも己から取り上げる。今頃、元王太子の学友は、彼の主の傍らで馬を駆っているのだろう。

 元王太子は父王の崩御・・の報を受け取るやいなや、直ちに山岳地帯に侵攻していた南方異民族と和議を結んだ。そして、勝ち得た兵や母妃の故郷より派遣された兵卒をも含めた大軍勢でもって王都を落とすために進軍している。むろんこの都にも糧食は蓄えられているが、その幾分かは今は亡き王――の名を借りた大臣によって当時の・・・王太子と共に国境に送られてしまっていた。都に肉と乳と作物を供給すべき農民たちは近く起こる戦に備え、家や畠を放棄し城壁の内に避難してしまっている。

 一時的に増えた口全てを満たすには、急ぎアルヴァス侯領より運ばせた糧はあまりにも心もとない。まして、元王太子率いる兵がついに都の城壁と見え、包囲されてしまえば。ルオーゼ建国の遙か以前から都であり続けたこの街は、シュゼシスが半生を過ごした貧民窟になる。たった一切れの麺麭を、一欠けらの干し肉を巡って人々が諍い、殺し合う渾沌に。

「……それを、あいつは――馬鹿だから、分かってないんだろうなあ」

 衛兵たちはいつ新たな王の上に君臨する女の不興を買い、己が首を落とされるのかも定かではない恐怖に甲冑で隠した顔を歪めてしまっている。

 王母の走狗と化した彼らに囁きを聞きつけられれてしまったら。弁明の暇すら与えられず切り伏せられるのかもしれないが、そう心配せずともよいだろう。王宮に囲われた羊たちは皆、自らの運命の行く末のみに囚われていて、他者の言動を気に掛ける余裕などありはしない。その最たる者が、自室で悲嘆にくれる姫君だ。

 賤民の肉で形作られた器に王の貴き血を蓄えた娘は、「飢え」という言葉すら知りはしないだろう。香油が垂らされた湯で清めた肢体を貴石が縫い止められた絹に包み、優しい異母兄に虚弱な羊の仔か萎れかけの薔薇の花のように庇護されて育ったダーシア。彼女は、六年前までは無垢ではないが無知で幸福な姫君であった。だからこそ、自分がただの一口分千切っただけで要らぬと背を向けた麺麭のために、身を売る子供が存在するのだとは考えもしないのだ。

 銀の器に注がれた肉汁スープは冷めても芳しい匂いを放っている。芳ばしく焼き上げられた兎の肉を放ってやれば、一体どれ程の孤児の目が歓喜で輝くのだろう。路傍で蹲る子供は日増しに数を増すばかりで、その大半は庶出の新王とその正嫡の異母兄の兄弟喧嘩・・・・に巻き込まれ露と散る。

 この世に生まれ出でた意味も喜びとも縁遠いまま旅立つ子供。それは、ドニに拾われなければシュゼシスが辿るはずだったもう一つの路の突き当りであった。

 愛妾の宮から厨房に辿りつくまでには、王妃の間を通る必要がある。

 拵えられた妙味も毒見や煩雑な儀礼のために、貴人の舌に乗せられるまでには冷めきってしまう。それでも絶世の佳人を少しでも愉しませんとせよ、との王妃の女官の主張を受け新たに調理場が設けられるまでは、王の食事すらも外廷から運ばれていたのだ。

 そういえば、王妃と女官はどうなったのか。あの王子との交渉に使うために、地下牢に放り込まれでもしているのだろうか。

 薄弱ゆえに自室に籠る新王に昼餉と晩餐を献ずるべく、一日二度は通る道だ。たとえ意識をあらぬ方向に飛ばしていても、目を瞑っていても、支え持つ銀の盆に乗せられたものを零しはしない。だが水晶でできた鈴の音を思わせる玲瓏な音色で紡がれた懇願の絶叫が轟けば、その源を勢いよく振り返るがあまり琥珀色の液体を波打たせるのも致し方なかった。

 普段は閉ざされている扉が、ほんの僅かながら、開いている。それこそ、悪しき竜に攫われた麗しの高貴な姫君を閉じ込めているのか、と勘ぐりたくなるほどまでの厳重な警備は影すらも見当たらなかった。

 ぶつかりあった玻璃と玻璃が奏でる楽に似て硬質に澄み切った、けれども儚い悲鳴は間違いなくこの隙間から轟いている。ならば、今を逃してはいけない。

 手綱を振り切った馬となった好奇心が赴くままに、けれども狐の用心は手放さず、猫を真似て足音と気配を殺して忍び寄る。そして少年が大きな双眸で捉えたのは、醜悪かつ残酷極まりない饗宴だった。

「ええ。痛くて、苦しくて仕方がないでしょうねえ。わたくしも経験があるもの、よおく分かるわ」

 耳にすれば生理的な拒絶すらこみ上げる艶めかしい声は甘く蕩けているがゆえにより一層おぞましい。誰に聞かせるでもなく発せられる独白の合間で轟く乾いた音には、有り過ぎるぐらいに聞き覚えがあった。

「その顔、とっても素敵よ。潰してあげたくなるぐらい」

 よくよく目を凝らさなければそれが血潮であったとは判ぜられぬ、古び変色した飛沫を乱雑に拭った痕跡の幾つかは艶やかな糸で覆われている。それは同じ黒ではあるが、嫌悪する女の癖のない毛髪ではなかった。

 嫋やかな褐色の指がそっと、しなやかな黒絹に触れる。

「ねえ、」

 苛み、貶めるように。けれども、愛おしむように処女雪の肌を暴く手はもはや毒蛇だった。大きく開かされた二本はまさしく最上の大理石から名匠の鑿によって彫り上げられた芸術品なのに、腿を伝う紅蓮や散らばる痣が彼女が人間であったのだと思い出させる。亡き王が隠そうにも隠し切れなかった、王妃にまつわる風聞も。

 王妃ザーナリアンは、肉体はともかく魂は未だ十にも満たない幼子であるはずだ。その彼女が何故、いったいこんな責苦を受けているのか。

 崩れ落ちた膝から下はすっかり萎えてしまっていて、抜き身の剣を振り被った暴徒を前にしても立ち上がれそうにはなかった。ドニは、このことを把握しているのだろうか。把握していなお、この暴挙を赦しているのだろうか。――ならば、もはや手遅れではあるが、止めさせなくてはならない。そんなことをしてもあの王子はあなたの物にはならない。よしんば手に入れられたとしても、それはひび割れた器か蛇の抜け殻同然の、あなたが愛する青年ではない生き物なのだと。

 足元に置いた膳もそのままに駆けださんとした少年の背を、妄執ともつかない狂気が追いかける。

「こんなにされたお前を見つけたら、あの可哀そうな王子さまはどんな顔をするのかしら?」

 仰ぎ見た豊かな唇も漏れ出た吐息も、眼差しすらもじっとりと濡れていて、淫蕩ですらある。しかし上気した頬は叶えてはならぬ恋慕に悶える乙女の――彼女の娘のものに酷似していた。

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